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鬼頭莫宏の独特な印象は、台詞とフキダシに理由があるんじゃないだろうかという話

ぼくらの 10 (IKKI COMIX)

ぼくらの 10 (IKKI COMIX)

かなり前から疑問に思っていた、鬼頭莫宏先生の作品から感じる不可思議な印象について一つの仮説を思いついたので、今日はそれを一つ。


特に「ヴァンデミエールの翼」以降から感じる印象なんですが、鬼頭先生の漫画からは、突き放されているような印象を受けはしないでしょうか。説明が難しい感覚なんで言葉を並べますけど、悪い意味でなく臨場感がないと言うか、作品内にのめりこみきることができないと言うか、作品世界が妙に遠いと言うか。
一応それがあると前提して話を進めちゃいますけど、他の漫画家の作品からは感じたことのない感覚なんですよね。ひどく独特なテンポがある。
今まで、絵のせいか構図のせいかと色々と考えてきたんですけど、言葉の側面にその理由の一端があるんじゃないかとちょっと思いまして。

フキダシから伸びる足。



正式名称をなんというのかわかりませんが、まあ百聞はなんちゃらということで。

少女ファイト/日本橋ヨヲコ 1巻 p66)
フキダシから一部飛び出て、発話者が誰なのかわかりやすくしているアレです。これがいつから一般的になったのかは寡聞にして知らないのですが、最近の漫画ではほとんどついてるんじゃないでしょうか。大声などでフキダシ全体が変形したりしている場合以外は、コマの中に一人しかいなくても使われています。
ですが、鬼頭先生の作品ではそれの使用がほとんど見られないのです。

(ぼくらの 1巻 p122)
このように、複数人いて誰が発話者かがわかりづらいにもかかわらず使われないのですから、これは意図的にやっていると思っていいでしょう。
デビュー当初*1には普通にあるのですが、「ヴァンデミエールの翼」ではかなり少なくなっており、「なるたる」ではほぼ皆無です。
で、これがどんな効果を生むかと言うと、台詞と発話者の結びつきが弱くなるのではないか、と思うんです。

例えばこのコマですが、コマの中には一人しか居らず、発話者も間違いなくこの少女なのですが、フキダシに足がないだけで、言葉が人物から妙に乖離している印象を受けないでしょうか。まるでこの台詞が少女の言葉ではなく、吹き替えされた言葉であるかのような奇妙な関係性を。むしろ、この台詞が確実にこの少女のものであるからこそ、フキダシに足がないことで居心地の悪さを覚えるのかもしれません。
この、台詞とキャラの結びつきの薄さが、鬼頭先生の作品の臨場感のなさの一因であると思います。

生々しい言葉遣い。



創作世界の言葉遣いと現実の言葉遣いは違うと言うのは以前も書きましたが(「WORKING!!」に見る、フキダシのない手書き台詞のニュアンス - ポンコツ山田.comの5の段落)、鬼頭先生の台詞回しはかなり生々しいと言うか荒々しいというか、どもったりつっかえたり、あるいは言葉(なくても通じるけど、あった方がすんなり理解できる類の接続詞や助詞など)の省略をしたり。特にキャラが興奮しているときや、バタバタしているシーンだとそれが顕著です。

腕をっ!!
使うんだ/よ!!
落ちたっ!!
(ぼくらの 1巻 p150)

こんな具合ですね。
そしてそれは、フキダシの多さと相乗して独特のリズムを生みます。うえの台詞は、フキダシ三つで収められていますが、一行につき一つのフキダシです。これは大盤振る舞い。

(ぼくらの 1巻 p108)
このコマは1ページの1/3ほどを占めていて、さらにその中に大き目のフキダシ二つありますが、書かれている文字は「おお、」「おお、」だけです。たいていの漫画なら、一つのフキダシに収めた上で文字数をもっと増やしそうなものですが、いっそ物足りないとさえ言っていいような台詞回しを鬼頭先生はよくします。次のページでは、ほぼ同じスペースとフキダシの数で「やって、」「やんぜぇ!!」と贅沢に叫ばしています。普通なら「やってやんぜぇ!!」は一息で言わせるでしょう。
あと、これは小学館連載の「ぼくらの」だからですが、フキダシ内に句読点があります。これがまた、台詞回しの独特のリズムに拍車を掛けているでしょう(以下余談。短編集「残暑」は小学館発行ですが、秋田書店講談社での作品も収録されています。それらの作品の句読点はどうなっているかと言うと、ちゃんと付け加えられているんですね。雑誌掲載時はおそらくなかったと思います。これは作者がつけるのか編集者がつけるのか、ちょっと気になるところではあります)。

まとめ。



かなり感覚的な話ですし、おまけに同様のことを他の人が感じているかどうかも確信なくここまで進めてきましたが、一応まとめ。
フキダシの足がないことによる台詞とキャラの結びつきの薄さと、悪い意味でなくソフィスティケイトされていない台詞、そして普通なら一つのフキダシに収めるところを複数のフキダシにまたがらせる、ある種冗長ささえある配分、おまけに妙な位置の句読点。これらがまとまって、鬼頭先生の作品に独特なリズムと臨場感のなさを醸し出しているのだと思います。漫画はどうしても、絵やコマ割で読むペースが決められるものと思いがちですが、台詞回し(フキダシによるニュアンス)でもリズムは生まれますし、ほんの1cmもないわずかなでっぱりで雰囲気がずいぶん変わります。特に後者はけっこう意外でした。初期の漫画はどうだったんだろう。
というか、他の人が同様の印象を鬼頭作品に持っていたかどうかが気になる。








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*1:「残暑」、「三丁目交差点電信柱の上の彼女」 短編集「残暑」に収録