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「エマ」に見る、細部に宿る魂

エマ 10巻 (BEAM COMIX)

エマ 10巻 (BEAM COMIX)

19世紀、ヴィクトリア朝時代の英国。そこには厳然たる身分社会が存在していた。
「英国は一つだが、中には二つの国がある」
メイドのエマと、ジェントリのリチャードの恋の行方は……


森先生の商業誌デビュー作にして出世作。アニメ化もされ、今年の春に大団円を迎えました。
で、この「エマ」の魅力ですが、極言してしまえば作者のイギリス愛、そしてメイド愛、これに尽きます。ストーリーとかなんとかは、些事に過ぎないと言ったら言いすぎでしょうか。言いすぎですね。でも、それくらいこの作品の面白さの根源は、イギリス愛とメイド愛が大きなウェイトを占めていると思います。とにかくその細部の描き込みが半端でない。衣装、家具、食事、遊戯、風俗と、随所に「その描き分けは作者の趣味だろう」と言いたくなるようなこだわりが見られます。私服からメイド服への着替えに5p使う漫画家なんてそうざらにはいませんよ*1。あのシーンに、社交界という非日常(加えて離れ離れになった恋人・リチャードと出会ってしまった驚愕)からメイドという日常に帰ってきたという象徴的な意味が込められていることはわかりますが、それにしたってやりすぎです。もちろんいい意味で。
そんな森先生の過剰な愛は、作中の描き込みと共に、コミックス巻末にある「あとがきちゃんちゃらマンガ」でも炸裂しています。「あれが描きたい」「これが描きたかった」と、「あんたまだ描き足りないのか!?」と目を剥いてしまうような戯言が、愛情たっぷりに描き殴ってあります。もちろんいい意味で。

本題。



さて、「エマ」の魅力は、第一にこの愛情だと書きましたが、本当にそんなことがありえるんでしょうか。ストーリーや絵など、漫画が漫画として成り立っている主要素をスルーして、そんな抽象的なものが魅力の根源となりうるのでしょうか。
私はなると思います。

細部にこだわるがゆえの魅力。こだわるからこその魅力。



「仏作って魂入れず」という言葉がありますが、ここで言う「魂」とは何を意味するのでしょうか。文字通りの魂、つまり霊的な、スピリチュアルな何かであるということでしょうか。それは違うと思います。仏(像)を作るものは仏師であり、彼らは僧ではありません。職業的な彫刻家なのです。彼ら自身が宗教心を持っていたと言うことは否定しませんし、おそらくその通りだと思いますが、その信仰心がゆえに仏像に魂を入れることができたかというと、それはまた違うでしょう。それは、直接に関係があるわけではないのです。「魂」とは結局のところ、「その仏像が信仰心を集められるか」という実利的な点だと思うのです。
その仏像に「魂」が入っているか否かは、その仏像の完成度の高さでもって判断されていたはずです。ですから、「仏作って魂入れず」とは、「形こそ仏のようであるものの、その完成度が低いために、信仰を集めることができない」、すなわち「信仰心を集められほど完成度が高くない」という意味であり、それは裏を返せば「魂を入れる=信仰を集めるためには、そこに完成度がなくてはいけない」ということになります。
完成度の目安は、全体の雰囲気はもとより、細部の緻密さに現れます。というか、現存する高名な仏像を見ると、病的なまでに細部に拘っているのが見て取れます。服の襞やら螺髪の皺やら、病的という表現もあながち間違いではないでしょう。
当初にあった「信仰のための仏像」という目的から次第に乖離しだし、中世からは芸術品としての仏像も存在しだしました。その結果として(と言っていいのかどうか。ニワトリタマゴな部分もありますから)、仏像の製作には「信仰のため」以上に「芸術的評価のため」という理念が入りだし、「この仏像は信仰を集められるか」以上に「この仏像は芸術的評価を集められるか」という頭で以って作られていきました。そして、芸術的評価の基準は「いかに細部まで仏の神々しさ(変な表現ですが)を行き渡らせるか」になったのです。
洋の東西を問わず、彫刻(特に人型)の評価基準に「細部の緻密さ」がメインにあるのは、高名な作品を見ればわかるでしょう。雰囲気一点突破というか、「細部が疎かでも雰囲気が出ていればいい」という点で認められている作品は、私の知識不足故かもしれませんが見当たりません。私の知っている作品は、みな一様に細部まで緻密に作られています。その点、単純に緻密さを目指した高名な作品が少ない絵画とは対照的です。三次元のものを三次元で表す彫刻と、二次元で表す絵画では、目指すところが違うのでしょう。


ちょっと話が逸れましたが、細部へのこだわり(漫画で言えば、単に絵の細かさだけでなく、動作や時代風俗のディティールの具さ)が作品に魂をいれるということがわかっていただけたでしょうか。

彫刻と絵の違い。緻密さと「記号性」の相性。



「たしかに彫刻で細部にこだわることはわかったけど、漫画は二次元の作品だろ?それなら細部の緻密さが不可欠とは言えないんじゃないか?それに、絵の緻密さは漫画で用いられる『記号性』というものと相性が悪いんじゃないのか?」(「記号性」については、こちらの記事 むんこ作品に見る、フキダシのない手書き台詞のニュアンス(そしてそこから見るむんこ作品の特徴) - ポンコツ山田.com の中ほど、「『サイレント映画』らしい漫画ってなんだ。」の項で)
なるほど、それは一理あります。ですが漫画はただの絵ではありません。漫画は、ストーリーを絵(と台詞)で物語る作品形態なのです。もちろん普通の絵にも物語はあるでしょう。込められた意味はあるでしょう。ですがそれはストーリーではないのです。ストーリー。つまり流れですか。


絵にこめられた物語は、例えて言えば楽譜のようなものです。楽譜に書かれた音符をなぞれば音楽を奏でることはできますが、楽譜は音楽そのものではありません。いわば音楽をパッケージしたものです。実際に奏でれば一時間以上に及ぶ一大交響曲も、譜面に納められている状態では、時間は流れていません。楽曲全体は一瞬に固められています。その音符を楽器で鳴らすことで初めて時間が解凍され、音楽は音楽たりえるのです。
同様に、絵にこめられた意味・物語は、それを言葉に変換されて初めてストーリーを形作ります。ピカソの「ゲルニカ」を観て、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」を観て、そこからなんらかの意味を見出し、物語を感じ取ることはできますが、それを誰かと共有しようと思えば、言葉にする必要があるのです。一枚の絵から得た印象を言葉に変換することで、初めてストーリーが生まれるのです。
漫画はストーリーが物語られることを前提としています。絵を見た人間がストーリーを作るのは裁量に任されますが、漫画は原則的にストーリーが物語られなければいけないのです。ですから、普通の絵とはまた要求されるものが違うのです。まず芸術的価値を求める絵画と、まずストーリーを物語ることを求める漫画。その両者で表現技法が異なるのは当然のことです。もちろん使う技法がまるっきり違うわけではありません。主に前者から後者へ(逆の例ってあるんですかね)、技法の流入は見られます。絵であることは同じなのですから、それは当然ですが。
ということで、普通の絵画とはまた違う次元で、漫画の絵には緻密さが要求されるのです。


漫画の「記号性」との相性の点については、これはそもそも両者が表そうとしている点が違うということが言えます。早い話、目的の違いです。
「記号性」とは、描かれるものの特徴を、現実のそれから記号的に抽出して、「この特徴を持っているから、描かれている○○は(そうは見えないかもしれないけど)○○なんですよ」という約束を読み手との間に立ち上げることです。ですが、その約束を立ち上げるためには、読み手との間に描かれているものについて共通認識があることが必要です。羽と嘴と細い足を描くことで、それを鳥だとすることができるのは、鳥について書き手と読み手で共通の認識を持っているからです。これはつまり、共通の認識をもっていないものについては約束を立ち上げられないということであり、ヴィクトリア朝時代の文化風俗について現代日本に生きる私たちが共通認識を持つことはまずないでしょう。そのような約束ができない以上、ヴィクトリア朝時代の空気を出すために記号性に頼ることはできず、それがなんであるか読み手の裁量に委ねる必要のない具体的な描写をする必要があるのです。
認識を共通していないものについて解釈の場を立ち上げようとするには、記号性とは逆に、緻密さを要するのです。
ま、「エマ」の場合は八割以上森先生の趣味でしょうけど。

まあつまり。



あらためて言いますが、「エマ」の魅力は八割がたそのディティールの細かさにあると思います。もちろんそのディティールにこだわれるだけの画力は必要なのですが、それは後からついてきたものでしょう。実際、連載中にニョキニョキ画力が上達しているのは、通して読むとよくわかります。一巻と十巻ではもう別人。「細いとこまで描きたい!」という森先生の熱情が、画力向上の後押しをしたのがよくわかります。
物だけでなく、風習等のディティールの細かさが、ストーリーに花を添えたことも否定できないところでしょう。英国の厳格な階級社会について手心を加えずに描いたために、軟弱なラブストーリーに堕すことなく、ストーリー全体がぴりっと締まっています。ストーリーの構造だけ見れば、何の変哲もないものではあるんですけどね。「身分違いの恋」。以上ですから。しかし、そこに「英国の階級社会」という軸をしっかり通したために、キャラたちが上手く回っていきました。まさにディティールの勝利です。

余談。



物語の構造は、ものすごく大雑把に分ければ、二つに大別できるといいます。
つまり、主人公が穴に落ちて、そのまま死ぬか、でられるか、です。
簡単に言えば、前者が悲劇、後者が喜劇です。バッドエンドとハッピーエンドでもいいですけど。私は圧倒的にハッピーエンド派。ですから、「エマ」の終わり方はとても好きなんです。「からくりサーカス」ではありませんが、"Tout finit par des chanson"、全ては歌で終わる、です。わかりやすくハッピーエンドって、単純ですけどいいですよね。
あとエレノアは初期の方がかわいいです。コリンとイルゼはもっとかわいいです。ちっちゃいときのヴィヴィーもかわいいです。モニカのキャラ付けは浮いてるけど面白いからいいです。








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*1:五巻 三十二話 「決心」