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「ディエンビエンフー」に見る「顔」のもつ存在感 〜「顔」のある者は殺せない

ディエンビエンフー 3 (3) (IKKI COMICS)

ディエンビエンフー 3 (3) (IKKI COMICS)

ディエンビエンフー」三巻冒頭ででこんなシーンがありました。

「殺す側の気持ちを考えろよ。銃殺される罪人になんでわざわざ目隠しするのか?」
「死ぬのが怖くないように…?」
「バーカ。そのほうが殺しやすいからに決まってんだろ?殺す側にとって死に際に睨み返されることくらい嫌なことないぜ。人ってもともと人を殺しにくくできてんのさ。断末魔の眼差しは見る者すべてを地獄に引きずり込もうとする」

p15,16

ベトナム戦争を舞台にしたこの漫画ではなんの衒いもなく人が死んでいきますが、この言葉はひどく真理を突いています。
世界的なベストセラーから、同様のことを書いている箇所を引用してみましょう。

恐らく、その顔をおおう影のせいだったろうが、彼は笑っている風に見えた。私は待った。陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に汗の滴がたまるのを感じた。(中略)光は刃にはねかえり、きらめく長い刀のように、私の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼を流れ、なまぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と塩のとばりで私の眼は見えなくなった。(中略)私の全体がこわばり、ピストルの上で手が引きつった。

異邦人/カミュ 訳;窪田啓作 新潮文庫 p62,63

これは、「異邦人」の主人公・ムルソーが因縁のあったアラブ人を銃で撃ち殺す第一部最後のシーンですが、引き金を引いた瞬間、ムルソーは相手の顔が見えていません。まず相手の顔は影で覆われており、さらにムルソーの眼には汗が入り込み、視力そのものも彼は失っています。つまりムルソーは、人を殺した瞬間その相手の顔が見えていなかったということなのです。
カミュ自身第二次大戦中のフランスでレジスタンスに加わり、暴力的な活動にも少なからず身を窶していた人間ですが、他の例として、実際に兵士として戦争に参加した人間の体験記から紐解いてみましょう。

しかし彼が谷の向こうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私の心で動いたものがあった。
それはまず顔の持つ一種の美に対する驚嘆であった。

俘虜記/大岡昇平 新潮社 p35

これは、著者である大岡氏(「私」)が比島の最前線で無防備な米兵に遭遇したにもかかわらず、銃を撃てなかったときの記述です。大岡氏は、米兵の顔に「美」を見出し驚嘆してしまったために、その引き金を引くことはできなかったのです。


ことほどさように、「顔」「眼」というものは人間の存在感を強く発現させます。それがあるために、大儀のためであろうと敵を殺すことはできず、また逆に、顔が見えないからこそ殺意がそれほどなくとも人を殺すことさえできるのです。
「眼」は光の受容器官であると同時に、視線でもって相手になにがしかの情報を発信することもできる器官です。そのために「断末魔の眼差しは見る者すべてを地獄に引きずり込もうとする」のでしょう。相手の怨嗟の視線を認識してしまうことで、殺そうとする者はいわば呪いをかけられるようなものなのです。


ディエンビエンフー」で主人公・ヒカルにこのことを言ったジャジャマルは、続けてこう言い放ちます。

だからメットなんてかぶってちゃむしろ危ないんだ。匿名性が高まってその他大勢になっちまう。
目線が隠れて殺しやすい。

p16

戦争において、殺す者は同時に殺される者です。普通に考えれば目立つ方が危険な気がしますがそうではなく、人はmassの中に紛れた瞬間に個を失い、匿名性が圧倒的に高まる、いわば、その瞬間「顔」を失うのと同義なのであり、顔の見えない相手だからこそ、人は人を殺せるというのです。
「一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる」というチャップリンの「殺人狂時代」の言葉がありますが、殺人はその行為が数値に変換させられた瞬間にその意味を変えるというのです。数字とはもっとも普遍的な抽象表現の一つで、あらゆるものが数に変えられた瞬間にその独自性を失います。それはやはり、殺された人間は数値になった瞬間に「顔」を失うということなのです。
メット被ることによる「顔」の喪失と、数値になることによる「顔」の喪失は、起こっている次元が異なりますが、それが意味するところは同じです。つまり個性の喪失、massへの没入です。
ヒカルにこのことを伝えたジャジャマルは、説明がてらふざけ半分でヒカルから奪ったメットを被ったことで、狙撃の標的になってしまいました。皮肉なことに、ジャジャマルは戦場で「顔」を失うことの危険性を身をもって証明したのです。


「顔」の見えない相手を殺せない根源的な理由はわかりません。ただ、殺す時に「顔」もつ人間には殺意が働かないということが、人間の心の奥底には刷り込まれているようなのです。その感覚は当事者にならなければわからないものでしょうが、当事者になることが幸せなことでは絶対ありません。それは、「人を殺す」という極限的な状況で初めて理解できることであり、しかもその状況で理解するのは、「殺すべきであろうとも殺せない」という状況に反したものなのです。
理解するのは決して容易なことではなく、理解した時には自らの状況に反する。そんな凄まじくアンピバレンツな根源的な謎が人間の心の奥底にはあるようなのです。








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