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「パタリロ!」に見る、男女間のエロスと非対称の関係

パタリロ! 81 (花とゆめCOMICS)

パタリロ! 81 (花とゆめCOMICS)

男女のあいだにハンディは必要か? - Something Orange
こちらの記事を読んで思ったことを。

人間的な欲望の対象には実体がない。



「人間は他者の欲望を欲望する」とヘーゲルは言いました。
精神現象学」の解釈において、「男女間の関係において、欲望は相互に相手の肉体ではなく、相手の欲望を望むのでないのであれば、その欲望は人間的なものではない」と言ったのはコジューブでした。
「官能において私たちが照準しているのは、他者の肉体ではなく、他者の官能である。一方他者が照準しているのは、私たちの肉体ではなく、私たちの官能である」とはエマニュエル・レヴィナスの言葉です。
先賢たちは、みな同様のことを言っています。人間は、他人を欲望するのではありません。他人から欲望されることを望むのです。いくらか砕いて言えば、自分が好きになった人には自分を好きになってもらいたいということ、片思いは嫌だよーんということです。ちょっと細かくなりすぎてしまった感もありますが。
このことをもうちょっと突き詰めて考えると、あることに気づきます。それは、自分が欲望する相手の中には、欲望の対象となる実体がないということです。なぜって、自分が相手に欲望されることを望むということは、同時に相手にも、相手が自分の欲望に欲望されることを望んでいるということだからです。お互いの欲望の対象がお互いの欲望の対象であるという、自らの尻尾を加えたウロボロスのような無限円環構造がここではとられており、どこまで追い求めても(人間的な)欲望の先には実体が存在しないのです。

人間的な「エロス」。



「『自分の手元にないもの、現にないもの、自分のもっていないもの、現在の自分とは違ったもの、自分に欠けているもの』を欲求し、そのような欲求を『エロス』と呼ぶ」と言ったのはソクラテスでした。
ここでいう「自分の手元にないもの、現にないもの、自分のもっていないもの、現在の自分とは違ったもの、自分に欠けているもの」は、上で書いた「人間的な欲望」を指しうります。対象となる実体が存在しない人間的な欲望は、「自分の手元にないもの」であり「現にないもの」であり(略)だからです。
一般的にプラトン哲学の「エロス」は「真善美への指向」と捉えられるので、これを「人間的な欲望」と呼ぶのはちょっと変な感じがするかもしれませんが、「得られないものを欲望する」点で、両者は同質のものと解釈できると考えてください。

「対称」的な二人の関係。



ここで「対称」という概念を考えてみましょう。普通「対称」的なものを考える際、その両者がもつ性質は同質性が高いということになります。……んー、この言い方は誤解を招きそうです。互換性がある、という表現はどうでしょうか。まだなんか違う気がします。対応性がある、質的には違くとも等価である、というのが近いところでしょうか。学術書一冊とCDアルバム一枚は、質的に違うものですが、同じ3000円で買える、という具合です。
リンク先の記事では、「パタリロ」のパタリロとバンコランの例が引かれていました。

そういう意味でむしろおもしろいのはバンコランとパタリロで、このふたりは完全な対等といっていいでしょう。

 対等であるからこそ、喧嘩もできれば、丁々発止のやり取りもできる。パタリロにとっても、バンコランにとっても、同じレベルでやりあえる相手といえばお互いしかいないわけで、そういう意味で、彼らの関係は貴重なものです。

ここで使われている言葉は「対称」ではなく「対等」なのですが、「権力の非対称性」という記事全体の文脈からすれば、両者のパタリロとバンコランの関係は「非対称的ではない」=「対称的(=対等)である」と考えても間違いはなさそうです。
パタリロは一国の若き王。バンコランはMI6の凄腕エージェント。両者の地位も年齢も同質のではありませんが、両者の能力が同程度まで高いために彼らは「対称的」な関係なのです。
では、このときバンコランはパタリロを、パタリロはバンコランを欲望しているのか。答えは圧倒的に否です。これは単に両者が同性だからという理由ではありません。なにしろバンコランは筋金入りの同性愛者ですから。男性であろうと(というか男性だからこそ)、彼にとっては性愛の対象となるのです。また、既に本命のマライヒがいるからというのも理由にはなりません。バンコランはかなりの浮気性だからです。
彼がパタリロに欲望しない理由は、性格(他人をからかうのが大好き)や容姿(「へちゃむくれ」「つぶれ餡饅(肉饅)」「顔面殺虫剤」)はもちろんですが*1、なにより彼らの関係が「非対称的ではない」ということにあるのだと思います。

循環する欲望。ひっくり返る非対称的な権力関係。



逆を考えるために、バンコランとマライヒの関係を見てみましょう。
彼らの関係は、はっきりと非対称的です。引っ張るバンコランと引っ張られるマライヒ。主導権を握るバンコランと握られるマライヒ。強いバンコランと弱いマライヒ(浮気がばれるとそこは逆転しますが)。本気で愛し合っている二人が相手を過剰に上に見ていたり、逆に見下していたりすることはありませんが、両者の権力関係ということであれば、そこには非対称性がありありと顕在しているのです。
権力関係という言葉も多義的というか定まりづらいものですので、外枠くらいは決めておきましょう。私の論では「権力関係」とは、「ある人間が他者に一方的に働きかけうる関係/影響力を行使しうる関係」という感じにしておこうと思います。「主従関係」をもうちょっと抽象的にとったものと考えてもらっても結構です。
私はこの権力関係、非対称的関係こそ、人間的欲望がもっとも強く発露するものだと思います。
私が上で用いたウロボロスの比喩では、非対称関係よりも対等関係のほうが適切な感じもしますが、そうではありません。対等関係、すなわち対称関係は、文字通り両者の力関係は鏡に映したように同等であり、そこにはエネルギーの対流、自分で自分の尻尾を咥えている状況は導き出せません。50度のお湯と50度のお湯を混ぜても温度の変化が起きないように、同等の関係性では欲望の対流は起きないのです。バンコランとパタリロでは、丁々発止とやりあうことはできても、互いを欲望することはできないのです。
翻って非対称関係はどうでしょうか。こちらだと水が上から下に落ち、他の力がないと上には決して上がらないような状況が想像されますが、バンコランとマライヒの場合を思い出してください。彼らは、バンコランが浮気した時は、マライヒのほうが強くなる、つまり権力的になるということを。状況によって、彼らの非対称的関係は入れ替わるのです。80度のお湯と20度の水を混ぜると対流が起こり温度は一定になろうとしますが、状況の変化(バンコランの浮気)により、さっきまで80度だったお湯が水になり、20度だった水が熱湯になるのです。こうして、二人が非対称である間は延々と対流が発生し、蛇の尻尾は頭に咥えられ再び回帰するのです。
リンク先の記事ではこのように書かれています。

ここでぼくが思うのは、「恋愛」という形式が、関係性のなかの権力性を隠蔽することがあるのではないか、ということです。

私も同様に思いますが、少しだけ言葉を足させていただきます。「恋愛」が駆動するには非対称的な関係性が必要であり、それが存在することで「恋愛」は継続しうるが、「恋愛」のその博愛的な印象から、「権力性」のもつ非対称性が隠されているのだと。まさに「「愛」という何やら甘い言葉が、彼らのあいだの権力関係を隠している」とおっしゃるとおりです。

権力関係が変わらないとしたらどうすんべ。



パタリロ」からは離れますが、別の考え方もしてみましょう。バンコランとマライヒの例では、バンコランの浮気という状況で互いの権力関係が入れ替わると書きましたが、他の人間の性愛関係でもそれが同様に起こるとは必ずしもいえません。例えば家父長制度が強く発達していた明治・大正期の日本では、妻が夫に対して権力的になれることはまずなかったのではないでしょうか。はてさて、そのようなときはいかなる理説を立てればいいのでしょう。
内田樹氏は、「おじさん的思考」でこのようなことを書いています。

たとえばふつう「社長」と「平社員」のあいだにエロティックな感情は生じない。
しかし「親分」と「子分」のあいだや、「皇帝」と「奴隷」あいだ、「貴族」と「召使」のあいだのむすびつきは、サラリーマンの上下関係より、おそらくエロティックである。
なぜだろう。
その違いはおそらく、「差異が決定的か、のりこえ可能であるか」の違いから生じる。
「皇帝」を仰ぎ見る「奴隷」は、自分が彼と融合したり、立場を入れ替えたりする可能性をほとんど想像することができない。
しかし「社長」を見る「平社員」は、「いずれ俺も……」と想像したり、社内派閥闘争を利用して社長一派を追放する日のことを想像することができる。
つまり、成員の均質度が高く、差別化が個人的能力の差に多く依存するような人々のあいだの関係は「非エロティック」なものとなり、個人の努力では越えようのない差異で隔てられた人々のあいだの関係は「エロティック」になる可能性が高い、ということが言えるわけである。

おじさん的思考/内田樹 晶文社 p66

ここで改めて「『エロス』とは人間的な欲望のことである」ということは意識しておいてください。直接的に性愛について意識してしまうと、意味合いがずいぶん変わってしまいますから。
「平社員」が欲望するのは「社長」に欲望されることではなく、「社長」のポジションなわけです。その意味で「平社員」の欲望は「エロス」ではありません。
「貴族」と「召使」の差異が決定的であるということは、「エマ」森薫)を読むとよくわかります。19世紀のイギリス社会を言い表して曰く「英国は一つだが、その中には二つの国がある」なのです。
ここでちょうどよく「エマ」の話がでてきましたが、「エマ」の主役はメイドとジェントリ、つまり「差異が決定的」な関係の中にいる二人なのです。
「差異が決定的」であることはエロスを抑制させません。むしろ、その差異が越えがたいものであるからこそ、エロスはよりいっそう賦活されるのです。卑近な言い方をすれば「障害があるほど燃え上がる」というやつですか。「ロミオとジュリエット」しかり、「曽根崎心中」しかり。洋の東西を問わず広く親しまれている題材です。


ここでしてきた話を「固定化された権力の非対称性」に当てはめるのは、それほど遠いものではないでしょう。
「ロミジュリ」の関係性は、「同じ地平に立つ二人の間に遥かな壁が立ちはだかっている」もので、日本の家父長制度の下の夫婦関係は「階段見当たらない一階と二階」のようなものですが、そこに越えがたい差異があるのには変わりありません。越えがたい差異をもつ関係性の中では、その越えがたさゆえに「エロス」がドライブされるのです。

結び。



バンコランとマライヒの関係性で用いた仮説と、日本的家父長制で用いた仮説の間に論理的な架橋をすることは、今の私にはできません。両者は別個の状況で用いることができる二つの仮説なのかもしれませんし、両者を包括しうる理説はいつか考え付くことができるのかもしれません。








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*1:客観的、一般的に考えれば極めて大きな理由になりますが