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漫画の話です。

「よつばと!」に見るコマ送り技法のニュアンスの話

よつばと! 8 (電撃コミックス)

よつばと! 8 (電撃コミックス)

先日ふと思い立って全巻読み返してみたんですが、最新刊(つっても半年以上前ですが)では今までほとんど見られなかった技法が使われていると思うんです。
私は以前「よつばと!」を、「普通な世界を新鮮な目で見る」作品と評しましたが、それをもうちょっと具に説明すれば、「私たちが親しんでいる日常を、子どもの視点という新鮮な非日常で切り取っている漫画」と言えます。
よつばと!」の世界は、日本のどこかにはありそうななんでもない町ですが、それをなんでもないと思えるのは私たちが歳をとったからで、自分が子どもの頃を思い出してみれば、近所の神社の裏側や小さな川の橋の下がどれだけ不思議に満ちていて、どれだけ魅力的なものだったかわかるんじゃないでしょうか。ましてや主人公のよつばは外国から日本に来た子(今5歳で、何歳の時までいたのかは8巻現在では明らかにされていませんが)で、さらに日本に来てから今まで住んでいた祖母の家から新しい町(8巻の法被の文字より、「咲宮町」と推測できる)に引っ越してきたのです。しかも、第一話によればよつばは今までブランコで遊んだことがなく、それはつまり外で遊んだ機会が少ないか、さもなければ遊具つきの公園もないような田舎に今まで住んでいたかどちらかでしょうから、それなりには開けている咲宮町に越してくれば、なおのこと見るもの全てが目新しく映るでしょう。よつばの視点で物語が進めば、世界の切り取り方はとても細かくなるのです。
それを漫画的に言えば、コマ間による動作の省略が減るということだと思います。
よつばと!」のように日常を切り取る漫画である「それでも町は廻っている」から例を出してみましょう。

それでも町は廻っている/石黒正数 4巻 p191)
この一連のコマで、前頁の流れを受けて主人公・歩鳥が、年賀状をポストに投函するついでにもらった革ズボンを返却しに行っていますが、時間的・空間的にもある程度の流れを必要とするところを、わずか3コマで済ましています。最初の景色だけの小さいコマは、前頁最後のコマでは家の中にいたのを、外に出たことを示す導入的なコマで、次の2コマで行為二つを表しています。
なぜこの流れが3コマで表現されるかといえば、それは単純に、話の文脈上この流れを最低限のコマ数で説明したいからでしょう。もしこの流れがもっと重要な意味を持っていれば、一ページ丸々使って説明してもいいのですから。まあミステリー仕立ての作品ではヒントになるようなコマをあえて小さく描くこともあるので、その辺はケースバイケースですが、このお話では文脈上それは考えられません。
ですが、「よつばと!」ではほんの些細な行為に、あえてコマを費やすことがあります。

よつばと! 8巻 p18)
これは、ネコが自転車を足がかりにして塀に上ったのを見て、よつばが真似をして塀によじ登ろうとしているシーンです。

(同書 p197)
これは、父ちゃんと出かける際によつばが「鍵を自分にかけさせてくれ」とせがんで、実際にかけたシーンです(まるで関係ない話ですけど、北海道では鍵をかけることを「じょっぺんかる」と言うそうですが、本当なんでしょうか)。

(同書 p207)
これは、公園でどんぐり拾いをしていたよつばが、ベンチで待っていた父ちゃんのところへ駆け寄るシーンです。
普通に考えれば、これらのシーンは日常の中のほんの些細な出来事であり、一般的な漫画ならコマ数を減らすか、さもなければもっと小さいコマで描くことでしょう。
そこをあえてそれなりに大きなコマで、かつ行動を細かく分解して描くのは、この行動が日常を新鮮な目で生きているよつばを主体としているからに他なりません。私たちにとっての当たり前は、幼いよつばにとって目新しいものなのです。
さて、行動を細かく描くこと自体は今までの連載中にもやられてきたことですが、8巻で何が変わったかといえば、行動描写の分解を、コマ内の絵の「地」の部分を動かさずにしていることです。
もう一度例に挙げた画像を見てみてください。大きな動作をしているよつば以外は、コマの視点も含めてほとんど動いていないことがわかります。

(1巻 p31)
例えば一巻のこのコマ群では、電信柱を見つけてそこに上ろうと思いついたよつばが3コマで描かれていますが、カメラの位置も、よつばの大きさも全て変えて描かれています。これは、読み手の読むリズムに緩急をつけて飽きさせないようにする、至極一般的な描き方ですが、それが8巻になってあえて「地」を動かさない方法を取り始めたのです。
思うに、「地」を動かさずに特定のキャラだけを大きく動かす、いわゆる「コマ送り」の方法は、子どもであるよつばの動作の分解を際立たせるには、とても都合がよいのでしょう。コマごとに視点を変えて行動を分解すれば、確かに読み手のリズムに飽きは訪れづらいですが、同時によつばの動作に過剰なダイナミズムが生まれてしまってもいるように感じられます。
過剰なダイナミズムは、いわば大人(=読み手)の都合です。子ども(=よつば)にとっては新鮮な世界でも大人にとっては当たり前の日常を描くときに、大人を飽きさせないためにリズムの緩急をつい必要としてしまいます。少なくとも、大人の視点で描かれる一般的な作品の場合はそれが普通です。
ですが、視点の動かないコマ送りは、行為主体である子どものよつばが、その行為に集中していることを表せるのではないでしょうか。大人でも何かに集中すれば他の事が目に入らなくなるものですが、何でも目新しく思えるよつばは、大人にとって当たり前の行為でも新鮮な感動でもって集中できるのです。動かないコマの視点は、その行為に集中しているよつばの意識と同調しており、それを受け取る読み手もまたよつばと同調するのだと思います。
つまり、8巻でよく出るようになる行動分解のコマ送りは、世界を新鮮な目で見るよつばに読み手が同調する効果的な手法なのだと言えるでしょう。
ただ、それをあまりにも使いすぎれば、コマ割が非常に単調になってしまいますから、あらゆるところではなく要所要所に使われているものだということは言い添えておきます。p197の例などは、その最たるものでしょう。


さて、最後にまだ上手く説明できないことも書いておかなくてはいけません。
実は、コマ送り自体は序盤から頻繁に登場しているのですが、そのほとんどはよつばの行動の分解というよりは、ネタのために使われていると思われます。

(同書 p168)
このコマは、前頁最後の、高台の神社から町を一望しているよつばが自分の家を指差した、という流れを受けていますが、それが見当外れの方向だったというのを言うのに1コマ挟むという、あずま先生的な一ネタの作り方だと思うのですが、そのネタ的なものを説明するのに上手い言葉が見つからないので、今回はそういうコマ送りの使い方もあると思う、ということだけを言っておきます。






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