作品の中で、登場人物の心理描写に使われる小道具は色々ありますが、その中に「きれいな空」があります。まずは色々例を挙げてみましょう。
リアル 井上雄彦 2 p210 陸上の本番で骨肉腫が完全に発症し、これが生涯最後の走りとなったシーンで
G戦場ヘブンズドア 日本橋ヨヲコ 2 p190 鉄男の母親が亡くなることでもう彼の心を縛り付けるものがなくなり、そのやるせないまでの残酷な解放感を、久美子が自分の過去と重ねて
ヨコハマ買い出し紀行 芦奈野ひとし 7 p11 冬の昼間、二人で道を歩いている時
バガボンド 井上雄彦 23 #205「啐啄」より 光悦が、己の目指す刀研ぎの比喩として
また、画像ではありませんが、「jojoの奇妙な冒険 第5部」(荒木飛呂彦)で、アバッキオが死ぬ回のタイトルは「今にも落ちてきそうな空の下で」でした。
空の「絶望」
前者二つの「空」は、自分の身の上に起こった不幸と対比しての、美しいまでの世界の象徴です。どんなに自分が不幸であろうとも、世界はそれに全く関係のないところで美しく存在している。いわば、自分が世界と全く関係していないこと、世界が自分を全く気にかけていないことを意味しているのであり、世界からどうしようもなく切り離された孤独感からの絶望を表しているのです。
「ブギーポップ」シリーズでおなじみの上遠野浩平氏は、「人間にとって(略)最大の恐怖は、自分のしていること、してきたことすべて未来に何の関係もないとしったときだ」*1と言っています。自分の行為と未来が関係ないということは、自らと世界が切り離されているということと同義です。およそ自分のなすことで、世界が何一つ変わらないこと、世界に一切影響を与えないということに、人はどうしようもない恐怖を覚えるというのです。私はそれは、恐怖であると同時に絶望でもあると思うのです。むしろ、絶望ゆえに恐怖するといったほうが正しいでしょうか、絶望が予感されるがゆえに、恐怖が生まれるのです。
この「不幸な自分とまるで関係なく美しい世界」というのは、世界から取り残された絶望を表すのであり、「美しい空」は、人にとってもっとも身近にある、もっともどうしようもない世界の美しさ代表だといえるでしょう。人間には、降りしきる雨を晴らすには祈るしかなく、澄み渡る青空を汚すことはどうあがいても不可能だからです。
空の「虚無」
次の二つの例はでは、空は「虚無」を表しています。
「ヨコハマ〜」では、「夕凪の時代」*2の路上を歩く二人が、「ものすごい晴れ方」の空の下で、その澄み渡り具合に感じ入っており、この前のコマでは
空は黒いくらい青くて深い
と表現しています。黒く、青く、深い空と、その下を歩く自分たち。大地にへばりついて生きるしかない自分たちと、その上で深々と存在している空。虚無まで届くようなその深さに、自分たちの矮小さを思い知らされているのだと思います。
「バガボンド」では、刀研ぎの到達点、目指すべき境地の比喩として、刀の鉄の中から「真夏の蒼穹よりも黒々とした青を」研ぎ出したいと、光悦は言いました。本来的には、黒は光を全て吸収してしまう色であり、光の拡散により青く映る空とは対極にあるような比喩なのですが、それでも光悦は、空の遠さ、果てしなさ、虚無的な存在に、目指すべき境地を託したのであると思うのです。
最後のアバッキオの例は、「絶望」と「虚無」の複合的なニュアンスがあると思います。今際の際に見た、過去の後悔とその治癒の夢想。そこには、もう世界とは関係できない絶望と、死という虚無へ向かうアバッキオのどうしようもない思いが入り混じっているのです。このとき「空」は、「あの世」とほぼ同一視できる概念であると思います。
空は、人が地上にいる以上絶対に手の届かないものです。いえ、宙を飛んだところで、空に手が届いたとは思えないかもしれません。雲の上まで出ようとも、まだその上には空が広がっているからです。どこまでいっても完全に掌握することはできない、絶対的な彼岸にある空。それはまさに「虚無」の象徴だと思うのです。