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「戯言シリーズ」における、主人公とヒロインの関係性 〜最終巻でのヒロイン放置プレイの裏側

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

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モチベーション談義序章 『エリート』対『天才』

この記事に、本筋と直接は関係ないんですが、西尾維新戯言シリーズ」における、主人公と玖渚友の関係性と物語構造について触れられている部分(リンク先中ほど、「『天才』マーケットとライトノベル」のあたり)があり、そこについて私はちょっと違う考えを持っているので、書いてみました。
本当はこのサイト様のコメント欄で書くべきなのでしょうが、ちょっとコメント欄に収めるには量が増えてしまったので、やむなく自分のブログで書かせてもらいます。
記事の本筋も非常に興味深い内容なので、是非そちらにも眼を通してみてください。


まず該当部の引用をさせていただきます。

だけど、戯言シリーズの最終巻「青色サヴァン戯言遣い」では、「天才やめます宣言」が唐突に、ホントに唐突に語られた。
作品のストーリとほとんど無関係に、天才ヒロインの久渚友が、凡人になって生きるか、天才のままで死ぬかという自己改造選択肢を迫られていることが、背景情報として描かれる。

「でも、ゼロじゃないって意味だよ。それなりの代償は伴う。愚鈍と言って差し支えない領域にまで、僕様ちゃんの知能は落ち込み、陥るだろう。視力はまず、ほとんど失われるだろうし―――きっと、髪も、黒くなっちゃうね。凡人以下だ」
(「青色サヴァン戯言遣い」より)



しかも、主人公の戦いは久渚友と無関係なまま続いてしまう。読んだときには「なんだこれ」とかつぶやいちゃったよ。正直言って、これほどヒロインを完全放置した小説は無え!

この「脱天才」のくだりは、通常の物語構造としては、どう考えても無駄だ。
にもかかわらず、「天才としての死、凡人としての再生」という要素をここにぶち込んだのは、古典的ライトノベル=超主観小説ならではのポイントなのだろう。


以下がそれに対する私の考えです。


戯言シリーズは、わりと序盤からヒロインであるはずの玖渚友の存在が異質であったと思います。ラノベ的な意味のヒロイン役(主人公にとっての、あるいは作品内でのアイドル的ポジション)は、むしろ浅野みい子や闇口崩子あたりの方が美味しいところを持ってっていると思うのです(哀川潤はもはやヒーロー)。

元々単発であったはずの作品が連載化した事で、中途での路線変更・方針転換は随所でありますが、玖渚友は早々に主人公の暗部を象徴するようなポジションに身を置き始め、「サイコロジカル」でそれはほぼ確定します。主人公が単純に思慕を傾けられる相手ではなく、「大好き」と「大嫌い」、否、「愛」と「憎悪」がまるで同時に、それも極めて膨大に存在しうるもので、一般的なヒロインとはその存在理由において一線を画していると思うのです。

アイドル、偶像として、慰安の象徴として存在する「ヒロイン」と異なり、玖渚友は、主人公の裏側として存在する。同じ傷を舐め合うという、独立した別の存在同士が共通目的を持つという形どころではなく、同じ傷を共有する、同じ傷で歪に分かちがたく結びついていると形容してさえいいと思います(表現は適切ではないかもしれませんが、あたかもベトちゃんドクちゃんのように。あるいは、「サイコロジカル」上巻で兎吊木が二人を表現したように)。

その根っこには、二人を取り巻く状況そのもののほかに、主人公の天才性と玖渚友の天才性(能力的な意味でも、三等兵さんのおっしゃる精神的な意味でも)があり、二人のどちらが先ということもなく、能力と精神のどちらが先ということもなく、ニワトリタマゴのように不明の彼方に起源があると思います。

主人公は成長することで、「天才観察者から、凡庸な行動者へ」と変化する。つまり成長することで天才性を喪失しているのであり、それは同時に、今まで天才性という傷で癒着していた玖渚友から切り離されることを意味します。

半身を喪った玖渚友がとり得る道は二つ。天才のまま死ぬか、凡庸になり生きるか。最終的には後者を選んだ玖渚友ですが、その前の最後の二人の会話である、マンション屋上での会話。このくだりは、天才から凡庸となる道を選んだ主人公を書く以上、必要なものだと思います。裏表どころか、陰陽大極図のように絡み合った存在の一方の変化を書く以上、ずっと一緒にい続けてきたその半身についても書かないわけにはいきませんから。

結局最終巻では最初と最後以外出番のなかった玖渚友ですが、まさに変化している真っ最中である主人公を書くことは、おそらく玖渚友の変化を書くこととイコールでもある(少なくともニアリーイコールくらいは)と思うのです。ですから、文章上では「ヒロイン」完全放置かもしれませんが、物語(の内部のキャラの関係の構造)としては、主人公の戦い(最終決戦だけでなく、一連のものも含めて)は玖渚友と無関係ではなかったのではないでしょうか。それは主人公の成長の軌跡でもあると同時に、主人公の半身である玖渚友の成長の軌跡でもあり、この時点で(というか、「サイコロジカル」の時点で)玖渚友は既に「ヒロイン」の立場を脱していた。そして、最後には二人して凡庸になったことで初めて、玖渚友は再びヒロインの座に還ってきたと思うのです。

このようなキャラの関係の構造がある以上、私は物語としてこのくだりは必須であったと思います。




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