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「らいか・デイズ」に見る、「外部性」の獲得と人間の成熟

らいか・デイズ 7 (まんがタイムコミックス)

らいか・デイズ 7 (まんがタイムコミックス)

巻が進むごとに、主人公の来華だけでなく、各キャラの照れ照れ描写が増えてきた「らいか・デイズ」。ニヤニヤじんわり漫画として、素晴らしい作品となっています。
この巻では、来華がかなりレアな表情をしているシーンがいくつかありました。

らいか・デイズ 七巻 p8)
ニコッと笑ったり

(同書 p9)
涙を流すほどに憤慨したり

(同書 p10)
歯軋りするほど悔しがったり。この手のはっきりした感情の表出は、今までそうなかったと思います。
このように感情豊かになってきた来華ですが、当初の彼女は基本的に無表情な子でした。特に、友人が見ている前での来華は表情にほとんど変化がなく、彼女が表情を崩すのは、家族の前か、友人の視線が外れているときがほとんどでした。そんな彼女が表情豊かになり始めたのはいつごろか。私はそれは、彼女の周辺に「外部性」が存在し始めてからだと思うのです。

「外部性」ってなんだ。



「外部性」とは何か。ざっくり言ってしまえば、「身内ならざるもの」でしょうか。ここで言う「身内」は、単に血縁上のものだけを指すのではありません。勿論血縁上のもの、つまり、来華の両親、祖父母や従兄妹たちも指すのですが、この場合はそれに加えて、「彼女を特殊に扱うものたち」というグループも含まれます。
この作品の中で来華という少女には、極めて天才的なスペックが付与されています。一応それをざっと書いておきましょう。

139cm35kgと、小学六年生女子としてはかなりの小柄な体格(参考;小六女子:平均身長147.0cm、平均体重39.5kg ちなみに作中に登場する焼き芋屋が、来年小学校に入学する自分の娘を、来華の実年齢を知らずに「君と同じくらいかな」と表現していたりする。そのことから察すると、作中での来華は、実際の数値以上に小柄だと認識されているようである)だが、極めて優秀な頭脳と能力を持っており、同級生だけでなく、高校生、大学生、果ては教師にまで頼りにされている(暇なので司法試験の問題集を解いている描写あり)。
極めてクレバーな実務面に比べて、恋愛話や怪談話に非常に弱く、その手の話が出るとその場から逃げてしまう。
妙にじじむさい趣味と妙に子どもっぽい趣味が同居しており、時代劇を好む反面、「ミラクルちゃん」という幼児向け番組も見ていたり、「ナバウサギ」というファンシーグッズやヌイグルミを集めている。
また、頭脳労働面に反して、手先は極めて不器用。裁縫、料理、音楽、絵画と、その手の分野では壊滅的な様相を呈しているのだが、当人はそのことについて自覚的で、自分が頭脳労働担当であることを自嘲混じりに肯定している。
なお、普段の雑務で走り回っているせいか体力は高く、マラソンは男女混合で校内一位となるほど。

そんな感じの来華ちゃんです。極端に秀でた頭脳と、自分の能力に自覚的な点、さらに補足として、同年代の女子と趣味が合わない点などが、彼女の天才性の側面と言えるでしょう。


特に、極めて高い実務能力のために周囲の友人や大人たちに頼りにされる来華ですが、上に書いたとおり、初期(三巻くらいまで)は基本的に無表情な子でした。実務面で頼られる、彼女の能力を高く賞賛される場面の彼女は照れることも少なく、クールさを崩しませんが、それは裏を返せば、彼女を頼る人間たちが、彼女をとても高い位置においていたということでもあります。友人たちは、彼女に高い能力を要求した上で、その能力による恩恵を当然と感じているようなのです。その周りの人間は、彼女の能力に嫉妬することはありませんが、逆にそれに追いつこうとしたりすることもありません。彼女の能力は、憧憬の対象どころか、もはや崇拝に近いものであり、それに頼るばかりで、その能力を有する彼女の内面性に踏み込むことが非常に少ないのです。
恋愛話や怪談をするときには子どもらしい(むしろ年齢以上に幼い)様子を見せる来華ですが、その時のクラスメートの反応も、「来華ちゃんかわいー」や「いつもと違うよねー」などといった、同じ階層にいる人間に向けるような言葉ではなく、普段の全能性とのギャップを今はっきりさせようとするが如くに、むしろ彼女を下に見るかのような扱いをします。もちろんそれは、友人たちが彼女を馬鹿にしているわけではないのですが、外面に現れた態度としてそれは、同輩の友人にむけるものではなくなっているのです。
これがつまり、「彼女を特殊にあつかうものたち」という意味です。


翻って、語義通りの「身内」についてですが、このグループの人間と付き合う時の来華は、とても感情豊かに振舞います。驚き、喜び、哀しみ、照れなどが表情によく表れ、その態度は歳相応の子どものそれです。これは、「身内」の人間は来華の天才性になんら気負っているところがなく、「だって家族(身内)だし」という感じで、来華を普通の子どもと分け隔てなく接するからでしょう。簡単に言えば、来華の能力に「慣れて」しまっているということなのでしょう。学校の人間は、後付で彼女の能力を知り、また自分の子どもや他の友人とどうしても比較してしまうので、彼女の能力を必要以上にありがたがるという構図だと思うのです。


これをまとめれば、来華は、語義通りの身内の間では歳相応の子どもの振る舞いをし、それ以外の、主に学校の人間関係の中では、非常にクールな振る舞いをする、ということになります。ですから、「外部性」というものを改めて説明すれば、「身内以外で、彼女の能力を神格化しないもの」ということになります。

じゃあ誰が「外部」なんだ。



この作品の中で、来華にとっての「外部」と言い得る人間は三人います。それは男子クラスメート・竹田将一、転校生・浦部蒔奈、臨時教師・財津紺太です。この三人が、具体的にどのような外部性を有しているのか、説明しましょう。

まず竹田。

彼は六年に進級してからのクラスメートで、テストでいつもあと一歩及ばない来華に対して強い対抗意識を燃やしています。そして、次第にそれは恋心に変わっていくのですが(好きな子についちょっかいだしちゃう、小学生男子のアレ的な感じです)、まず、来華に対抗意識を燃やしているという点。他の級友は来華の頭脳に関して完全にシャッポを脱いでおり、それに追いつこうとする努力はまるで払いません。毎回100点を取る彼女を見て「さすが来華ちゃんだね」と感嘆混じりに言うだけです。ですが竹田は、それに納得がいかないのです。なんとか彼女を抜きたい、彼女を見返してやりたいと、それを目標に勉強しています。彼にとって来華は、あくまで自分の延長線上、同一次元にいる存在なのです。また、恋心というのも、完全に自分と世界が違う人間には抱けないものです。彼にとって来華が同じ世界にいる人間だからこそ、彼は来華に恋することができるのです。

続いて浦部。

彼女は違う学校から転校してきた人間、つまり初めから外部よりの来訪者という位置を与えられた存在です。転校してくる前から来華の能力の高さを知っていた彼女は、当初は来華をライバル視していましたが、実際に来華の有能ぶりを目の当たりにして、すぐに兜を脱ぎました。ですが、それはあくまで彼女の能力に白旗を揚げただけであって、それ以外の面では、来華の性格をすぐに理解し、歳相応の面をどんどん引き出していきます。

らいか・デイズ 二巻 p23)
彼女は、来華を「頭のいいけどちょっと天然な、かわいい友人」と、格別神格視することなく見ているのです。

最後に紺太。

彼は、臨時枠できた教員。浦部と共に外部からの来訪者であり、さらに年上の人間という、来華にとってもっとも「外部性」を有した存在です。彼も来華の噂は当初から聞いていましたが、最初から彼女に対して年上からの目線、教師としての目線を崩さず、他の教師とは一線を画した態度を一貫してとり続けています。

らいか・デイズ 三巻 p24)
このように、彼は来華を完全に子ども扱いしているのです。いい意味で。

じゃあ身の周りに「外部性」を得た来華はどうなった?



この三人の登場以来、来華の態度は、全般的に歳相応なものが目立ち始めます。身内以外の前でも、表情豊かになるようになり始めたのです。そしてそれは同時に、他の級友たち、「外部性」を有していなかった人間たちにも影響を与えますす。かつては来華を仰ぎ見るようにしていたクラスメートたちも、来華に対して同輩に接するような態度を見せ始めたのです。これは一巻からその点に留意して読んでいくとわかるかと思いますが、「外部性」が獲得されるに連れ、来華とクラスメートの立ち位置が徐々に近づいていっているのです。
これの最もおおきな引き金になったのは、最後のエトランジェ・財津紺太の登場でしょう。彼は、来華に対して他の人間が同輩として接していないことに気づいており、かつそれはよくないことだと思っているのです。

(同書 p77)
テストの点数が悪く、ひどく落ち込んだ竹田に対して紺太が言った台詞ですが、自分を対等に扱ってくれる同年代の存在が、人間の成長にとって極めて重大であることを、紺太、ひいてはむんこ先生は知っているのです。


元々この作品のネタは、来華の普段の天才性と、時としてのギャップを楽しむものが多かったのですが、このギャップは、「家族と学校」、「普段と苦手な分野(恋愛や怪談)」というものがほとんどでした。ですが、「外部性」が獲得されたことにより、来華の神格性が薄れ、ギャップネタの持久力が落ち、代わりに他のキャラとの親和性が高くなったので、来華以外のキャラがネタのメインを張ることが増えたのです。
今まで天才として扱われてきた来華は、周りがそう扱うのに応えるようにクールに振る舞い、その反面身内に弱い性質だったわけですが、「外部性」の到来と共に周りが彼女を天才と特殊な眼で見ることをやめ始め、彼女も同時にクールな仮面を脱ぎだすのです。来華以外の面子がネタのメインを張るのは、初期の状況では難しかったでしょう。天才来華一点突破のネタ構造から、他のキャラを作品の矢面に立たせるようにするには、他のキャラに親和する来華が必要だったのです。ですから、「らいか・デイズ」の作品の懐の広がりは、来華にとっての「外部」の到来と、軌を一にしているのです。


以前心配していた「『らいか・デイズ』終わるんじゃないか疑惑」ですが(「らいか・デイズ」に見る、磯野家時空の綻び - ポンコツ山田.com)、七巻を読んだ限りでは、まだ心配するほどでもなさそうです。まだこれからもこの作品を楽しめそうで、嬉しい限り。








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