ポンコツ山田.com

漫画やアニメ、小説などについて、思ったことを恬淡と。

物語の「リアルさ」ってのはなんなのだろうかという話

伊坂幸太郎の書くキャラは、いい意味で生々しくない。ケミカルっつーか人工的っつーかに通じるところのある話なんだけど、キャラの動きや感情の生起がとても戯画的だ。
参考;「モダンタイムス」を読み終えたので、改めて伊坂幸太郎の面白さを考えてみる(ネタバレなし) - ポンコツ山田.com
きっと、そこらへんの雰囲気が視覚化に馴染まない理由なんだと思う。ある意味で、リアリスティックとはまるで無縁の文章表現なのだと言ってもいいかもしれない。


というか、物語を有する作品における「リアルさ」「リアリティ」ってなんなのだと最近よく思う。
「リアルさ」は作品評価の指標として簡単に口にされるが、「じゃあ『リアルさ』って何?」という問いが立てられた時に、きちんとそれを言語化するのは、たぶんとても難しい。


単純に考えれば「リアルさ」とは、現実との照応性や、実際に存在するものをいかに的確に表現するか、などを言うのだろう。その意味でリアルじゃない例を挙げれば

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などがそうだろう。新條まゆ先生の、いわゆる「世界一腕の立つ殺し屋」だ。ググれば突っ込みどころはいくらでも見つかるので、ここでは割愛。
仮にこのシーンで、このキャラがアサルトライフルではなく長距離狙撃用のライフルを構えていたり、ちゃんとスコープがついていたりなんだりの、諸々の「リアルさ」を備えていたとして、それは果たしてプラスの評価になるのだろうか。それは単に正確な描写であり、ある意味では当たり前の描写である。このキャラがあまりにも頓珍漢な行為をしているために、シーンにネガティブな評価(ネタ的には極めて高評価だが)が加えられている。つまるところ「リアルさ」とは、あったところで当たり前、それがないと非難される類のものなのではないかと思う。
その意味で、「リアルさ」の追求はリターンが少ない。
しかし、それが度を越えればもちろん大きなリターンとなる。たとえば「よつばと!」のこの例。
「よつばと!」8巻の最後の方にある稲刈りシーンがリアル過ぎて農家の俺でも吹いた。
私はこのシーンは特に気にかけずに読み流したが、実際に稲作に従事している人間としては、目を瞠るほどの「リアルさ」を持っていると映ったわけだ。だが、逆に言えばこれは、稲作に従事している人間でもなければ、描写の的確さが伝わらないということだ。コメントやブクマなどの反響を見ても、多くの人間が私と同様にこの「リアルさ」に気づいていなかったのだろう。ここまでこだわれば、もう「あって当然」ではなく完全にプラス評価の対象となるが(逆に殺し屋の例は、ひどすぎてもう笑いの対象になったというわけだが)、それでも誰にも気づかれなかった可能性はある。
「神は細部に宿り給う」というが、「よつばと!」はこの例でもわかるようにそれが顕著に露わになっている作品だろう(個人的には「エマ」もその線で推したい)。専門に従事している人間で初めて理解できるように描きこまれた細部そのものが物語を際立たせるのではなく、そのレベルで描きこもうとしている作品への態度が、作品を丁寧な、誠実なものに仕上げているのだと思う。
まあでも「よつばと!」はたぶん例外。このレベルに届かない領域で、「リアルさ」という言葉は平気で使われている。


視覚を伴わない小説では、三次元をいかに文字世界で再構成するかという問題が常に立ちはだかっている。早い話、現実に存在するものをその実際を損なわずに伝えるには、文字を使うより絵を使ったほうがよっぽど早いしよっぽど正確だ。上記の「よつばと!」のような「リアルさ」を出そうと文字表現を費やせば、たぶんそれは小説ではなく稲作指南書になる。だが絵を伴う漫画なら、何の説明もせずとも一発でその様子を描写できるのだ。
それでもなお文字表現が有するアドバンテージは、「関連があるけどなかなか思いつかない言葉遣い、語彙選択」で実際の事物に「イメージ」を付与することなのではないだろうかと思う(あとは、文字に伴う音によるリズムもあるけど、今はひとまずおいておく)。
視覚表現は、その事物の印象がストレートに届きやすいので、意味がわかりやすく解釈が容易な分だけ、外側に広がるイメージが生まれづらい(たぶん)。「戦艦ポチョムキン」の昔から、複数の異なる映像同士を関連させ解釈を生み出すことはしているけれど、それもやっぱり1+1=2や3×5=15のような直接的なイメージだ。理屈で通じるイメージと言ってもいい。それに対して、「それをそう表現するのか!」という意外性を多く有しうる表現媒体なのが文字メディアだと思う。
このとき小説に「リアルさ」は過剰に追求される必要のないものだと思う。言葉をいくら費やしても、決して現実の光景には届かない。それが言葉の宿命だ。
だが、事物を直接表現する言葉でなく、別のイメージを喚起する言葉を使うことで、読み手の中に作り手の考える光景をそれぞれの形で展開することができる。
伊集院光がラジオの魅力を「絵がないからこそ想像できる」と表現するように、小説もそういうものだと思う。視覚の限界がないからこそ、いくらでも世界が広がるというか。
伊集院光が好む表現に「松の木におじやをぶつけたような顔」というものがある。これはブサイクを表現する言葉だが、「松の木におじやをぶつけた」というのは、本来顔の表現としては適当ではない。なにしろ顔を現す要素が一つもないのだ。だが、松の木のゴツゴツした樹皮だとか、おじやのどろっとした不定形の質感だとか、微妙に熱のある感じとか、そういう諸々の要素を比喩と捉えて、受け手は各々の頭の中に「松の木におじやをぶつけたような」顔のブサイクを想像できるのだ。その顔はもちろん同一ではないだろ。だが、それをイメージできていれば、具体的な顔の描写をするよりも、より多くの共感を得ることができる。画像的な処理が苦手な(私のような)人間は、具体的な顔のパーツの特徴を言われても顔を浮かべがたいが、「松の木におじやをぶつけたような」顔といわれれば、なんとなく「ああ、あんなのかな」と思える。それが言葉のイメージ力なのだ。


漫画なんかは文字と絵のハイブリッドメディアだけど、絵がある分だけ文字のもつ可能性(表現の余地)は減殺されやすいだろう。絵の利便性はそれだけ際立っているし、漫画ならばそれが正しい道だと思う。字ばっかりの漫画は、コナンの例を出すまでもなく読みづらい。まあ推理漫画という、文字の方が表現に適する「理屈」をメインに取り扱うジャンルである以上、避けがたいところではあるが。




「リアルさ」は確かに作品の価値指標になりうるけど、それは一般に口にされるよりはたぶんずっと限定的だ。そもそも「作品」というもの自体が作り物なわけだし、根本的に非現実的な存在を現実的か否かで価値判断するのは、なんかしっくりしないな、と思うのですよ。
個人的には、「リアルさ」と似たようなところを指すけど、言葉と指示内容がもっと合致している価値指標として「説得力」というものを使いたいがいかがだろうか。
たぶん「あれってリアルだよねー」と口にされた場合、たいていは「その描写で私は納得がいった」という意味の言明なのだと思う。「リアルさ」とは「現実にそれがありうるか」、つまり「それが私の身に起こったときに、私がそのような行動を取る可能性はあるか」というものなのではないか。それなら「説得力」という言葉のほうが、的を射ていると思う。
もちろん「リアル」は、最初に述べたように現実との照応性、事物の的確な表現を評価する言葉として、充分有用だ。だけど、横文字言葉の持つ曖昧さや、「リアル」という言葉自体が妙にもてはやされた感があり、「リアル」の意味が肥大してしまっている気がする。ほどほどなところで歯止めをかけて、わかりやすい言葉を選んだ方がいいんじゃないかなあと考える今日この頃だ。






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