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漫画の話です。

「ネウロ」と「戦地調停士」シリーズ 最期に笑顔で死ぬ人間と、最期に微笑みかけられた人間の話 あるいは死の有責性についての話

※以下の文章では「魔人探偵脳噛ネウロ」の終盤の展開について触れています。未読の方はご注意ください。

魔人探偵脳噛ネウロ 21 (ジャンプコミックス)

魔人探偵脳噛ネウロ 21 (ジャンプコミックス)

21巻で、刑事・笹塚は家族の仇であるシックスを廃工場で追い詰めたはずが、伏兵・Xi(サイ)改めXI(イレブン)に返り討ちに遭ってしまいました。拳銃を突きつけられ死の淵に立たされた彼の脳裏には走馬灯が過ぎり、一瞬のうちに過去から現在へと記憶を振り返った彼は、工場の窓からこちらに向かって叫んでいる探偵・弥子を最期に見て微笑み、直後に拳銃をぶっ放されました。
その光景を目の当たりにした弥子は大きなショックを受け、その後の本城博士とのやり取りもあり、探偵の看板を掲げていた自分の過去を否定するところまでいったのですが、脱獄してきたかつて彼女が捕まえた犯人・アヤ・エイジアとの会話により、自我を立て直しました。


この一連の流れを読んで既視感を覚えたのですが、それが何かと考えると、上遠野浩平先生の「海賊島事件」なのですね。
海賊島事件 (講談社ノベルス)

海賊島事件 (講談社ノベルス)

この作品の主人公・インガ・ムガンドゥ三世は海賊団の現頭首であり、ソキマ・ジェスタルス島=海賊島の主でもあるのですが、彼が頭首を継いだ契機となる事件は、父親の暗殺でした。
ある国の即位式に、資金援助者として出席していた彼の父=ニーソン・ムガンドゥ二世はパレード中の観覧中に爆弾テロに遭ったのですが、付近から父の動向を監視していた三世は現場に急行し、瀕死の父親の枕頭で自分の側近(それは同時に父親の部下でもあるのですが)に、時期海賊団頭首としてなすべきことをてきぱきと指示しました。目の前で実の父親が死に掛けているにも拘らず、彼は組織の今後の対応を優先させたのです。冷酷かつ冷静な彼は、指示を出し終わり側近がそれを実行しようとその場から離れてから、初めて父親に向かい合いました。生き残った者はその場に二人しかいないという状況で、彼は父親に、最期に言い残すことはないか、と問いました。すると父親は何も言わず、「穏やかに、優雅に――静かに」微笑んだのです。
最期に一言言い残すくらいの余力は残っていたにも拘らず、ただ微笑んだだけの父の態度は、彼の心にトゲとして後々まで刺さり続け、「海賊島事件」にクライマックスでリーゼ・リスカッセ大尉にその意味を教えられ、初めて理解したのです。


つまり、死ぬ間際に微笑んだ者と、微笑まれた主人公という構図なのですが、それ以外にも共通する点があります。一つは、微笑まれた主人公はその笑顔の意図を理解できなかった、という点です。弥子の場合は、直接的に彼女が不理解を示したシーンはありませんが、アヤの「その残した笑顔の意味… 私にはわかる気がする」という発言から、弥子は理解できていなかった、と判断していいでしょう。
もう一つは、その当の笑顔の意図です。アヤ・エイジアは言いました。

もし私が同じ状況であなたを見たら 一瞬心配してその後
…やっぱり笑うわ
(中略)
あなたには力がある 運がある 皆の助けがある それを私は知っている
「この子なら問題ない この先どんな試練も乗り越えていけるだろう」…って

魔人探偵脳噛ネウロ 21巻 第185話より

リーゼ・リスカッセは言いました。

「そんなこと、わかりきったことじゃりませんか」
(中略)
「あなたのお父上は、――要するに、あなたが死に際に現れてくれて、ほっとしたんですよ」
(中略)
「だから――自分はやられてしまったけど、すぐにあなたが組織を立て直してしまうのを見て安心したんです――あなたが父親の死を前にしてもまったくダメージを受けずに、冷静に事態に当たるのを確認して、その――頼もしい、と思ったんですよ。簡単なことでしょう?」

海賊島事件 p289,290より

両者とも、主人公たちの行く末を安心したために、末期に微笑みを残したのです。
興味深いのは、両件とも当人は意味がわからず、第三者にはその意味が理解されていることです。
おそらく、それはきっと、自分の目の前で人の死に接した人間と、直接接することなく、且つその当人(主人公たち)を知っている人間の差なのだと思います。これは、死を目の当たりにしたために理解力が低下していた、という話ではありません。人は、身近な人間の死について、実際にそれがあったかどうかを問わず有責感を覚えます。
身近な人間の死に対して疚しさを覚えるもの、それが人間なのです。これは「服喪」という人間固有の特質に関わってくる話なのですが、弥子もインガ・ムガンドゥ三世も、直接的に自身が彼らの死因に関わっているわけではありません。あくまで二人は、死の間際に立ち会っただけです。それでもなお、二人はその死の有責性に苛まれます。
弥子は大いに取り乱しましたが、三世は実に冷静に事後処理をこなしました。その態度には実の父親の死に対する情緒的な感慨など一片たりともないようですが、それでも自身の知りえないところで父の死について疚しさを感じ、ために、冷静な判断力と合理的な理知を持ち合わせた彼をして、父親の臨終の微笑の意味を気づかせなかったのです。
作中きっての権力者であり、かつ知者でもある三世ですが、「死に対する有責性」という人間特有の宿痾から自由になることはできず、それに気づくことさえできませんでした。彼から話を聞いただけである第三者のリスカッセ大尉にあっさり看破された父の微笑の意味を理解できなかったことが、逆説的になによりのその証左であると思います。
アヤ・エイジアやリスカッセ大尉にとっては、彼らの死は言ってしまえば他人事です。直接その場に居合わせたわけでもなく、「知人の知人」程度の遠さの存在なのです。それゆえに、(彼女らの聡明さもありますが)話を聞いただけで彼らの微笑の理由がわかります。彼女らは主人公たちの能力の高さを知っているから、死の間際に彼らを見たとしてもその先行きに不安がないことを感じ取り、微笑んで死んでいける末期の感情が理解できるのです。


「服喪」が人間とサルを隔てるものである、という話があります。読み手の心に訴える死を描く(書く)ときには、その問題が常に伏流していると思うのです。






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