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「異邦人たち」に見る、父を愛する少女、「父」を知らない少女

異邦人たち (1) (コミホリコミック)

異邦人たち (1) (コミホリコミック)

「伝説の闘鬼」と呼ばれた格闘家・竪岡元治(たちおかもとはる)と世界中を放浪するその娘・梢。アメリカに行くことになった父は、そこにだけは彼女を連れて行きたくなかったので、日本の知り合いの道場「松原流柔術道場」に娘を預けた。総帥・松原剛蔵を始めとする道場の個性的な面々に囲まれる梢の一方で、元治はきな臭いゴタゴタと事を構えようとしている……


「月刊コミホリ」のweb上で掲載されていた作品が単行本化。やっぱり漫画は本で読むべきですね。紙をめくるのとwebのページをめくるのじゃ、「読んでる」という実感がまるで違います。
格闘漫画と見せつつも、それ以上に強烈なファザコン漫画です。たぶん主題は後者。ファザコンが主題と言うとずいぶんな感じがしますんで、もうちょっと言葉を改めれば、「父のみを世界の絆とする少女と、娘のために世界を生きる父」のお話。

父と娘と世界。



両者の立場は似ているようでかなり違います。前者は、世界に目を向けず父のみを見ようとする。父さえいれば世界はいらない。むしろ、父こそが世界。父と私が世界。
翻って後者は、娘のために世界を見ようとする。娘がきちんと生きていけるよう世界に抗う。娘と世界が天秤の両端。娘が世界なのではなく、娘のための世界。娘のための、世界と私。
梢の言う「パパがいないと私はすぐに迷子になる」(p16)と、元治が言う「梢がいないと俺は…すぐに迷子になる」(p37)は、その意味が違います。娘は父がいないと世界を見失い、父は娘がいないと世界の中の自分の位置を見失うのです。
既に世界と自分の精神的な切り離しを成し遂げた父と、いまだ世界(すなわち父)と自分が未分化な娘。この癒着をどのように切り離すかが、この作品の根本のテーゼだと思います。

父のいない子ども。母のいない子ども。



一巻現在で、梢の母親についてはほんの少しだけ語られるだけで*1、親子関係は父子関係と同義でです。
ふと考えてみると、こういう形態って珍しいんじゃないかと思うんですよ。つまり、「物心ついたときから母親を知らない子ども」という設定。
逆に、「物心ついたときから父親を知らない子ども」というのならけっこうある気はします。まあそれは人間、というか胎生動物としては至極当然で、出産の際に父親がいなくても子どもは産まれてきますが、母親がいなければ絶対に出産という現象は起こりません(試験管ベイビーについては除外)。自然出産で父親が必要なのは、極論すれば着床のためだけですが、母胎がなければ胎児は存在できないし、文字通り「産まれる」こともできないのです。
ですから、絶対的な割合で考えれば、物心ついたときに父親がいないほうが、母親がいないより多いはずなのです。
もちろん、産褥熱などで出産の直後に亡くなったり、その他の理由で子どもが物心つく前に母親がいなくなることはありますけど、「母親の記憶がなく、父親と一緒にずっと暮らしている」というケースは極めて稀だと言えるでしょう。漫画の登場人物で思い当たるのは、私は「こどちゃ」の羽山くらいですか。きっともっといるでしょうけど(そういえば10年位前の日本のドラマで、やっぱり出産直後に母親が死んで、最終回では父子の二人暮しをしているという作品があったような(確かキムタク主演だった気が……))。
ま、ともかくそのような「母親を知らない子ども(娘)」、「父しか知らない子ども(娘)」。このような状況は、子どもの心理発達においてどのような影響を及ぼすのでしょうか。

象徴的な「父」の不存在。



(一応一言断っておくと、私は心理学を専門に学んだ人間ではないので、これから述べる話は専門家が聞けば鼻で笑ってしまうような拙論か、頭から湯気を出して怒るような暴論かもしれませんが、ひとまず素人の浅知恵とご笑覧ください)

突然精神分析の話になって恐縮ですが、象徴的な「父」の役割は、「母」との癒着の切断です。ここで「象徴的」というのは、実際に血縁上の父親である必要は必ずしもなく、役割・立場としての「父」であればいいということです。この癒着の切断により、子どもは世界の上位概念(ラカンの言う「大文字の他者」)の存在を知ることになります(以下では、そのままの父親・母親は、血縁上、性別上のそれをさし、カギカッコつきの「父」・「母」は、象徴的な意味のそれを指します)。
噛み砕いて言えば、母親にべったりくっついている子ども(授乳などの必要から、乳児は父親ではなく母親の近くにいつもいるのが普通です)に対して、「世界はお前と母親だけじゃないんだぞ」と教えてやるのが父親の役目だということです。それは、言語学的に言えば「世界の記号的分節」であり、人類学的には「近親相姦の禁止」です。
要はそれらは、「世界はそういうもんなんだ」ということを、理屈ではなくもっと根本的なレベルで教え込むと言うことでもあります。ユークリッドの公理で「点と点を直線で結ぶ事ができる」とあるのは、「なぜそうなるのか?」と問えるものではなく、「そう決めることで物事を考えられるようにする」という前提(仮定)なのです。同様に、「世界の記号分節」や「近親相姦の禁止」は、「『世界はそういう風に成り立っている』と仮定することで、暮らしやすくしている」というものなのです。
さて、ならば、初めから「父」が存在せず「母」とだけ暮らしてきた子どもはどうなるのか。それも、父親「母」であり子どもが娘だった場合は。
世界と未分化の子どもが接している存在は、象徴的にそれは「母」です。そこに実際の血縁や、それどころか性別すら関係ありません。男であろうと、世界と未分化の子どもと接している存在なのであれば、「母」の役割を背負うことになります。
この作品の中で、元治と梢は彼女が幼い時から世界中を二人で放浪しています。それがいつからなのかはまだ明確な描写がありませんが、おそらく相当小さい頃からだと考えて差し支えないでしょう。それこそまだ彼女が物心つく前から。下手をすれば、彼女がまだ嬰児だった時から。
そうなると、彼女はずっと「母」とだけ暮らしてきたということになります。ずっと父親と二人きりで世界中を放浪してきた彼女には、象徴的な「父」に相当する存在がいなかったのです。
十代の半ばを越えてもまだ世界と、「母」と、つまり父親と癒着している彼女。

始まらないエディプス・コンプレックス。終わらない癒着。



女児は、生まれたときに母親に愛情を抱き、同時にその母親が愛する父親に自らを同一視するが、自分にはペニスがないことにショックを受け、それをもつ父親に敵意を抱くというのが、フロイトの提唱したエディプス・コンプレックスの概要です。
では、これが母親ではなく「母」、つまり「母」の役割を負った父親であったら、娘のエディプス・コンプレックスはどうなってしまうのでしょうか。梢には母親が居らず、また「父」もいません。彼女が「母」父親の元治)に愛情を抱いた時、そこには「母」の愛情のもう一つの対象である「父」はおらず、彼女が燃やすべき敵意の矛先も存在しないことになります。梢は「母」の愛情を独占することができ、自身のペニスの不存在を意識する必要はありません。彼女は自意識の中において、何にも邪魔されることなく「母」の恋人になることができるのです。
そうして成長した梢の父親である元治への愛情は、幼児期のそれから脱皮することのない、質的な変化の伴っていない愛情であると考えられます。子どもがよく言うような「パパのお嫁さんになる」という無邪気な言葉は、成長した梢にとっても(少なくとも無意識のうちでは)冗談ではないのです。「結婚」という言葉の意味も「嫁」という言葉の意味も知っているでしょうから、自意識のうちでは「父親が好き」という感情は冗談("like")の範疇でしょう。ですが、無意識下ではその言葉は本気("love")です。なぜなら、それ(つまりは近親相姦)がいけないということを「父」が教えてくれなかったからです。
父子の毎日の日課である組み手をしていて、元治の拳が彼女をとらえようとするその瞬間、梢はある種恍惚としたような表情を浮かべます。なぜなら、殺気をこめられた父の拳が自分に向けられているその瞬間、間違いなく父は自分しか見ていないから。その瞬間、父の見ているものは自分だけであると確信できるから。その瞬間の恍惚は、最早性的なレベルに近くすらあるのではないでしょうか。
彼女はまだ世界を知りません。彼女が知っているのは「母」だけであり、父親だけです。

結び。



とまあ素人の暴論を振りかざして、この作品の内面を掘り下げてみました。もう一度言いますが、格闘漫画の態をとりながらのファザコン漫画であるというのがこの作品です。*2寡聞な私の読書体験では、「『父』の不在」を執拗に掘り下げた作品は知らないので、今後どのように描かれていくのかとても楽しみです。
今回格闘パートについては一切触れませんでしたが、もちろんそちらの方からの興味で読んでも面白いと思います。単行本にはまだ収録されていませんが、以降のお話でかなり興味深い格闘シーンも出てきます。なんというか、「闘いの『リズム』」ですかね。「バキ」や「餓狼伝」とはまた違った格闘の空気です。

余談。



単行本表紙の左上に書かれている"The eighth cross of heathen"。これをエキサイト翻訳にかけると「異教徒の8番目の十字」という訳がでてきます。これはこれでかなり意味深なのですが、"cross"には「十字」の他に「異種交配」、"heathen"には「異教徒」の他に「野蛮人」という意味があるので、おそらく作品内容と絡めて考えれば「第八世代の野生馬との交配」というのが適当でしょう。なぜ適当なのかは、本編を読んでのお楽しみということで。
もしかしたら、そのうちエキサイト翻訳の意味も出てくるかもだけど。
あと、裏表紙の梗概でも間違っているのですが、「堅」岡ではなく「竪」岡です。「竪琴」とか「竪穴式住居」とかの「竪」。「堅固」の「堅」じゃないです。


作者サイト;3touhei's Lonely Hearts Web site
連載サイト;コミックHOLIC






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*1:p138

*2:表紙折り返しの作者コメント;「血迷って、本格的なファザコン漫画を描いてみたいと思いました。ファザコン力が余ったついでに、蹴ったり殴ったり首を絞めたり眼の中に指を突っ込んだりする、そんなマンガです。……」