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「運」に縛られる麻雀を漫画で描くにはどうすればいいのかという話

同じテーブルゲームの中でも、麻雀が将棋や囲碁、チェスなどと違うのは、運の比重が圧倒的に大きいことです。プレイヤー各々でその按配に意見はあるでしょうが、私は7:3で運だと思っています。麻雀では、自分に隠されている情報が卓上に溢れているために、運の比重が大きいのです。
将棋や囲碁は、どのように駒を動かしたり石を置くかについて、ルールに則っていさえすれば各プレーヤの自由ですが、そのルールさえ知悉していれば相手が何をするか予測できますし、それを考えるための要素は全てプレイヤーの目の届くところにあるのです。例えば将棋なら、駒は全部で40枚ですが、それは初めから全て盤上にありますし、相手の駒を取ったり自分の駒が取られても、その行方ははっきりと晒されています。
ですが、麻雀の全136牌の内、初めから所在がわかっているのは自分の手牌の13枚(親なら14枚)+ドラ表示牌1枚の、計14(15)枚でしかないのです。それ以外の牌については、局が進んでいく過程で少しずつ明らかになっていきますが、仮に誰一人鳴かずに(自分の牌の一部を公開せずに)流局(誰もアガらずに一つの局が終わること)したとしても、手牌13枚+捨て牌75枚+ドラ表示牌1枚の89/136、全体のおよそ2/3しかわからず、全員鳴きまくりの裸単騎、さらに誰かが四槓子を聴牌して、カンドラが四枚ひっくり返ったとしても(要するに、ルールの上ではありうるけど、普通にやってればまず出現しないような状態)、ドラ表示牌以外の王牌9枚+各家の手牌1枚ずつ、計12枚は、最後の最後までわからず仕舞いなのです。
イカサマをしない限り、絶対に知ることのできない部分があるのが、麻雀なのです。


さて、長々と前提の部分を話しましたが、これが麻雀を題材に漫画を描くにあたってどんなネックになるかというと、勝つ人間は、結局のところ「運がいい」のだという側面から逃げられなくなるのです。
テーブルゲームに限らず、どんな競技でも運のよさは重要なファクターではありますが、それが極端に肥大してしまうのが麻雀を含む一般的なギャンブルです(ポーカーとかブラックジャックなど。競馬や競艇はギャンブラー本人が競技に関われないため除外)。
「なんで強いの?」「運がいいから」
これは一つの真実なのですが、作品の中でそれのみを言及されてもいまいち面白くないです。そんな漫画、カタルシスがありません。
では、そんな麻雀をいかに作品として面白くするのか。
運の要素が極端に大きい麻雀が将棋や囲碁と共通するもの、それは人間を相手にやりとりすることです。相手も自分と同じく、あらゆる方面から勝利を狙っている。それが、ゲームなのです。
将棋の「ハチワンダイバー」なんかは、将棋をまさに人の心と心のせめぎあいとして描いています。「ハチワンダイバー」は将棋漫画としてはかなり不親切で、十何手詰めの段階で詰んだとしても、そこまでの手順を読者に説明せず、ただキャラクターたちの敗北宣言でもって勝負を終結させています(例外的に、「ばあやのぬくもり」でのマムシとの再戦では、十五手詰めまでの説明がされています)が、その勝負内容は意地の張り合い、心の削りあい。ただ盤上で駒が動くのではなく、その駒にどんな意思が乗せられているかというのをお互いが噛み締めあって、勝負がなされているのです。
さて、ここでまた麻雀と将棋の違い。それは勝負の単位です。将棋は一局につき一勝。三回勝負をすれば、三回分の勝ち負けがあります。ですが麻雀の勝敗の単位は(今の日本では普通)半荘(勝負の最小単位が「局」で、それが八局分。親が二周する)。しかも大事なのは勝った(和了った)回数ではなく、最終的な点棒の多寡。一回勝った(和了った)ごとに点数がやりとりされますが、その点数は和了の形次第で変化します。
しかも麻雀は4人で順位をつけるもの。4人分の思惑が勝負の中で入り組むのです。オーラス(半荘の中の、一番最後の局)でトップはいかに逃げ切るか、下の順位の人間はいかに順位を上げるか。さらに、二位三位は下から追い上げられるのも邪魔しなければいけない。自分の手牌次第で得られそうな点数を予測して、上を狙うのか、下を邪魔するのかを、局の最中にも時々刻々と変化する状況で判断する。これが、人を相手にすることの面白さだと思うんです。


現実に麻雀をすれば、勝てないときはどうしても勝てません。「上手さ」があれば相手に振り込むことをなくし、点数の減少を抑えることはできますが、相手がツモれば「上手さ」とは関係なく点数が減りますし、自分の手牌がボロボロなら和了ることができず、点数が増えません。麻雀をやる人なら、このどうしようもない焦燥感を理解してくれるでしょう。「俺がいったいどんな悪いことをしたのだ」と天に嘆きたくなります。
しかし、漫画でそんな「運の悪さ」を現実にそぐわせて描いたとしても、決して面白くはないでしょう。
「なんで勝てないのか」「運が悪いから」
これじゃあ読んでるほうも「なんだそりゃ」です。それが現実的に十二分にありえるものだとしても。
ですから、身も蓋もない「運」という要素をなるべく目立たないようにするために、心理描写を上手く描く必要があるのだと思います。福本伸行先生の「アカギ」なんかはまさにそれで、主人公アカギのチートな強さに説得力を持たせるために、「上手さ」の部分、それも麻雀をしている人間の心理を読む「上手さ」をきちんと描いているのです。
それを上手く言い換えた言葉が「自分の感性に殉じること」です。アカギは鬼のような読みで相手の心理を丸裸にし、その理屈が辿り着くところで待ち構えて相手を討ち取るのですが、実際その理屈が正しいのか、理屈通りに行くのかどうかは、ほぼ神の領域の話なのです。ほんの些細な偶然一つで狂う程度の理屈なのですが、それを信じ進むことを作中では「感性に殉じる」と表現しており、それは結局のところ、理屈を狂わせる蹉跌のなかった「運のよさ」に他ならないのです。
逆に、天才的な読みを持たないけど成功したキャラとして鷲巣がいるのですが、彼の才覚の根っこは「運」であると作中で何度も明言されています。彼は「運」でもって「才能」のアカギと相対していますが、見方を変えれば「運」と「運」のぶつかりあいで、片方の「運」には根っこに届かないところまでは理屈がつけられる、ということなのです。


「アカギ」や「天」が面白いのは、人間の心理の推移にきちんと理屈をつけている、心理的な意味でのキャラ立ちができているというのもありますが、強さの根っこにある「運」を上手いこと目立たないように処理してあるからでしょう。「運」を軽く扱わず、どう表現すればいいのかをきちんと考えた「アカギ」は、やっぱり麻雀漫画としてというより、人間漫画として秀作だと思うのですよ。






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