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漫画やアニメ、小説などについて、思ったことを恬淡と。

漫画(二次元)に落とし込まれた実写映画(三次元)のタッチの違いは誰が気づくのかという話と、「物語」の虚構性の話

http://d.hatena.ne.jp/tunderealrovski/20090530/p1
tunderealrovskiさんのブログでこのような記事がありました。以下、思うところをつらつらと。


tunderealrovskiさんは、漫画やアニメの作品世界に実写映画を登場させる(引用する)ことは、作品世界に違和感をもたらすことがあると書いています。

しかしながら、アニメや漫画作品に映画を引用することは、なかなかにリスクが高い演出であるように思うのです。

なぜならば、他のアニメや漫画作品からの引用ならいざ知らず、「実写」による表現分野である映画を、「絵」による表現分野であるアニメや漫画作品に持ち込むことによって、違和感が生じてしまうことがあるからです。

大槻ケンジ原作の漫画「グミ・チョコレート・パイン」を例に、二次元世界の漫画に三次元(実写)世界の映画を引用した際に生じる絵柄の差、そこから発生する不自然さ、ひいては漫画世界の存在性が揺らがされる危うさについて触れています。
tunderealrovskiさんの言うように、漫画で実写(三次元)の引用をするときは、絵のタッチを変えることで(ほとんどの場合は写実性を高めることで)「その絵が実写の引用である」ということをはっきりさせることが多いと思います。

神戸在住/木村紺 2巻 p82)
これは「神戸在住」の例ですが、作品世界のキャラである左のコマとの人物と、映画「卒業」の中の人物の描き方が対比的に見て取れます。
tunderealrovskiさんは言います。元は実写であるとはいえ、同じ作品世界に一元化された存在間でタッチを変えるのは不自然である、と。

しかしながら、本来ならば、この漫画のキャラクターたちと、「スケアクロウ」に出演している役者たちとは同じ次元に存在していなければならないはずです。ですから、絵のタッチに差異があるのは不自然なのです。

ですが、この漫画の中では、明らかに前者を「漫画」に、後者を「映画」に寄せて人物を描き分けています。

文字のみの表現である大槻ケンヂの原作小説では、ごくごく自然に行われていた映画の引用が、「漫画」という異なるメディアへと移行し絵が付いた途端に、実写と絵の差異がハッキリと明示されてしまったのです。

そして続けてこうも言います。

そして、読み手が一度こうした差異を目にしてしまうと、この漫画がフィクションであること、非現実的なものであることを強く意識してしまい、漫画が持つリアリティが消失してしまう恐れがあるのではないでしょうか?

ここで私が思ったのは、「漫画はフィクションであることを当為のものとして読まれているのではないのか」ということです。
漫画に限らず、映画でも小説でも映画でもアニメでも、作品としてまとめられたものはそれが実写であるなし、現実を基にしているいないに関わらず、虚構性、フィクション性を有するものだと思います。それは私がよく使うカッコ付きの「物語」性ということなのですが、つまりそれは、ある出来事を誰かに伝えるために起承転結のうち少なくとも「起」と「結」をもたせているということです。初めから終りまで、一つの意味が通じる「お話」としてまとめられているということです。
現実を基にした作品や自伝作品などはありますが、その現実とはいったい何を指すのでしょうか。どこからどこまでが現実なのでしょうか。ある人が現実世界を生きて体験した経験は確かに存在するものですが、その経験はイコール現実ではありません。経験(すなわちある体験の印象・記憶)の周りには、必ず現実に起きたことから切り捨てられたものが落ちています。
例えば「ある男性が道を歩いていたらすれ違った女性に一目惚れをした」という事件があったとします。この事件を経験として構成する際には、その女性の容姿や態度などの女性にまつわるもの、男性のその日の精神状態などが重要なものとして想起されるんじゃないでしょうか。
ですが、男性の身の周りの現実はそれだけしか存在していなかったわけではありません。女性とすれ違うまで家から何歩歩いたとか、今朝の食事は何だったとか、女性の前にすれ違った人は誰だったとか、重要とは思えないが確かに存在した現実があるのです。けれど、それの枝葉末節をいちいち挙げたてるのは大変な労力ですし、益もありません。たいして重要でなさそうなところはさっくり切って、より伝えたいところを重点的に要素として話の中に組み込む。それが「物語る」ということです。別に嘘をついているわけではありません。全部を伝えていないだけです。そしてそれは決して悪いことではなく、むしろやられてしかるべきものです。だって誰かの一目惚れの話を聞くのに、その日の朝食から聞いたってしょうがないでしょう?
ちょっと長くなりましたが、これが「漫画がフィクションであることは当為である」という言葉の意味です。


また、「同じ次元に存在しているキャラでタッチが異なるのは不自然」と言うのは、その次元の中に存在しているキャラが、タッチの違いに気づいているということを意味すると思います。
作品世界では、もともとその作品の中にいた人物も実写から引用された人物も、同じ次元に存在しています。作品の人物が作品内で実写映画(引用であろうとなかろうと)を見ているとき、その映画の中の人物も自分たちと同じ次元の人物だと認識しているわけです(同様に、見ているのがアニメだとすれば、自分とは異なる次元の人物だと認識しています)。読んでいる私たちが絵のタッチに違いを感じても、作品内のキャラにとってはそんなことは関係ありません。彼らは彼らの認識で物語世界を生きているのです。
私が漫画で実写が引用される際にタッチが異なっても違和感を覚えないのは、作品世界内のキャラに認識を同調させているからです。作品世界のキャラにとっては、タッチの違いは存在していません。あくまで同次元に存在しているものです。


なもんで、私の考えとしては「そもそもフィクションである漫画(広く二次元メディア)の中に実写(三次元)を意識させるものが出てきたとしても、作品世界の存在性が毀損されることはないのではないか」ということになるのですが、そこからちょっと発展して、「では、なぜ多くの漫画では実写からの引用の際にタッチを変えるのか」ということも考えてみましょう。
シンプルに考えれば、それは現実からの引用であるという点を強調したいからだと言えるでしょう。
漫画は二次元。これは前提です。漫画の世界で生きているキャラはどんなに立体感を持って描かれようとも、二次元であることから抜け出せるわけではありません。
実写映画は三次元。これも前提です。スクリーン上に映し出された以上もう二次元になってしまったのではないかとも思いますが、もともと三次元の存在を撮ったものなので三次元ということにしておきましょう。
で、この三次元の実写を二次元の絵の中に落とし込むわけですから、当然変換作業、つまり絵にする作業が必要です。もともと二次元の中を生きてきた漫画世界のキャラと、もともとは三次元にいた映画のキャラ。一旦変換作業を伴う以上、両者の存在の境位には差があってしかるべきかも知れません。
あるいは逆に、もともと二次元にいたキャラとは違いこのキャラは外部(=三次元)からやってきたのですよ、写実的に描かれたこのキャラはこの作品の中に元からいたのではなく外からやってきたのですよ、ということを強調するために、タッチが変えられているのかもしれません。それは、フィクションの世界に現実世界の風を吹かせて、現実世界とのリンクを強めたい、作品世界の存在性を強めたいという意図だと思うのです。




とりあえずここまでが前半戦。また明日にでも後半戦「オマージュは誰のためのものかという話」を描きたいと思います。






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