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漫画の話です。

「ハチミツとクローバー」に見る、漫画とアニメの違いからくる描写技法の差異

ハチミツとクローバー (10) (クイーンズコミックス―コーラス)

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ハチクロ」を今更ながらに全巻揃えて、面白かったのでアニメも見てみて。それで気づいたのが、この「ハチクロ」アニメ版がものすごく原作に準拠しているんですよね。ストーリーとか話の流れとかそんなレベルじゃなくて、フキダシの中や手書きの台詞、果てはカメラの視点まで原作の漫画を参考にしまくってるんです。なんか似てるなーとふと思って、試しに漫画を読みながらアニメを見てみたらホントに同じ。さすがに完全コピーとまではいきませんが、カメラの視点も半分くらいは、台詞にいたっては九割以上同じなんじゃないかと思います。
最近アニメはご無沙汰なんですが、漫画原作だからってたぶんここまで真似ないですよね。直近の記憶に残っている漫画原作のアニメといったら「絶望先生」と「みなみけ」なんですが、あの二作はむしろ原作とまるで違う方へ行った作品なのでいまいち参考になりません。「らきすた」もちらっと見てましたが、あれは4コマだからさすがに話が遠いし。「ローゼンメイデン」は原作を読んでないしなぁ。
まあそれはともかく、そこまで原作に忠実だからこそ気づいた漫画とアニメの違いについて少々。

漫画の背景、アニメの背景



そりゃあ当たり前の話で何を今さらなことではあるんですが、漫画に比べてアニメは背景に手を抜けないですんね。
ハチクロ」に限らず、漫画は背景が真っ白のコマはけっこう頻繁にあります。

3月のライオン/羽海野チカ 2巻 p50)

少女ファイト/日本橋ヨヲコ 4巻 p118)

モンキーターン サンデースペシャルコミックス/河合克敏 13巻 p250)
テクニカルな面で言えば、「3月のライオン」の例のように心理描写を強く印象付けたり(実際にキャラがいる実世界の背景を消すことで、具体的な現実から離れたキャラの心、目には見えない心を描いていることを表す)、あるいは背景を描くとむしろごちゃごちゃしてしまうからという配慮から描かれなかったり、それをさらに推し進めて「ここは背景を省略しても大丈夫だろう」というある種の手抜きからくるものだったり、理由はいくつかありますがまっさらな背景は意外と散見されるものです。
ですが、アニメでそれをするのはかなり難しいです。具体的な背景を描かずともなにがしかの、漫画で言うところの効果線などを入れなければ、画面が非常にさびしくなってしまうのです。これは、1ページの中にコマを区切り、コマの連続で動きを描くのが基本の漫画と、一つの画面の中で(画面を区切らず)キャラを動かすのが基本のアニメとの違いでしょう。簡単に言っちゃえば、漫画は一枚のページに絵がいっぱいかかれる分だけ、ぱっと見の寂しさが少ないのでしょう。コマ一つに背景がなくとも、他のコマ、すなわち絵が密集しているから、ページ全体としてはけっこう充満感があるのだと思います。
対してアニメは、カットを切り替えない限り画面全体の印象はなかなか変わりづらく、背景があっさりしすぎていると受け手に飽きが来やすいのでしょう。いくらキャラが動いても、背景が何もなければそもそも状況がよくわかりませんしね。その点、常に何がしかの背景が入る実写とは違います。


で、「ハチクロ」のアニメでは、その違いを踏まえて意図的に漫画から変化をつけられている点がいくつかありました。
一つは、漫画では3巻のchapter.18、アニメでは第10話。五人が年末に水上バスに乗って遊びにいくお話なんですが、その最後の最後、葛西臨海公園で遊んだ五人が再び水上バスで帰るとき、原作ではこんな台詞があります。
「帰りは貸し切りだよ!?」(3巻 p83 発話者の特定はできず)
それがアニメではこう変わっていました。
「帰りも貸し切りだなぁ」(発話者:真山)
「は」から「も」へとなっているんです。
なぜこのような違いが生まれたかといえば、上に書いたように漫画では背景にそこまで気を遣うことはないからです。言っちゃえば、漫画なら行きの水上バスシーンでの背景に他の客がいなくても、それは描いていないだけで、がらがらではあるだろうけれど一応他にも客がいた、ということにできます。ですがアニメでは、特にファンシーな絵、心理描写的意味の強い絵でない限り、どれだけ簡素でも(例えば空と雲だけだったり)具体的な背景が常に必要となります。もちろん空と雲ばっかりの背景で押し通しきることはできず、船内で食事をするシーンもありますから、実際に船内の様子も描かなければならないのです。
原作では他の乗客は描かれていませんから、準拠率の高いアニメでも同様に一切描かれていません。そうするとどうなるかといえば、アニメでは原作を読んで感じる以上に船の中はがらんとしたイメージになってしまうのです。ここで原作通りに「帰り『は』貸し切りだよ!?」としてしまうと、漫画で感じる以上に「え?行きのときに他に客がいたの?」となってしまうと判断したのでしょう。アニメと漫画の描写の違いと原作に準拠したいという思いの擦り合わせの結果としての、「帰り『も』貸し切りだなぁ」なのだと思います。
(余談ですが、帰りの水上バスに乗る前に真山が山田にあげたジュースが、原作では特に無表記ですが、アニメでは「JUKUCHO」ジュースになっています。羽海野先生のスタッフ、通称「塾長」へのオマージュですね)
(さらに余談ですけど、公園の観覧車の一周のスピードが漫画では19分なのに、アニメでは17分になっていました。これはなんの意味があるんでしょうか?現実の観覧車が一周約17分だから、それに合わせたのか?)


他には、アニメの方ではまだそこまで追いついていないんですが、6巻chapter.38、竹本の就職が決まる(そして瞬殺で取り消される)話で、その一旦決まった会社との縁が、花本先生のゼミ室の片隅にオーダーの回転棚を作ったことなのですが、そのときに花本先生はこんなことを言っています。
「これでやっとスプレー缶なだれから救われるよ」
でも、もしかしたら見逃しているかもしれませんが、おそらくそれまでゼミ室の片隅に積まれているスプレー缶の描写なんて一度も出てきていないんですよね。漫画では、そのお話のためにぽろんと生まれたた程度のエピソード(ってほどでもないけど)です。でもアニメでは、最初からゼミ室の隅っこにごちゃごちゃに積まれたスプレー缶の山の描写があります。きっと、後に出てくるであろうそのエピソードに唐突感を出さないために、あらかじめ仕込んでおいてあるのでしょう。それもやはり、背景の描写が多くなるアニメ特有の配慮であると思います(まあ羽海野先生は、そこらへんのコネタの仕込みはかなりテキトーな人ですけど)。


こんな具合に、漫画とアニメの違いということで、原作に似せたくても異なる作り方をしなくてはいけないことがあるようです。

漫画の区切り、アニメの区切り



漫画では特に気にせず見過ごせますが、アニメではちょっと見逃せないのでいくつか微妙に原作から直しを入れている箇所があります。
例えば漫画で3巻chaptr.20、森田がアメリカへ行く前の花見の回で、森田から隠れるように男三人の後ろにはぐが座っているシーンがあるのですが(p141)、その時の男三人の並びが、初めのコマでは向かって右から竹本、花本、真山の順で正面を向いているのですが、次のコマ(ページをまたぐ)では三人が後姿にもかかわらず並びが同じになっています。わりと単純なミスではあるんですが、それがアニメ(12話)では修正されていました。
漫画では、おそらくページまたぎのために編集サイドも見逃したのでしょうが、アニメではそういう分かりやすい区切りを入れることができなかったために、修正がなされています。ま、そうじゃなくてもしたでしょうけど。
同様に、漫画の4巻chapter.24、花火の回で、真山が少し離れた山田に近づくシーンがあるんですが(p71)、山田の立つ向きと真山の近づく方向がちょっと不具合を感じさせるので*1、アニメでは一コマ目で山田の向いている方向を逆にすることで事なきを得ています。


ここらへんは、つまるところ「ページをめくる」という漫画、というか本の形式による意識の中断が挟まれるからで、作者や漫画の編集者が見逃せても、アニメ畑の人間には引っかかってしまったところなのでしょう。
粗探しといえばそうかもしれませんが、それでも漫画とアニメの違いから生まれた(見つかった)変更点ではあると思います。

漫画の台詞、アニメの台詞



ハチクロ」は少女漫画の例に漏れず、フキダシ以外の地の文、主に心の声として表される文が頻出します。そしてそれは、たいていの場合フキダシと同時に書かれるのです。

(「ハチミツとクローバー/羽海野チカ 3巻 p81)
フキダシ、つまり実際の声と同時に心の声を書くことで心理描写に複層的な厚みが出てくるのですが、このような方法はアニメではそのまま使うわけにはいきません。理由は簡単、同じ人間の声を重ねて流すのは非常に聞き取りづらいからです。
漫画で同じコマにフキダシと地の文が書かれている時、当然私たちはそれを別々に読むんですが、頭の中では台詞と心の声が同時に(複層的に)発されていると変換しています。
また、自分のことを考えてみればわかりますが、喋っていることと思っていることが違っているというのはかなり難しいものです。試しに今日の夕食のことを考えながら明日の天気のことを喋ってみてください。ほら言葉に詰まる。実際は別々に考え、喋っているはずなのに、同時的な現象だと自分をごまかす。そうやって物語を面白く楽しむ。それが人間の面白いところなんですが、実際に音声が二重で流されては聖徳太子の1/4の能力もない私たちでは理解することがまあできないわけです。そのため、実際の台詞と心の声を分けなければいけないのはアニメの悲しいところですね。

ムスビ。ギギギ。



ここまで原作準拠のアニメだとは思わなかったので、比較しながら見ると非常に興味深いです。アニメーター志望でも漫画家志望でも、「なるほどこういう風にリメイクされるのね」「こういう風に変えなきゃいけないのね」などと頷けるところが多々あると思います。








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*1:初めのコマでは山田は右半身をカメラに向けて立っている。次のコマでは真山が向かって右側から近づき、山田はカメラに対して正面を向けている。これもページまたぎなのでごまかされやすいけど、山田が身体の向きを180度回転させていることになる