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歪んでいない人間なんていない 〜日本橋ヨヲコの描く「強さ」

少女ファイト(5) 特装版 (プレミアムKC イブニング)

少女ファイト(5) 特装版 (プレミアムKC イブニング)

いよいよメインキャラの中身が晒されだしてきた「少女ファイト」。五巻では大阪遠征編ということで、地元の志乃の過去にスポットが当てられました。それにともなって、志乃に懐いているルミコの中身がちらりと姿を覗かせ、次の展開への橋渡しになりそうだったりと、今までと変わらぬ密度の面白さを誇っています。
過去の日本橋先生の作品と異なり恋愛面の比重も大きい「少女ファイト」ですが、そういうシーンになるとときたま絵の線が細くなりそれっぽい絵になったりして、ちょっと面白かったりします。3巻p181とか、4巻p115とか、5巻p189の最後のコマとか。
日本橋先生の連載作品も「少女ファイト」で四作目。一貫して10代の若者を主人公に据えて、その葛藤を描いているわけですが、それ以上にもっと突っ込んだところでこれらの作品には共通する構造があります。それは、登場人物、特に主人公の持つ「歪み」と、彼らの憧憬の対象になるキャラがもつ「強さ」です。

「歪んだ」主人公と「強い」対象。



日本橋先生の作品の主人公たちは、みな「歪んで」います。これは「病んでいる」と言い換えてもかまいません。みな、何かしら心に大きなしこりを抱えています。
「プラ解」の蔵田三成は、兄に対する劣等感。「極学」の武藤利一は、父への憎悪とアルコール中毒。「G戦」の堺田町蔵は、父に対するコンプレックス。「少女ファイト」の大石練は、姉の喪失と過去への罪悪感。
一口に語れないからこその心のしこりですが、おおまかに言ってしまえばこんな感じです。そして、彼らには自分が「歪み」を抱えるがゆえに憧れ、頼る(あるいは反転して敵意を燃やす)登場人物がいます。
「プラ解」では古屋直視、蔵田一成。「極学」では平賀信号。「G戦」では長谷川鉄雄、堺田大蔵。「少女ファイト」では大石真理、式島滋。
主人公とある意味で対になるこれらのキャラクターたちは、「強さ」、それも主人公にはない「強さ」を持っています。当然、だからこそ憧れ、頼り、あるいは敵意を燃やすのです。
しかし、それだけなら特別目新しいものではないでしょう。対項的な存在は凸と凹のように補完するものとして描かれることで調和が取れますので、多くの作品で見られる、というか、人間関係の機微を描くものでは何がしかの形で必ず見られるといっても過言ではないでしょう。恋愛は自分にないものを相手に求めるといいますが、恋愛に限らず相手の存在を求める人間関係においてはその構造は常に見られるものなのだと思います。
ならば、日本橋先生の作品の中に現れる特徴は何かというと、その憧れられ、頼られ、敵意を燃やされるキャラもまた「歪んで」いる、つまり、完璧な存在ではないということです。

「歪んだ」自分は「弱い」のか。「強い」あいつは「歪んで」いないのか。



はえてして自分にないものをもつ人を神聖化します。それはなぜかと穿った考え方をすれば、自分にないものをもつ人間が神聖なもの、完全なもの、他の存在から区別されるようなものと考えれば、それを持っていない自分を卑下する必要がないからです。「あの人はあんなものを持っている(あんなことができる)。それはあの人が特別な人だからで、自分が弱い人間、逆の意味で特別な人間だからではない」というように思考の筋道をつければ、自分自身に劣等感を抱かず他者に尊敬の念を抱くことができます。
ですが、当然のことですが、神聖化の対象となった者が真実神聖な存在であるわけではありません。あくまで同じ人間、自分と地続きのところにいる人間なのです。
時として、この当たり前のことを忘れた人、あるいは物語がありますが、日本橋先生は決してそれを忘れません。「歪み」に対する悩みが読み手の眼に晒される主人公であろうと、その主人公が憧れる「特別な」キャラであろうと、みな同じ「歪み」を抱えたキャラなのです。
では、主人公とそれに憧れられるキャラを隔てるものはなんなのか。
それは、「歪み」への自覚だと思います。

「歪み」を知って、なお前へ歩けるか。



「歪み」への自覚とは何かと端的に表せば、自分のおかしなところ知っていながらも、それでも自分を肯定できる、ってことでしょうか。
例えば「プラ解」の古屋直視は、高校に入学早々変装し、かつそれをわずか数時間のうちにかなぐり捨てクラスの真っ只中でディープキスをするという破天荒さを見せつけ、それで三成のハートを掻っ攫っていきましたが、第4〜6話で彼女の中学時代の暴発しそうな葛藤を描くことで、今の彼女は自分の鬱屈した感情を見つめなおした上で、丸呑みして肯定できた「強さ」を得ているということを読み手に示しています。
彼女の「歪み」については、三成は第20話、最終回の4話前まで知りません。暴漢に襲われた直視を助け、そのときに彼女の口から「歪み」を聞くのですが、その「歪み」を聞いてもなお、いや、その「歪み」の存在を抱えた上で自分を肯定して直視が生きていることをしったからこそ、三成は「生まれ変わったら古屋さんから生まれたいくらいだよ」とまで言ったのです(そして同時に、今まで敵意を燃やしていた実の兄・一成が、直視が「歪み」を肯定できるように手助けをした存在であったことを知ったために、彼への敵意が反転して敬意へと変わったのです)。
面白いのは、作品が進むにつれて、「強い」人間も実は「歪み」を抱えているということを主人公が知る機会が増えていくことです。
「プラ解」では三成が知ったのは直視くらいのものですが(彼の知らないところで、志度アルミ関連のエピソードが描かれていますが)、「極学」では信号に木戸、「G戦」では鉄雄、大蔵、久美子、阿久田、猪熊、「少女ファイト」ではシゲル、学、鏡子、笛子と、主人公は「強い」人間は自分の「歪み」を自覚してなお生きているのだということを、より多くの人間から知るようになっているのです。

特に「少女ファイト」について考えてみる。



少女ファイト」になってまた一味変わっているのは、主人公・練の姉である真理(故人)と、心を閉ざしていた時期の練がなお親友と呼んだ唯隆子、そしてキーマンとなる学です。
前者は既に亡くなっていて、またそのことが練の「歪み」を生み出す主因となったのですが、練にとって彼女は特別な存在でした。それについて5巻で練はこう言っています。

「姉ちゃんはね 私の中で万能な存在のまま死んじゃって
ずっと越えられない憧れみたいに思ってたんだけど…」
少女ファイト 5巻p57)

真理が死んだ時はまだ練は幼く、そしてそこで心の成長が極端に遅くなってしまい、それゆえ彼女は完璧な存在として長らく特別な人間と考えられていたわけですが、高校に入りまた成長を始めたことで、姉に対する空想上の無謬性に修正が利くようになっているのです。

「でも 姉ちゃんにだってホントは辛いことや 
学みたいに人の気持ちがわかる裏には悩みもあったんだろうなって
今やっとわかった」
(同書 同ページ)

5巻にして、練は完全な「強さ」なんてないと悟るり、それを言葉にするのです。入学以来少しずつ成長してきた練にとって、これは大きなメルクマールといえるでしょう。
練は、学に真理の面影を見ますが、それは見た目だけの問題ではなく、中身も含めてのものです。自分と同い年の学の中身を知っていくことで、練は姉への幻想、つまり抱える「歪み」を見つめなおすことができるのです。


そして唯隆子。彼女は彼女でまた大きな「歪み」(主に生い立ちに関するものでありそう)を抱えていて、さらにそれを肯定できていないキャラであると言えそうです。練の裏返しの存在と言うか、共依存のような存在と言うか。
練にとって、小学校時代の隆子との思い出は非常にポジティブなものです。彼女だけが、本気の練のバレーついていくことができた唯一の人間だったからです。練自身、昔の自分は「歪んで」いたということを自覚し始めていますが、それでも当時のいい思い出である隆子について疑問を感じるまでには至っていません。客観的に考えれば、「歪んだ」時代の自分とうまく付き合うことのできた人間、それもまだ小学生の少女が「まとも」な人間なのか、という疑問が浮かんでもおかしくありませんが、真理とは違う次元で特別な存在であった隆子について、練は「歪んだ」過去から切り離して考えてしまっているのです。
読み手にとって隆子の抱える「歪み」は、ミチルの心や彼女自身の回想などで示されているので、練が感じている隆子の「強さ」への幻想との齟齬にもやもやしたものを覚えます。5巻隆子はで練の現在のバレーへの態度に不満を覚え、「小学校時代のほうがよかった」とミチルに漏らしますが、それへのミチルによる反論で、彼女が抱える「歪み」が鮮明に浮き彫りにされているのです。
共依存の片方が成長していくことで、その依存のバランスが崩れてしまうことにフラストレーションを感じる隆子。溜まった鬱屈はどこかで小出しに発散させない限りいつか暴発してしまうものですから、5巻を読めばいつかそんな修羅場が起こるのではないかと読み手は想像がつきます。ですが、当時と違うのは学がいることです(まあ小学校時代にも学はいたんですが、当時は練は彼女のことをほとんど意識していなかったので)。
ミチルの口ぶりから、また白雲山高校での振る舞いから、天衣無縫な傍若無人さを昔からずっと発揮していると思われる隆子ですが、学だけはそれに飲まれません。

「お前スゲーよ…
人をコントロールできない隆子 初めて見た……かも」
(同書p84)

学の「強さ」は、隆子の我に負けていないのです。この学がいるからこそ、先に書いた「修羅場」がどうなるのか予想をさせないのです。フラストレーションをそこかで吐き出させるのか、あるいは練に向けさせないよう画策するのか、「強い」学ならば何かしてくれそうなのです。
真理の写し身のような学は、ある意味で練の「歪み」のアバターであり、このような存在は今までの日本橋作品にはいませんでした。このキャラ造形に、日本橋先生の新たな地平を当てはめることができそうな気もします。


他に見られる「少女ファイト」の特徴は、主人公以外の「歪み」にも紙幅を割いていることです。練の入学した黒曜谷高校の女子バレー部は「魔女」と恐れられるような奇天烈な人材揃いで、練の同学年の面子もその例に漏れません。3巻ではナオと厚子、5巻では志乃と、合間合間の学やミチルと、練以外のメンバーが抱える「歪み」は着実に焙り出されているのです。次巻ではルミコがターゲットでしょうか。このような丁寧さは今までの作品には見られなかったので(連載期間の問題もありそうですが)、これも見逃せない点です。

ムズビ。ギギギ。



ちょっと最後に整理しますが、日本橋先生が描こうとしているのは、「歪み」を癒すことではなく、それを抱えた上で前向きに生きろ、ということだと思います。それは先生の言葉で言えば「あきらめにも似た前向きさ」ということです。
「歪み」、あるいは「病んでいる」という状況には実定的な線が引けない、と言うのはフーコーが喝破したとおりで、人は誰しも歪んでいるし、誰しも病んでいるものです。壊れたものなら直せばいいのかもしれませんが、歪んだもの、それも歪んだまま組み込まれたものは、その歪みだけ直すことはひどく難しいものです。車などなら一旦全部ばらしてレストアすればいいのかもしれませんが、人間の心ではそう簡単にはいきません。人は、その「歪み」がどういうものか理解してその上で折り合いをつけなくてはいけないのです。
人は誰しも「歪んで」いる。自分が憧れ、頼り、敵意を燃やしているような人間でも「歪んで」いる。「歪んだ」ことを自覚して、それでも肯定的に生きている。それを知った主人公が自分の「歪み」をまっすぐに見つめる。
その筋道を描いているのが、日本橋ヨヲコという漫画家の作品なんだと思います。
「完璧になれ」だなんて言いません。「特別になれ」とも言いません。日本橋先生はただ言います。「へこたれてもいいから前を向こうよ」と。
日本橋先生が描く「強さ」は、そういうことなんだと思います。








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