ポンコツ山田.com

漫画の話です。

「属性」による萌えは「人格」と無関係なのか、そして「神知る」はそれを熟知しているのかという話

以前書いた記事(菌の陰に隠れた「もやしもん」の青臭さ - ポンコツ山田.com)のコメントで、「『もやしもん』は萌え漫画ではないか」云々というものをもらったのですが、それ以来「はて、萌え漫画ってのはなんじゃいな」という疑問が頭の片隅にありました。私には「もやしもん」が萌え漫画であるという認識が全くなかったので、このコメントには少々意表を突かれたのですが、じゃあ「もやしもん」が萌え漫画でないなら、萌え漫画とはなんなのだ、と自分に問うてみても、上手く言葉にできなかったのです。
そんなこんなで二ヶ月近く経ったわけですが、たまごまごさんが書かれた
めがねっ娘にとって、それは一番大切なこと。「キミとボクとの∞」 - たまごまごごはん
の記事から飛んでの
登れ!高く険しいフェチ道「あぶない!図書委員長!」 - たまごまごごはん
の記事にある「あぶない!図書委員長!」を買ってみたら、この疑問の一側面に上手い言葉を与えてくれる記述がありました。

あぶない!図書委員長! (ジェッツコミックス)

あぶない!図書委員長! (ジェッツコミックス)

実は、作品の本編そのものではなく、巻末に寄稿されたはいぼく氏の解説文にそれはあったのですが、ちょっと引用してみましょう。

概念化された諸要素は、一般的に「属性(attribute)」と呼ばれる。(中略)「実体(substance)」と厳密に区別される。確認すれば、我々は「実体」に直に触れることはできず、「実体」を直に認識することはできない。我々は、「実体」に付随して発生する「属性」を認識することによって、間接的に「実体」に迫ることができるのである。(中略)
萌えキャラは、一般的に、その「実体=人格」につかみ所がない。端的に言えば、「人格」が存在しない。極端な萌えキャラとは「萌え要素」の「束」であって、そこに「人格」を認めることができない。


あぶない!図書委員長! 西川魯介作品に見る倫理問題 −「人格」と「属性」の間− p155,156

本来この解説は、西川魯介作品にまつわる「萌え」と「愛」の相克についての文章であり、今引用した箇所はそこに触れるための前段階に過ぎないのですが、本作が初めて西川先生に触れた作品である私には、以降の文章は「まあそういうものなのですか」と話半分くらいに頷いておくしかないものであり、この引用箇所こそ私の最近の疑問に閃きを与えてくれたものだったのです。
以前に私が観念していた「萌え」は、「記号の消費」というポストモダンの臭いのするものであり、そしてそこで思考が停まってしまっていたために、「ならば『萌え漫画』とはなんなのだ」という問いに対して絶句するしかないものでした。
ですが、この引用箇所にある文、即ち

極端な萌えキャラとは、「萌え要素」の「束」であって、そこに「人格」を認めることができない。

という、私の「萌え」に対する観念からもう一歩先に行ったこの考えに、なるほどと膝を叩いたのです。
そうか、ある面において「萌え」に「人格」は不要なのか、と。

余談ですが、ここまで書いて思い出したのが、小学生高学年か中学生くらいの時に読んだビートたけしの平成黄表紙の一節です。

うろ覚えですが、「看護婦でも、スチュワーデスでも、女子高生でも、制服着た女とヤりたいのは、制服を着ていれば個性がなくなるからだよ。コーマンの時に個性なんていらねえよ。萎えちまう」みたいなことが書かれていました。セックスという肉体的行為と「萌え」という感情をどこまで同一視できるのかはわかりませんが、言ってることは同じですよね。「制服」という「属性」を女性に纏わせることで、「個性」、即ち「人格」を抹消した方が興奮できる、っていう。
昔からずっと引っかかっていた一節が、こんな形でつながるとは。


閑話休題
「萌え」の概念を一義的に決定するのは難しいですが、「実体」ではなく「属性」に興味を惹かれる=「人格」は重要ではない、というのは、「萌え」に関する重要なファクターだと思います。


さて、意識してか無意識にか、この「萌え」観を存分に援用している漫画といえば、若木民喜先生の「神のみぞ知るセカイ」でしょう。
神のみぞ知るセカイ 3 (少年サンデーコミックス)

神のみぞ知るセカイ 3 (少年サンデーコミックス)

地獄から逃げ出し、女性の心の中に入り込んだ「駆け魂」を捕まえるために、不本意ながらも生命を賭けて現実(=三次元)の女性を「攻略」する羽目に陥った、ネット上で「落とし神」と称されるギャルゲーの達人・桂木桂馬と、その相棒の、地獄からやってきた落ちこぼれ死神・エルシィによるドタバタコメディ、というのがこの作品のざっくりした梗概です。
主人公の桂馬は、ギャルゲーが得意で、そちらに傾倒しすぎている代償として、三次元の現実世界に興味をもてません。いくら二次元で女の子を攻略しても、三次元の女子は毛嫌いしており、手を握ったこともない有様です。そんな彼が生命を賭けて三次元の女子攻略に用いたメソッドが、ギャルゲー攻略のノウハウです。
作中で明言されるわけではありませんが、とりあえずこの作品では、ギャルゲーのキャラ設定はパターナイズされており、「属性」の集合の仕方次第で攻略方法もカテゴライズされうる、ということになっています。
これをそっくりそのまま現実世界に当てはめるというのがこの作品のダイナミックなところですが、それはつまり、ギャルゲーのキャラは根本的に「萌えキャラ」であり、「属性」を組み合わせることでその性格も自動的に算出される、というペニーガム方式にのっとっているわけです。
桂馬の目的は、女の子を愛することではありません。女の子の心のスキマを埋めること、具体的には、自分に恋をさせてキスをすることです。そうすることで、女の子の心のスキマにいた「駆け魂」は追い出される、という仕組みです(ちなみに、「駆け魂」回収後は、女の子からはその間の記憶は失われ、桂馬に対して抱いた恋心も表面上は消えてなくなります)。
ですから、ギャルゲーメソッドを用いる彼には、「駆け魂」が入り込んだ女の子、つまり攻略対象となった女の子の「人格」が一切考慮されません。あくまで彼にとって重要なのは、「属性」の「束」がどのようなもので構成されているかなのです。
例えば、二人目の攻略対象である青山美生は、明るい髪の色、ツインテール、おでこ、ちびっ子、社長令嬢という「属性」を持っており、桂馬には「典型的なツンデレキャラ」と認識されます。それを元に桂馬は彼女を攻略しようとしますが、いまいちしっくりきません。実際はそれに加えて本当は一年前に社長である父親を亡くし、貧乏生活を余儀なくされている(一応ネタバレなので、白字反転)という実態があり、それによる父親の言葉を忘れない「健気」キャラという「属性」を最終的に桂馬が知ったために攻略が成功し、彼女は桂馬とキスをします。
このとき、桂馬が彼女を愛しているかどうかは、攻略に一切関係ありません。攻略対象である「キャラ」に「人格」はなく、「属性」に応じた攻略手順を踏まえることだけが、彼にとっての至上命題なのです。
このように、対象の「人格」を排したコミュニケーションによって、相手に愛情を抱かせる、という「萌え」の一側面を極端に肥大させて成立させている「神知る」ですが、それでは収まりきらないものをきちんと胚胎させています。
それは二次元と三次元の違い、つまり肉体の有無です。
途端に上の話の逆を行って恐縮ですが、いくら相手を「萌えキャラ」、「人格」の存在しないものと認識しようとしても、「属性」に応じたコミュニケーションをとろうとも、そんな現実と没交渉の態度とは関係なく、少なくとも作中において、キャラに「人格」は存在しているのです。
「神知る」の作品世界内には、ギャルゲーという次元の一つ下がる世界が存在していて、「神知る」世界内の桂馬にとっては、ギャルゲー世界は「属性」の「束」によるキャラが闊歩している世界です。ですが、「神知る」世界を同列に生きる他の登場人物(エルシィや、青山美生などの攻略対象の女子)は、桂馬自身と同じく「人格」を有する存在なのです。
この構図は、私たち読み手にとって、「神知る」世界内の桂馬や女子たちが「人格」のない萌えキャラとして捉えられようとも、現実の世界の家族や友人、恋人たちには「人格」を認めざるを得ないというものと相似です。
ですから、桂馬はギャルゲーのメソッドを用いて(相手の「人格」を認めないで)攻略をしようとしても、実際にはそこに「人格」はあるのです。これはほぼ直接的に、肉体の有無という現実性に関連しているのですが、この「二次元と三次元の違いによる戸惑い」を、二次元の漫画の内で表現しているのが、この作品の面白いところだと思います。
過度に他人との接触を無視してきた桂馬にとって、他人とゲーム内のキャラは同列の存在でしたが、実際に肉体を有した相手にギャルゲーのメソッドを適用するmpは、否が応でも二次元と三次元の違いを意識させるのです。なぜなら、最終的な対象とのキスは、どう抗おうとも彼に肉体の存在を喚起させるからです。
肉体は、究極的に「人格」の唯一性を意味します。それは同時に、「属性」の「束」で表される萌えと相反することも意味しています。有限個の組み合わせにより生じる萌えキャラは、唯一性と対極にある存在だからです。
そして、ある種通俗的な意味での「愛」は、かけがえのない対象に向けられるがゆえに、萌えとは相容れないものであり、「神知る」は桂馬が肉体の唯一性について知っていくのと軌を一にするのでしょう(ここらへんの話にフェティシズムを絡めているのが、上で引用したはいぼく氏の解説文です。興味のある方は一読することをお薦めします)。


最後に、「『もやしもん』は萌え漫画ではないのか?」という問いには、私は「『もやしもん』は、キャラが画一的にパターナイズされた『属性』を纏っているとは言えず、キャラの『人格』を描くことに主眼が置かれている漫画であると思うので、萌え漫画とはいえないと思う」という答えを用意しておこうと思います。


あ、完全な蛇足ですが、「あぶない!図書委員長!」の水野文見が、私的に最強の萌えキャラです。私のアンチおしゃれ眼鏡は三次元に対してのもので、二次元ではそのせいで容姿に変化があるわけではないので(西川先生は、度の入った眼鏡にはちゃんとレンズ越しの歪みを作っているので、厳密には変化がありますが)、漫画では別に気にしません。眼鏡、スレンダー、おでこという属性は、ビンゴにも程があります。








お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。