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文章のロマンチシズム 〜伊坂幸太郎の場合 西尾維新の場合

今日はまた、伊坂幸太郎氏の文章の魅力について考えてみようと思います。


この前ふと思ったのは、「伊坂幸太郎氏の文章って、ロマンチックさはないよなー」ってことです。

ロマンチック【romantic】
[形動]
現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま。空想的。「―な夢にひたる」
Yahoo!辞書より

ロマンチックさ。この引用から言えば、「情緒的で甘美なさま」ですか。以前書いた記事(参考;「モダンタイムス」を読み終えたので、改めて伊坂幸太郎の面白さを考えてみる(ネタバレなし) - ポンコツ山田.com)では、私は氏の文章を「ケミカル」、「非自然的」、「人工的」、「乾いている」と表現しましたが、これに通ずるところはありそうです。「情緒的である」とは、人間の心性が露になっているということですし、それが見られないということは「非自然的である、人工的である」ということにつながりそうですから。
ということで、「ロマンティックでない文章ってなんだ」ということを考えてみましょう。

まずは逆に、「ロマンティックな文章」とはどういうものか。



やはり上の引用に素直に従えば、「情緒的で甘美な文章」ということにできそうです。別の言葉で言えば、「詩的な文章」というのも似通った意味で考えられそうです。「君の文章ってロマンチックだね」と言うのと、「君の文章って詩的だよね」と言うので、それほどニュアンスに違いはないでしょう。
ただ、ここで注意するべきなのは、「君の文章ってポエティックだよね」と言った場合には、けっこうニュアンスが違ってくるであろうということです。まあ「ポエティック(poetic)という単語が日常語彙に登録されている人がどれだけいるか知りませんが。ですが、「詩的」を英訳すれば「poetic」になるのは事実です。「poetic」と言った場合には、「ロマンチシズム」なニュアンスよりも、もっと詩の構造、形態などの意味が強まるニュアンスを感じはしないでしょうか。前者を「詩的」とすれば、後者は「『詩』的」であるような。
まあこれはある種の言葉遊びのような側面もありますが、少なくとも私のこの感覚には理由となるような仮説があります。私がまだ小さい頃に触れていた(国語の教科書便覧を読んでいたくらいのものですが)詩といえば、おそらく与謝野鉄幹与謝野晶子高村光太郎あたりの、いわゆる「日本近代浪漫派」と呼ばれるような詩人たちのものであり、その名の通り極めてロマンティックな詩が多かったことと思います。そのような詩に多く触れていたために、「詩と言えばロマンティックなものである」という印象が刻み込まれた、ということは言えるかもしれません。
ですが、小さい頃に詩に触れる機会などそうそうあるものではないと思いますし、私のように、詩が載っている家にある本は国語便覧くらい、という人は結構いるんじゃないかと思います。ですから、私としてはこの感覚は、少なくともそれほど歳のいっていない世代であれば、ある程度一般的に言えるんじゃないかと思ってるんですが、どうですかね?
ちょっと話が迂回しましたが、「ロマンティックな文章」と言ったときに指すものは、このように近代浪漫派の系譜にあるような文章なのではないかと思うんです。

「情緒的」、「甘美」ということにもう少し突っ込んでみよう。



大事なのは、「ロマンティック」には「甘美さ」というニュアンスも含まれている点でしょう。ただ情緒的なだけではない、同時に甘美でさえある文章、それが「ロマンティック」な文章です。そして、この「甘美」さこそが、伊坂氏の文章には存在していないものだと思います。

かん‐び【甘美】
[名・形動]
1 味が程よく甘くて、うまいこと。また、そのさま。「―な菓子」
2 心地よくうっとりとした気持ちにさせること。また、そのさま。「―な夢」「―な音楽」
Yahoo!辞書より

ここでは当然2の意味です。
「心地よくうっとりした気持ちにさせる」文章が甘美さならば、甘美な文章とは、非現実的であると言うことができるでしょう。もうちょっと言葉を費やせば、現実を直接的に描写するのではなく、婉曲に、情緒的なニュアンスを持たせて描写するような文章だ、ということです。感覚的に言えば、「ふわふわした文章」って感じでしょうか。描写される本来の事物に詩的なヴェールをかぶせて、言ってしまえば、本体を柔らかなベルベットでくるんだ表現で、読み手に物語を届けているようなものだと思うんです。そして、そのときの言葉の選び方が、「柔らかなベルベット」と表現したように、流麗さを基準にされていることが、「甘美さ」なのです。

表現が流麗だとどうなる?



流麗な表現の文章。まさに世間ではこのような文章を、「ロマンチックな文章」や「詩的な文章」と呼ぶのではないでしょうか。では、そのような表現で構成された文章はどのようなものなのでしょう。
私はそれは、自己陶酔に溢れた文章だと感じてしまうんです。あるいは谷川俊太郎氏の言葉を借りれば、「うるさい」文章。孫引きで申し訳ないんですが、内田樹先生の著作の中でこんな話がありました。

内田

佐藤学先生が「身体のダイアローグ」(太郎次郎社)の中で谷川俊太郎さんと対談しているんですけど、その時に谷川さんがすごくおもしろいことを言っていました。詩として成立する言葉と成立しない言葉がある。その違いというのは直感的にしか言えないことなんだけれど、詩にならない言葉というのは「うるさい」と谷川さんは言うんです。「わたしが、わたしが」と言い立てる詩は、どんなに切実であっても、うるさい。たった三行でも、「わたしが、わたしが」と言いつのる詩はうるさい。逆に、言葉が、詩人の「わたし」から離れて、自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいということを言ってらした。

(身体の言い分 内田樹・池上六朗 毎日新聞社 p24)

流麗さが過剰に過ぎる文章は、とても「うるさい」んです。なんというか、文章の向こうの作者の「私が私が」というのが聞こえてきてしまう。私にとってはそう感じられるんです。
この作者の「私が私が」は、つまり「こんな文章書ける俺ってすごくね?」ってことです。「こんな素敵な文章書ける俺って素敵じゃね?」。これをして、上で「自己陶酔」という言葉を使いました。言葉を選ばなければオナニープレイ。気持ちいいことを気持ちいいままにおおっぴらにしているイメージです。
読んで気持ちのいい文章があるように、書いていて気持ちのいい文章、言葉の流れに恍惚としてしまうような文章もあります。ですが、それらが必ずしも同一のものであるとは限らないのが、辛いところなのです。えてして作者に気持ちのいい文章は、読者にとって「うるさく」感じてしまうものだったりします。作者が思いついてしまったそれを書きたいがために、前後の文脈から浮いてしまうような文章が挿入されてしまうのです。
これは、その「うるさい」文章の内容で絶対的に決められるものではなく、あくまで全体の文章の中で文脈に依存します。ある作品の中で気持ちよく響く文章も、他の作品で一言一句違わずに使われたときに、ひどく「うるさい」文章になってしまうというのはありうることなのです。ですから、流麗な文章が悪いわけでは決してありません。流麗さが一部だけ肥大している文章に、居心地の悪さを覚えてしまうのです。

じゃあ本題に戻ろうか。



で、伊坂幸太郎氏の文章に戻ってきます。ロマンティックでない氏の文章。基本的には、上で述べてきたことの裏返しです。情緒的でない。甘美でない。流麗でない。うるさくない。それが氏の文章であると、私は思うのです。
ちょっとだけ具体的な話をしましょう。流麗さを出すには、一つポイントがあります。それは単純に、文章がある程度以上長いこと。「『流』麗」というだけあって、流麗な文章には流れが必要です。澱むことなく言葉が流れていくことが大事なのであり、単文(短文)では終わらず、複文・重文をふんだんに使って、一文の量が多くなって初めて、流麗な文章の印象を与えうるのです(文レベルでなく、段落レベルで流麗さを認められる場合は、逆に短文を多く並べることで、流れをだしていることもあります)。
翻って伊坂氏の文章は、かなり短いです。重文構造の文章の少なさは言うに及ばず、複文構造の文章さえ多いとは言えません。これでは流麗さなど出しようもないのです。前回にも触れた「伊坂氏の特殊なリズミカルさ」は、このようなことであるとも言えると思います。


また、文章そのものに、叙情性が低いことも挙げられます。他の作家の作品と比べて、心理描写に割く量がかなり少ないと思うんですよ。相対的に、単純な事実描写の量が多い。直接的に(非比喩的にという意味ではなく)地の文で心理描写がなされることが少なく、行動や表情の描写、あるいは台詞から心理状態を表現することが多いと思います。


さらに言えば、伊坂氏の比喩は、使った後にそれを引きずらない。比喩はあくまで状況描写の一助として使い、その比喩の幻想的な水準のニュアンスをその一文の中だけで切り捨てるのです。自分で使った比喩に溺れないというか、「比喩は比喩。あくまで技法でしょ?」といわんばかりに無造作に喩え、次の文章ではその前とまるで変わらず言葉を続けていくのです。そのクールさが、とても心地いい。


ロマンティックでない文章は、とても珍しいと思います。特に若手の作家であれば、文章に甘美さを入れたがるものですし、実際に作中に多く認められものであると思います。私が最近の作家より、比較的古い作家を好むのも、そこらへんに関係があるのかもしれません。ですが古い作家の文章は、ロマンティックではないけど、逆に堅苦しいものではあります。その硬質さも好きではあるのですが、それにずっと浸かっていると大儀になってくるのも事実です。その点伊坂氏は、ロマンティックでなく、且つ軽妙さもある。非常に私好みだと言えます。ストーリーメイキングの巧みさがとかく話題になりがちな伊坂氏ですが、ストーリーテリングのこの特質も、人気の一端だと思うのです。「ロマンはどこだ」が口癖の響野さんも、実は自分の世界がまるでロマンチックでないと知ったら、がっかりするかもしれませんね。

ちょっと余談。



流麗さを極力排除した魅力を有しているのが伊坂幸太郎氏なら、流麗さを全開に発動させた魅力を有しているのが西尾維新氏だと思います。デビュー作の「クビキリサイクル」からその特質は溢れまくり、奔放な言葉遊び、こってりした比喩、ときとして冗長とさえいえるほどの文章。まあ西尾氏の場合、「冗」の部分こそが魅力なわけなんですが。
思うんですが、流麗さに強く肯定的な評価を下すのって中二的な特性だと思うんですよ。シンプルなものではなく、装飾過多なものに憧れる年頃とでも言いましょうか、素朴さ・真面目さなどではなく、きらびやかさやインパクト至上主義な年頃言いましょうか、いかにもテクニカルなものに「すげえ」と思う心性だと思うんですよ、中二的ってやつは。
西尾氏の作風は、そんな中二的心性を抑えることなく、むしろ過剰にブーストをかけて炸裂させたもので、しかも氏自身がその中二臭さに極めて自覚的であるはずです。中二感に対して中途半端に自覚的だと、文章の八割が中二的なのにも関わらず、残りの二割で我に返り、そこだけ普通の文章になる。結果、普通の文章がある分だけ気恥ずかしさが倍加するのですが、そこらへんを完全に割り切って中二感を全面押し通すからこそ、西尾氏の作品がラノベ界(で括っていいものかは微妙だと思ってますが)頭一つ抜けることになっているのだと思います。
「戯言」シリーズ、「人間」シリーズ、「りすか」シリーズ、「きみぼく」シリーズでは、文章面だけでなく設定面でも中二色を押し出し、「刀語」シリーズや「化物語」シリーズ(つまりは講談社BOXシリーズ)では、表現面での中二色を抑え、ノリの面でだけ中二感を残しているように感じます。ある方の言葉を借りれば、「『天才マーケット』から『普通の人マーケット』へのシフト」ということでしょうか(参考;3touhei's Lonely Hearts Web site モチベーション談義序章 『エリート』対『天才』)。


ま、ざっくりまとめてしまえば、自分の文章のニュアンスに自覚的になれる作家は面白いよな、ということですね。伊坂氏の新刊はいつかしら。そして西尾氏の「真庭語」と「蹴語」はちゃんと書籍化されるんでしょうか。ていうか、「りすか」の最終巻は書いているんでしょうか。期待は止みません。








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