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努力と、才能と、才能となる努力と

もちろん努力や才能を画一的に数値化することなどできないことは前提の話なんですけど、作品(能力)のクオリティは、足し算した努力に才能を乗ずること(5pの才能をもつ人が10pの努力をすれば、50pの作品ができる。大雑把に言えば)だと思うんですよ。こうして対比させると、努力は後天的に積み重ねるもの、才能は先天的に備わっているものというような感じになってしまい、どんなに努力をしても、もともと才能がある人は得で、結局は才能がない人間は敵わない、というような話になってしまいそうですが、実はそうとも限らなくて、才能(あるいはセンスと言い換えても可)も、後天的に獲得できるものだと思うんです。
上の大雑把な例では、作品の完成というのを一つの定点としていますが、それにはこだわらず、いくつもの作品の完成を通して(あるいは「走る速さ」などの能力であれば、大会などでの記録を通じて)積み上げられる努力が臨界点を越えれば、その積み重ねは「努力」という量的なものから、「才能」という質的なものにに変質しうると思うのです。上の例で言えば、才能5pの人間がトータルで500pの努力をしてきたことで、才能が10pになる、みたいな。そして、そのとき努力ポイントもゼロに戻るわけではなく、500pの努力はそのまま残ると思います。


ただ、努力が臨界点突破により才能へ変換されるといっても、その時の臨界点の値は、人間各々によって固有の値をとるとは思います。「ここまで努力すれば、誰でもセンスが良くなります」という画一的な定量は存在しておらず、「最初は同じくらいだった俺たちだけど、同じくらい練習に励んだ俺とあいつの間で、なんでこんなに差が出るんだ」ということは、当然のように起こりうるのです。臨界点の値は、才能への変質を経験した自分自身が、事後的に振り返ることにより「ああ、あれくらいまで努力したからこの才能が得られたのか」と理解できるものなのです(ただ、臨界点に迫るくらいの段階で、センスへの転換の胎動をなんとなくでも感じられるものだと思いますけども)。


メタ的な、「才能を使うための才能」とも言える、各々で異なる臨界点の値ですが、一度でもそれの存在を感じないことには、そんなものが本当にあるのかどうか、努力が臨界突破をすることがなどあるのかと、信じきれないものだと思います。結果として、臨界突破までの努力ポイントが足りず、才能への変質を経験しないうちに「私には才能がない」「私の生み出す作品なんて駄作ばっかりだ」と嘆き、努力を放棄してしまうことになると思うのです。


夢枕獏先生も似たようなことを言っていましたが、本来的には凡人であったもの(先天的に才能を十全には有さなかったもの)が、後に大成するするというのは、この「努力から才能への転換」の感動を知るからだと思います。努力の臨界点がどれほど高かろうとも、とにかく愚直に努力を続けてきたものが、ある日経験する才能への変質。自分が一皮剥けた感覚。それを知ったがために、努力の有効性の確信を増し、またさらに努力を続けることができる。それが大成することのできる「凡人」ではないでしょうか。
「はじめの一歩」の鴨川会長の、「努力したものがすべて成功するとは限らん。だが、成功したものはすべからく努力しておる」というのは、そういうことなのかもしれません。努力したからといって、それが必ずしも臨界点に到達するとは限らない。結果に結びつかないかもしれない。けれど、成功したものは、臨界点を突破するほどの努力をなしている。努力が臨界点を突破する感動を知っている。その感動ゆえに、更なる努力を重ねることができ、そして結果を出すことができる、と。
この言葉を鷹村が投げかけられたときの相手は、まさに才能のみで勝ちあがってきた男・ブライアン・ホーク。彼は努力を一切することなく、己の野性のみで挑戦者をマットに沈めてきました。ですが、自分より強い男と戦い、初めて危機に陥った時、彼には自身を支えるバックボーンとなるものがありませんでした。対する鷹村を支えたのは、今まで積み上げてきた「ジジイ(鴨川会長)」との練習。この差が、追い詰められた両者を徹底的に分けたのです。


こうして書くと、生来の才能と、後天的な才能、努力による才能は、その性質を異にすることがわかります。
前者は自分に元々備わっていたものであり、それを獲得するためになんらかの犠牲を払ったものではありません。それは、才能の行使の際の自由さ、気負いの無さ、ブルデュー的に言えば、身体化された「文化資本」のように、衒いなく使うことができるということを意味するのですが、それは同時に、自分に備わったその能力について、自分ではよくわからないということでもあるのです。
一般性の高い例をあげれば、人は自分になぜ指が五本あるのかと悩むことなく、箸を握り、文章を書き、キーボードをタイプします。それと同様に、生まれたときから何らかの才能を持つ人間は、その才能に理由など感じることなく、それを行使できるのです。もとからあるものの来歴なんて、あえて考えなければ意識することなんてありません。ですから、いざその能力の行使に障害を感じたときに、応用が利かないのです。今まで何を考えるでもなく使っていたそれが絶対的なものではないとわかったときに、人はその能力の根源の不明瞭さに、頼りがいを些かも感じることができません。
井上雄彦先生の「リアル」では、主要キャラの一人である高橋が事故に遭い、突然下半身不随となります。そのとき彼は、今まで自由気ままに使っていた身体の一部がなんの反応もしなくなったことで、生活の至るところで不自由を感じ、そこから人生の絶望にまでつながります。少々極端な例かもしれませんが、生来的な能力が突然立ち行かなくなった時の不安・絶望は、ことほど左様に深いものなのです。


ならば努力による才能はどうかといえば、努力が才能となるまで、人は相応の労苦を払っています。それは時間であったり、体力であったり、金銭であったりするわけですが、それらを費やすにつけ、人は少しずつ努力を積み上げていくのです。積み上げてきた努力を、人は忘れません。意識的には記憶されていないかもしれませんが、身体には蓄積されているものです。逆に言えば、身体に刻み込まれない努力など、無用であったとさえ言ってもいいと思います(身体に刻み込まれることと、最終的に努力が才能に転換することがイコールではないのですが)。
身体に刻み込まれた努力には、様々なパターンのものがあるでしょう。あるいは、反復練習というものもありますが、基本的な、根本的な身体の動きを覚えさせるものであり、それが刻み込まれることで各種のパターンへと動作が分岐していくということになります。器楽のスケール(音階)練習などはその例でしょう。
このように、努力からなる才能は確固とした礎を持っているものであり、その能力では立ち行かなくなった時でも、そこから応用を利かせられる、もしくはその能力を信じきれるということができるのです。




しかしやはり厳然たる事実として存在しているのは、「努力したものが全て成功するとは限らん」という現実なのです。絵でも文章でも音楽でもスポーツでも格闘技でも料理でも勉強でもなんでも、それがものになるかどうか、ものにならなければわからないのです。10年努力して成功しなかったことが、11年目に成功するということを否定し得ないように、10年努力しても、11年目も成功しないことはありうる話です。ですから、ものになりたいと思うなら、ものになるまで愚直な努力をするしかないのでしょう。それを諦めるのも、適当なところで妥協するのも、それまでの努力がまっとうなものであったなら、無駄になるわけではありません。ただし、努力してもものにならなかったという苦い思い出は、意識的にであれ無意識的にであれ、後の努力に暗い影を落とすことにもなりますが。
こんな言葉があります。

夢ってのは呪いと同じなんだよ
呪いを解くには夢を叶えなきゃならない
だが、夢を叶えられなかった人間は
ずっと呪われたままなんだよ

仮面ライダー555』第8話より

夢のために払った努力が報われなかった時の苦い思い出は、呪いになってしまい、後の人生を束縛する、ということでしょうか。
努力をするみなさん、才能のないみなさん、夢を追いかけるみなさん。それでも頑張れますか?
この問いにイエスと答えられる人が、きっと努力できる人なんだと思います。








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