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「物語」としての歴史の善悪と、「へうげもの」の数寄心フィルターの話

歴史とは「物語」であると思う。
それは、過去に起きたことがフィクションであるということではなく、過去のそれぞれの出来事を因果関係で結びつけ、意味を持たせているということだ。言い方を変えれば、歴史の本にはそれを読むものが納得できるように(極論すれば、楽しめるように)流れや筋道があるということになる。その意味で歴史の本と一般的な小説との違いは、その中身が実際にあった出来事に依拠しているのか、それとも作者の想像に拠っているものなのかという点だけだ。
洋の東西を問わず、歴史の教科書を紐解けば、ある事件が起こったのはこれこれこういうことのためだ、ということがさも当然のように書かれている。例えばアメリカの独立戦争は、「ボストン茶会事件」でアメリカの住民の不満が爆発し、翌年のフィラデルフィア大陸会議で本国に抗議するも聞き入れられず、さらに翌年の1775年にレキシントンで戦争の火蓋が切って落とされた、というように学んだ人も多いだろう。大筋として、ボストン茶会事件フィラデルフィア大陸会議レキシントン=コンコードの戦い、というのは共通していると思う。
だが、その出来事が起こったのは確かだろうが、その因果関係が、引力がある→リンゴが木の枝から離れる→地面に落ちる、というように明確かというと決してそうではない。茶会事件が独立戦争を引き起こした必然性はなく、「たまたま」住人の不満が爆発したのが茶会事件であった、というのが本当だ。コップに満ちた水を溢れさせたのは最後の一滴かもしれないが、その一滴がなければ水は溢れなかったわけではない。今までに溜まった水と一緒になって最後の一滴がコップの水を溢れさせたように、今まで溜まっていった住人の鬱憤を爆発させたのが「たまたま」そのとき起こった茶会事件だったのだ。それ以降に大きな事件がないまま大陸会議が開催されたので、茶会事件が重要なメルクマールとして記憶されているが、それ以前の印紙法やタウンゼント諸法のために住民の不満が爆発していれば、それが茶会事件に取って代わっていただろう。
また、これはアメリカ大陸からの視点、つまりアメリカ(当時はまだ国としての「アメリカ合衆国」は存在していなかったが)とその本国であるイギリスの関係性に着眼しているが、当時のヨーロッパはフランス革命前夜であり、ヨーロッパ内でのイギリスの立ち位置も考えなくてはならない。市民意識の拡大は、大西洋を越えてアメリカに波及していた。
また、大航海時代以来の植民地政策、経済政策によるヨーロッパ内での争いも、アメリカ住民が戦端を開いたきっかけにもなっただろう。産業革命による労働体制のドラステッィクな変化は、イギリスの社会状況に大きな影響を与えていた。
もしかすれば、黒人奴隷の輸出元だったアフリカ各地の事情もあったかもしれない。イギリスに搾取されつつあった中国の経済・文化事情だって関係がないとは言い切れない。
物事の因果関係はバタフライ効果で表されるようにカオス系に組み込まれており、どの出来事が他の事件に影響を与えているのかなんて、明確に限定しきることなどできないのだ。


それでもなお、教科書では明快に因果関係を説明している。なぜかといえば、その方が歴史を学ぶものが理解をしやすいからだ。
人がコンピューターに勝っている点は、理解できないことを理解できないままにできる点だ。機会は認識したものを「なんだかよくわからないもの」とすることはできない。既知のものに無理矢理同定するか、さもなければノイズとして無視することになる。けれど人間は、なんだかよくわからないものは「なんだかよくわからない」フォルダに入れることで、とりあえずその判断を棚上げすることができる。そして、いつかその正体を判明させることのできる情報がそろったときに、また別のフォルダに移動させるのだ。
だが、そんな人間特有の能力は負荷が高い。なんだかわからないもの、意味が通らないもの、筋が見当たらないものをそのままにしておくのは、存外記憶の容量を食うのだ。
例えば「19630317」という八桁の数字。これを単独で覚えようとしても難しいが、この数字は甲本ヒロトの誕生日であるという情報があれば、覚え方にもとっかかりがでるだろう。ファンにとってみれば、「19630317」はただの数字の羅列ではなく、「甲本ヒロトが1963年3月17日に生まれた」という情報で認識されるのだ。
このように、歴史上起きた出来事も、ただ何が起こったかを覚えるのではなく、誰かが死んだからその結果として何かが起こった、のように因果関係として結びつけた方が記憶が容易なのだ。出来事に意味を与えているといってもいい。
そしてその「意味」は、特に幼い者に向かうときに善/悪の対立構造をとりやすい。私が読んだ学研の歴史の本(漫画プラス文章)では、飛鳥時代聖徳太子についての記述で、新しく大陸から流入してきた仏教を支持する聖徳太子蘇我氏)が明らかに正義サイドと描かれ、日本の神を護持しようとする物部氏ははっきりと悪として描かれていた(端的に端正な顔と悪人面という差のある描写だった)。
恐らく生まれて初めて接した日本史の本がこれだったために、幼い私はこの印象を強く意識し、聖徳太子=正義、物部氏=悪というイメージがついて周り、それにひきずられるように、日本の神よりも仏(仏教)の方が優れているものだ、とも思っていた。
だが、それから数年してから「火の鳥 太陽編」(だったと思う)を読んで、仏教側が悪者然として描かれていたことに強く違和感を覚えた。当時の私は混乱した。あれ、仏教のほうが正しいものじゃなかったのか、と。
学研の本で太子側が「正義」と描かれたのは、以降の歴史が太子サイドを主導に進んでいったからだ。もし太子サイドが「悪」だとすれば、そこから連なってきている現在の社会体制は「悪」となってしまう。子供向けにわかりやすく、歴史上の事件の対立を善悪の対立として説明しているのだが、それはまずい。それゆえ、政争に破れた物部氏は「悪」として描かれるのだ。その意味でも、「歴史とは勝者の日記である」というのは的外れな言葉ではない。現在の「勝者」にとって都合のいい説明が「歴史」なのだ。
正しいものが悪いものをやっつける勧善懲悪の痛快譚は、読むものを刺激しやすい。子どもに歴史に興味を持たせるには、わかりやすい「物語」を用意してやるのがいいのだ。
高校レベルの教科書になれば、単純な善悪の対立ではなく、出来事の「中立性」を維持しようと出来事の因果関係に主軸をシフトした記述となる。特に私の高校で使われていた山川出版の教科書は、教科書の出版社の中でもトップレベルにお堅い本だったと思う。簡単に言えば、読んでて面白い本ではないのだ。出来事の筋道は必ずしも確定できるものではないということを意識して歴史を記述しようと思えば、散漫になりやすい。「これもあったけどあれもあった、でもそれもあったんだよね」という記述よりは、「これこれこういう理由でこの事件が起こったのだ!(ドン!)」という記述のほうが読んでいるほうは面白いし、覚えることも容易だ。


戦国時代を舞台にしている「へうげもの」は、主人公が数寄者の古田織部だ。

へうげもの(8) (モーニング KC)

へうげもの(8) (モーニング KC)

そこでは己の数寄心と戦国武将としての武功を秤にかける織部の葛藤がメインに描かれているが、同時代の織田信長明智光秀豊臣秀吉千利休徳川家康らも重要なキャラクターとして存在している。
面白いのは、この作品には善悪の明確な軸がないことだ。織部には織部の善悪の判断基準があるように、信長以下のキャラクターにも各々の善悪基準、行動基準がある。数寄と武功、さらに主君(信長)や師(利休)への忠誠の間に揺れる織部の葛藤は、信長殺しを画策したのが秀吉であり、さらに裏で糸を引いていたのが利休であると知っても彼らを恨むことができずにいることなどで描かれているし、利休も己が理想とする「詫び」が最高のものだと広めるために、誰かを殺してでも政治を動かそうとしている。秀吉も、信長への恩を知っていても自分の野望のために彼を殺す。明智は信長の一族による日本の支配に我慢ならず、民のために自分の命を賭けて立ち上がった。それぞれがそれぞれの胸に、何が一番大事なのかと異なった秤をもっている。
それが、「数寄心」(古田織部)という、歴史物としては異質なフィルターを通して描かれている為に、キャラの判断基準(善悪の基準)が複数あろうとも、物語として軸がぶれることがないのだ。単純な善悪ではなく、織部の数寄心に基づく葛藤が主軸としてあるために、各キャラの善悪が物語全体に影響を与えはしない。あくまでキャラの善悪はキャラの内部に留まる。わかりやすい勧善懲悪がないにも拘らず、歴史物語としてぶれない軸をもっているのは、数寄心という軸があるからなのだ。
歴史という観点から見れば確立させたほうが便利であろう善悪の基準を定めぬままに、言ってみれば各キャラ立ちの要因に留まるままに描いている「へうげもの」は、歴史物としては極めて異色な作品であり、同時に極めてエンターテイメント性をもちうる作品になっているのだと思う。






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