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「リアル」で描かれているもの

リアル 8 (ヤングジャンプコミックス)

リアル 8 (ヤングジャンプコミックス)

週刊誌で連載してるのにおよそ11ヶ月ぶりの新刊となる「リアル」です。なんだ、「ハンタ」より遅いのか。まあ「バガボンド」との並行連載とか、「最後のマンガ展」とかありましたけど(「最後のマンガ展」の画集「いのうえの 満月篇」についての記事はこちら 「いのうえの 満月篇」がやってきた - ポンコツ山田.com)。

「リアル」と「バガボンド

私が「リアル」を初めて読んだのは、実はわりと最近で、今年の六月のことでした。「スラダン」は大好きでしたけど、なぜか手を出していなかったんですよね。まあたぶん、連載開始と同時に読めず一旦乗り遅れてしまったことで、へそ曲がりが顔を出してしまったのでしょう。
それでも、読んではいなくても概要程度は知っていました(それこそなぜか)。「車椅子の人間たちがする障害者バスケ漫画」。それが、実際に読む前の「リアル」に対する私のイメージでした。
もともと「スラダン」で大ブレイクした井上先生で、次に何を描こうかと考えていたところに「『宮本武蔵』を描きませんか?」とオファーしてきたのが講談社。古巣の集英社は勿論、他の依頼に来た出版社も、「井上先生の好きなものを描いてください」と丸投げしていたところへ、きちんとテーマを持ってきたところに講談社の編集者の有能さがあったんでしょうね。
閑話休題。そうして始まったモーニングでの「バガボンド」の連載から遅れること一年、ヤンジャンで「リアル」の連載が始まりました。「時代物ロードムービー*1を連載するのと同時に、車椅子バスケ。普通に考えれば、前者が群像劇、後者がスポーツ物という捉え方でしょう。「ああ、井上先生もやっぱりスポーツ物が描きたくなったんだな」と。ですがその予想は、連載が進むにつれて裏切られることになります。
今「バガボンド」が目指しているところは、「人を斬る」という身体運用のある種の極点にあるようなものを描き出すことであったり、「人を殺すとは」、「如何に生きるのか」という道徳倫理の最終命題となるようなものに一つの答えを導き出すことであったりします。
対して「リアル」が描いているものは、「人の弱さとは/強さとは」、また「バガボンド」とは違った意味での「如何に生きるのか」ということです。「リアル」において「車椅子バスケ」はあくまで題材の一つであり、主題であるわけではないと思うのです。

「リアル」の三本の軸

読めばわかることですが、「リアル」では三人の主要な登場人物がいて、それぞれに異なる世界があります。


一人目。野宮朋美。高校を中退した不良。でもバスケは大好き。学校には行かないくせに部活には顔を出すほど。だが、バスケ部を退部した後、街でナンパした女の子・山下夏美とバイクに乗っているところで事故を起こし、彼女は下半身不随となってしまう。それも一つの原因で高校を辞めてしまう。罪悪感と、自分はなにをやればいいのかという無力感に苛まれているところに、戸川と出会う。


二人目。戸川清春。罹患した骨肉腫が悪化してしまい、中学時代に右足を切断。以後車椅子生活となる。中学時代は陸上部に所属し、全国に通用するほどの短距離ランナーだったが、諦めざるをえなくなった。全精力を傾けていた陸上を取り上げられ無気力に生きていたところで、山内仁史、勝川虎に出会い、車椅子バスケを始める。


三人目。高橋久信。野宮の同級生で、同じバスケ部(だった)。成績優秀でイケメンのバスケ部キャプテンと、皆から一目置かれる人間だったが、盗んだ自転車で走っている最中にトラックと事故を起こし、半身不随となる。自らを「Aランク」と称するほどに傲慢な性格をしていたが、事故のせいで全てを失った(と自分で感じた)ことで、「底辺以下」とまで言い、絶望の淵に立たされる。


物語は、この三人の視点で展開していきます。
野宮は自分の生き方を模索するために、戸川はバスケが上手くなるために、高橋は一度うつむいた自分の顔を上げるために、それぞれ歩いているのです。

三人の「弱さ」と「強さ」

この三人には皆、弱いのです。強そうでも弱いのです。弱そうでも強いのです。今は強くてもかつては弱かったのです。今は弱くてもかつては強かったのです。
戸川は、右足を喪ったときこそ酷い自失の有様でしたが、二人の恩人に会うことで、生きる希望を得られ、今では全日本の合宿に呼ばれるほどになりました。でも車椅子。
高橋は、事故に遭う前は皆からの信頼も厚く、リア充と呼べるような人間でしたが、事故に遭ってからは絶望の一途。親には当り散らし、彼女には当り散らし、友人には当り散らし、看護士には当り散らし、自傷行為さえしました。まだ退院の目処も立たないくらいに、回復していません。
野宮は、身体こそ健康ですが、罪悪感には苛まれ、やりたいこともみつからず、軌道に乗るかと思えた引越し屋のバイト先も倒産、生きることが無目的になってしまっています。


肉体的なハンデを抱える戸川は、精神的には野宮を勇気付けられるほどに強く、野宮の車椅子に弱さを見出さない態度は、戸川やそのチームメイトたちと壁を作りません。野宮のバスケ経験の長さは戸川に示唆を与え、戸川のバスケのひたむきさは野宮にかつての熱情を思い出させます。障害者の戸川の「強く」生きる姿は、健常者の野宮に「強く」生きることを見出させるのです。


この戸川を陽とするなら、高橋は陰。高橋の物語は戸川と真逆、「弱さ」から始まります。
「Aランク」から「底辺以下」まで一気に転落した高橋。その心中の荒れようは上に書いたとおりで、退院のためのリハビリも、彼はサボり続けていました。生きる意味を喪失し、生きる楽しさを見失った彼は、退院することになんの価値も感じられなかったのです。ですがそんな彼も、彼女の献身的なお見舞いで「ランク」の意義を見直すきっかけを得ました。そして、かつて出て行ってしまった父親としばらく一緒に暮らすことで、父親との別れで負った傷があったことに気づき、それを口にすることができた。彼は、自分の「弱さ」を一つ一つ見つけ出すことで、生きる意味を探し出すのです。

「リアル」の中の「弱さ」と「強さ」

「強さ」や「弱さ」というものは、それだけで存在できるものではないのだと思います。それらを抽象的に言い表すことができても、抽象化された時点で、つまり広く一般に当てはまるようになった時点で、それは誰のものでもなくなってしまうのです。
例えば「170cm」や「300ℓ」、「10万馬力」という数値が単独で存在していても、それは何も意味がありません。「『170cm』の男性」、「『300ℓ』の浴槽」、「『10万馬力』のロボット」のように、具体的何かを言い表すのでなければ、数値になんら実体性はないのです。
このように、「強さ」や「弱さ」を描く(書く)ためには、「強い」誰かや「弱い」誰か、否、具体的な誰かの「強さ」や「弱さ」を描かなくては意味がないと思うのです。


「リアル」で井上先生がやりたいことは、この具体性を執拗なまでに追い求めることなのではないのでしょうか。
かの巨匠手塚治虫は、「人間の心とは何か」を描くために、人間ではないが心を持った「鉄腕アトム」を生み出しました。「人間社会とは何か」を描くために、動物たちの社会である「ジャングル大帝」を生み出しました。何かを描くために、あえてそれをもたないものを描くと言う手法があります。その例で言えば、井上先生は「強さとは何か」を描くために、それぞれに弱さを抱えた三人を生み出したのだと思うのです。


私は初め、この作品を読み返すことができませんでした。それは、あまりにも物語が重すぎたから。迂闊に読むとその重さに、心のリミッターが振り切れてしまうように感じられたのです(ちなみに、同様の印象を受けた作品に「ブラッドハーレーの馬車」、「僕の小規模な失敗」があります)。この「弱さ」の描き方の重さは容赦がありません。
ですが八巻に入り、この三人が三人とも前を向き始めました。「弱さ」の中から「強さ」が顔を見せ始めたのです。これは今後の展開に期待せざるを得ない!
で、この続きがまた一年後というのはなんとも酷な話です。井上先生、せめて半年後で……。


p.s 井上先生の描く幸薄そうな女性の顔が好き。「リアル」の安積もそうだし、「スラダン」では晴子より彩子より藤井ちゃん派。








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*1:「いのうえの 三日月篇」より