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漫画の話です。

「H×H」に見る、漫画内に流れる文の階層

HUNTER X HUNTER26 (ジャンプ・コミックス)

HUNTER X HUNTER26 (ジャンプ・コミックス)

(注;今回の記事は、「ハンタ」の26巻までを読んでいることが後半部の前提となっています。前半部は特に関係ないですが)

今の日本人は、子供の頃から漫画が当然の如くすぐそこにあるような環境で育っています。だから、といっていいものか、基本的に漫画というのは子供の読むものであって、その存在価値は多くの知識人たちに軽んじられており、その認識は市井の人々にも広く染み渡っているように思えます。特に年齢が上がれば上がるほどその傾向は強くなるでしょうし、子供の頃に(あるいは大きくなってからでも)「漫画ばっかり読んでるんじゃありません」と怒られた人も少なくないでしょう。
ですが、漫画とは果たして本当に軽んじられるようなメディアなのでしょうか。
ここで内田樹先生の言葉を引いてみましょう。

なぜ日本ではマンガが15億部も売れるのか。
理由は簡単だ。クオリティが高いからである。
(中略)
日本マンガは、手塚治虫以来半世紀の歴史の中でこれまでどの表現芸術も経験したことのないほどの技巧の洗練と市場の熟成と批評性の高さに到達した。私はそう考えている。
(中略)
だから、子どもたちがマンガばかり読むのは当たり前なのである。だって、日本の子どもたちにいま提供されている文化的リソースの中で、マンガのクオリティに及ぶものが他にないからだ。

(期間限定の思想 p193〜194)

と、日本の漫画を強く擁護しています。
私も日本の漫画のクオリティの高さには諸手を挙げて賛成します(他文化の漫画的な存在については殆ど知らないので、他との比較の意味ではないですが)が、さらに内田先生はこんなこともおっしゃっています。

それはマンガは「画と字」のハイブリッドだということである。だから、当たり前のことだが、字が読めない人はマンガが読めない。
例えばフランス人はほとんどマンガを読まない。
そこつな人はそれを文化的な高さのしるしだと考えるかもしれない。だが、それが識字率の低さの徴候である可能性は吟味されてもよい(フランス人の非識字率は15%。『フィガロ』によると、フランスの小学生の35%は速読で文意をとることができない)。つまり、猛然たる勢いでマンガの頁をめくっているとき、子どもたちは膨大な量の「活字」をも同時に読み込んでいるのである。そして、それがしたくてもできない子どもは世界中に山のようにいるのである。

(同書 p195)

つまり、そもそも漫画を読むには、一般的に思われるより遙かに高いリテラシーが必要とされているのです。

そういえば「こち亀」でも、江崎教授が漫画は素晴らしいメディアであると力説した回がありましたが、その回で大原部長は、生まれて初めて読んだ漫画の内容をまるで理解することが出来ませんでした。
コマをどのような順で読んでいいかわからず、台詞をどのタイミングで読んでいいかわからず、地の文をいつ読んでいいかわからず、読書という行為にちんぷんかんぷんになっている様子が活写されていますが、年配の方が始めて漫画を読むときは実際あんな具合なのかもしれません。漫画には漫画特有の読み方、文法があるものなのです。

また、大原部長のような年配の人間でなくとも、例えば少年誌しか読んだことのない人間が、初めて少女漫画、それもかなりキラキラした類のものを読んだ時なぞ、同様に読み方がわからなくなることもあるでしょう。
概して、男性向け(性的な意味でなく)の漫画に比べて女性向けの漫画はコマ割の自由度が高く、キャラが平気でコマをぶち抜いて描かれていたり、「いったいこの台詞は誰のものなんだ」と思ってしまうようなフキダシがあったりします。
これの違いはいったい何に基づいているものなのかよくわかりませんが、読みなれていない人間には、少女漫画もなかなかハードルが高いものなのです。

さて、そのような少女漫画的なハードルの高さ、つまり、画面構成の面でのわかりづらさとはさらに一線を画すところまで、最近の「ハンタ」は読解能力を要求しています。ふう、ようやくタイトルにつながった。

まずは論より証拠。最新巻のこのコマを見てください。
(「HUNTER×HUNTER」No.26 p79)

コムギを治すピトーの元にゴンとキルアが飛び込み、激昂するゴンの傍らでキルアが状況を悟るシーンです。
注目すべきは、このコマに書かれている文字群の、それぞれの階層の違いです。
より具体的には、
・太字の文字(「王の命令で/治されているんだ…!!!」)
・ベタフラのフキダシ(「ピトーの治す能力は〜」など)
・枠線で区切られている文(「それはゴンにとって〜」など)
の三種類。この三種の文は、それぞれ発話された階層が異なっているのです。

一つ一つ説明しましょう。
まず太字の文字。これは、前ページからつながるキルアの心裡独白で、キメゴマと共に記された、キルアが最も強く思い至った感情であり、同時に、読み手に最も強く伝えたい情報となっています。それゆえこの文字は太字で表され、かつコムギの絵にもかかっているのです。

次にベタフラのフキダシ。これは、まずキルアが太字の感情に思い至り、そこから派生的に発生した感情です。
「コムギが、王の命によりピトーにより治癒されている」という状況を認識したキルアが、そこからさらに、ピトーがゴンとキルアにこの瞬間敵意を持っていない、持ち得ない理由に思い至ったことが、このベタフラのフキダシで表されているのです。
まず太字の感情に思い至らなければ、ベタフラの感情は発生せず、その意味で、後者は前者の下位階層に属する感情だといえます。ベタフラがわずかに絵の下にもぐりこんでいることからも、それは言えるでしょう。

最後に枠線内の文章。これは読んでわかるとおり、地の文、説明文、作者サイドの文であり、いわば神の声です。
この状況を神的視点から俯瞰し、コムギとピトーの状況に気づいたキルアの心的状況に気づいているものでなければ書けない文章となっています。つまり、他の文章群、それどころか絵、否、ストーリーそのものに対してさえ上位の階層にある文章なのです。

(同書 p49)
ちょっと見づらいですが、このページのプフも同様で、

・普通のフキダシ内の、実際に声に出された台詞
・おどろおどろしいフキダシ内の、心裡独白
・枠線内の神の声

と、三階層の文があります。


このように、物語的に意味を持ちうる絵に加えて、複数の意味階層に分かれる文章をたった一つのページにがつんがっつんつめこんでいるのが、最近の「ハンタ」なのです。
そりゃあ漫画のクオリティが高いと言わざるを得ないでしょうし、漫画にはリテラシーが高く要求されているというテーゼに首肯しないわけにはいかないでしょう。

無論のこと、複数階層の文章を一つのページ内に混乱を不必要に起こさせずに書き込むというのには、作者の高い力量が要求されます。
やっぱすげぇよ冨樫先生。俺は年二冊ペースでもかまわない。

ということで、単行本派の私はさっそく27巻の発売を首を長くして待つ者です。





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