ポンコツ山田.com

漫画やアニメ、小説などについて、思ったことを恬淡と。

オマージュは誰のためのものかという話

http://d.hatena.ne.jp/tunderealrovski/20090530/p1
昨日に引き続き、↑の記事を読んで思ったことをつらつらと。


tunderealrovskiさん曰く、「東のエデン」では現実の映画のニュアンスを端々に挟み込んでいるのですが、あるシーンでは大々的に黒澤映画「椿三十郎」のオマージュをしているのだそうです。

劇中では、時に「タクシードライバー」や「DAWN OF THE DEAD(ゾンビ)」、「さらば青春の光」といった映画のタイトルがそのまま引用され、時にキャラクターの台詞や所作に「ボーン・アイデンティティー」や「グラン・ブルー」といった映画作品のニュアンスを含ませます。

例えば「東のエデン」の第6話「東のエデン」の中で、以下のような場面がありました。

記憶喪失で身元不明の自称実業家という怪しすぎる男、滝沢朗を巡って議論をするサークル「東のエデン」のメンバーたち。すると突然、後ろに置いてあった机(?)が開き、中からサークルメンバーの一人である春日晴男というキャラクターが登場します。
そして、妙に時代がかった台詞回し(例えば、三人称が「御仁」)で、自分の意見を述べると、他のメンバーに一括され、再び机の中に戻っていくのです。
(中略)
押入れが机に入れ替っていますが、「椿三十郎」では素浪人の三十郎を巡って若侍たちが、「東のエデン」では自称実業家の滝沢朗を巡ってサークルメンバーが、「素性が分からない人間を信用するか否か」という話をしている最中に、他の人物が遮蔽物の向こうから話に割って入ってくるという流れが全く一緒です。

春日の時代劇のような台詞回しも含めて、これは「椿三十郎」のワンシーンの文脈を流用したパロディー…というよりはオマージュなのだと思います。

東のエデン」で度々引用される映画のタイトルなんかの小ネタと同様に、元ネタとなった映画を知っている人にとっては、思わずニヤリとしてしまう場面です。

Wikipediaを参照すれば、「オマージュ」は「芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。また作品のモチーフを過去作品に求めることも指す」だそうなwikipedia:オマージュ
この説明では、オマージュにおける関係性はオマージュする側される側の二者間に存在しているようですが、実際にはそれだけではありません。オマージュは元々作品(製作)サイドのみに存する観念なのかもしれませんが、いざ出来上がったオマージュ(を含む)作品を受け手サイドが味わう時、オマージュされた作品(元ネタ作品)を知っているか否かで、オマージュした作品の受け取り方も変化するのです。*1
で、その効果が何だといえば、まさに「元ネタとなった映画を知っている人にとっては、思わずニヤリとしてしまう」ということに尽きるのだと思うのです。
作品の中にさりげなく、あるいは自然にしのばされたオマージュは、オマージュを入れたつくり手側とその元ネタを知っている受け手側とにちょっとした連帯感を生み出します。「思わずニヤリとしてしまう」というのはそういうことで、受け手が「お、これはあの先行作品のオマージュだな」と気づくと、受け手は「私はこの作り手と似たような趣味をもっている」と思えるのです。簡単に言っちゃえば、同族意識を持たせられるってことなのですが、「作り手−作品−受け手」というつながりの中に、さらに「オマージュ」という紐帯が生まれ、作品と受け手がより強く結び付けられるのです。
tunderealrovskiさんも過去記事でこのようなエントリーを書いています。
http://d.hatena.ne.jp/tunderealrovski/20090125/p1(一応18禁作品の18禁な部分に触れているので、閲覧注意)
http://d.hatena.ne.jp/tunderealrovski/20090329/p1
tunderealrovskiさんはパンク系の音楽(でいいのかな?)に造詣が深いようで、漫画などで散見されるそれらの情報にしっかりと目が行っていて、それらを通じてより作品に対して感覚が深まっているようです。
パンクミュージックが作品とtunderealrovskiさんの紐帯になっているわけです。


言ってみればオマージュは、作り手が受け手にもっと作品を愛してもらおうと忍ばせた秘密のギミックということなのですが、ここで大事なのは「さりげなく、あるいは自然に」忍ばせてあることだと思うのです。「東のエデン」での「椿三十郎」のオマージュの例は、tunderealrovskiさん曰く、このようなものだったそうです。

ただ、映画を知らない人には、どうのように映ったでしょうか?

「春日晴男」というキャラクターが、ただ単に風変わりでエキセントリックなキャラクターとして描かれているように見えてしまったのではないでしょうか?

唐突過ぎる登場の仕方といい、春日の時代がかった台詞回しといい、明らかにこのシーンは他のシーンから浮いてしまっています。

自分の作品の文脈の中にうまく先行作品を溶け込ませられなかった場合、それはひどく悪目立ちしてしまいます。
文脈での整合性が綻びそのシーンが浮いてしまったり、下手をすれば、元ネタを知らない受け手に疎外感を抱かせることになりかねません。オマージュが元ネタを知っている受け手と作品を結びつける紐帯になるのであれば、逆に言えば、元ネタを知らない人間はその分結びつきが弱くなってしまうということになります。
もちろんオマージュは作品にとってプラスアルファの存在であり、ないのがデフォルトなのですから、オマージュの元ネタを知らないからといって即作品との結びつきが弱くなると言うことではありません。ですが、オマージュの存在があまりにもあからさまである場合には、元ネタを知らない受け手は「このシーンには明らかに何か別の意味があるだろうに、私にはその意味がうかがい知れない」という状況を生みかねません。作り手が受け手を選別しているような感覚が、あからさまなオマージュにはつきまとってしまうと思うのです。だからこそオマージュがプラスアルファに留まれるように、さりげなさ、あるいは自然さが求められるのです。




作品と受け手を繋ぐオマージュは、細かければ細かいほど元ネタが分かる層が少なくなりますが、その分つながりは強いものとなります。コアなジャンルや作品、あるいは同人誌などでは、より顕著にオマージュが見られる気がしますが、それは元々少ない読者層をなるべく強固に繋ぎとめておこうという意図からきているものなのかもしれません。ま、「見てる人が少ないんだから好き勝手やってしまえ」という気持ちが強いのかもしれませんけど。




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*1:こう書いていますが、オマージュとかパロディとか本歌取りとか、類似した概念の言葉は色々あるし、しかもそのどれにも厳密には当てはまりづらい技術、方法論もあるので、とりあえず「先行作品のあるシーン、セリフ、情景などを借り入れたもの、倣ったもので、作り手サイドと受け手サイドの関係性で語られるもの」を一括りに「オマージュ」と呼んでおきます。本来の「オマージュ」からは離れますが、ご了承ください