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漫画の話です。

「がんばる」人って魅力的だよねというお話。

「がんばる」「がんばって」とかの言葉って好きなんですよ。なんか最近使うのに抵抗があるようなないようなな感覚なのは、「鬱の人に『がんばれ』と言ってはいけない」ということが言われたりするからでしょうか。それともそんな無言の圧力を感じているのは私だけ?
「がんばる」がなぜ好きなのかと言えば、簡単に言っちゃえば「がんばってる人は魅力的だから」です。
何にがんばってたっていいです。趣味でも仕事でも家族サービスでも。とにかく何かにがんばっている人。集中している人。打ち込んでいる人。そういう人は、そうでない人より人生に張りがある分やっぱ輝いてると思うんですよ。
在学中に私は、サークルの先輩からこんなことを言われたことがあります。
「努力してれば、誰か見てくれるよ」
と。
私はサックスをやっていて、二年に進級した時点で、それまでいた(やる気がなくて下手な)サークルともう一つ、そこより遥かに上手い他大のバンドにかけもちで所属し始めたため、練習時間を増やして、かつ新しいバンドにも出向いていたので、旧サークルのメンバーや新入生たちとの交流がかなり減っていたんです。そんなもんでよく独りで練習していた私に対して、同じサックスパートの先輩(その人も、旧サークルでは例外的に練習をする人でした)がそう言ってくれたんです。
その言葉は、10ヶ月後に新サークルでレギュラーになったことと、(音楽に対して熱意のあんまりない)旧サークルでも「上手くなったよね」と言われたことで証明されました。がんばってればそれは形になるものなんです。
余談ですが、曲を集中して練習すれば、その日のうちには成果が出なくとも、翌日にはほんのわずかであれ必ず上達しているということも合わせて私は学びました。指が回るようになったとか、音が掠れずにでるようになったとか、前日できなかったことができるようになっていたものです。そんなこんなで、私は努力の有効性は身をもって実感しています。

私が誰かに「がんばれ」とエールを送る場合、ちょっと傲慢な言い回しになってしまいますが、「魅力的であれ」「面白い人間であれ」という意味で使っています。魅力的な人間、面白い人間であるためには、今の自分に安住しているだけではキープできません。何かに集中している、何かを面白がっているという動的な姿勢が、人間を魅力的に見せると思うんです。
「お前もっとがんばれよ」という言葉をかけたとしたら、そこには言外に「最近のお前魅力的じゃないぞ」というニュアンスが少なからずあります。鬱とかで精神状態を括っちゃうのもどこまでいいことなのか私は懐疑的ですが、それでも「がんばれ」という言葉を強迫的に捉えてしまう人もいるのは事実なのでしょう。そういう人に向かって言うのは憚られますが、ただ単に怠けてる人、だらだらしてる人から魅力的な輝きを感じ取れないのはよくあることです。そんな人に発破をかける意味で「がんばれ」を使うのは、至極まっとうだと思います。「お前もっと面白いヤツだろ」と。
家族でも恋人でも友人でも同輩でも先輩でも後輩でも、自分の好きな人、敬意を払える人には魅力的な人間でいてもらいたいと私は思います。その意味で「がんばれ」は祈りに近いんですよね、エールというよりは。「あなたがこれからも魅力的でありますように」という祈りが「がんばれ」なんです。

つーことで、私は私の好きな人たちにこれからもがんばっていてほしいと思います。








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