ポンコツ山田.com

漫画の話です。

つまり男は顔じゃないということです

高校生クイズといえば、私も高二の時に出場しました。ま、最初の○×で落とされたんですけど、思い出ちゃー思い出です。

で、今年のそれ。
それこそ高校の時分からテレビを見ることが極端に減っていたので、端から見る気はなかったのだが、当日の新聞のテレビ欄での惹句のあまりのひどさに、「おいおい、いつの間にここまで身も蓋もセンスも知性も品もなくなったんだよ」と幻滅したのだが、やはりというかなんというか、こんな記事が書かれるくらいのクオリティだったらしい。

今年は最悪の年だった「高校生クイズ」

新聞のテレビ欄といえば、事前にどの番組を見るか決める重要な要因の一つであることに異論はないだろうが、そこであのように、生徒個人ではなく学校のネームバリューのみを前面に押し出した、身も蓋も品性も知性もない文章をのっけるようでは、悪い意味で「看板に偽りなし」ということなのだろう。

どんな文章かということで、転載。

開局55周年記念番組/第28回高校生クイズ/超エリート校が集結!!/今夜、偏差値バトルで最強頭脳日本一が決定/東大合格人数№1開成/vs東大合格率№1灘高/医学部合格率№1東海/vs公立で東大№1浦和/早稲田ラサール慶応…/日本一難しいクイズに/宇治原&伊集院も仰天/オリラジ涙


キーを打ってて泣けてきた。

あの欄にかかれる文章は、なによりもまず視聴者の注意を惹きつけ、かつその番組を見たいという気持ちを喚起させることが要請されるわけだが、ライター、ひいては全体の監修者は、あの文章を読めば人々はテレビの前に釘付けになるだろうと考えていたということになる。


そうなの?今の世間てそういうものなの?あの手の文章に嫌悪感を持たないものなの?俺が古いの?元々おかしいの?


頭がいいことは素晴らしいことだ。偏差値が高いことも素晴らしいことだ。
それは、運動が出来ること、歌が上手いこと、容貌に優れていること、料理が得意なこと、しゃべりに長けていることなどと同じく、「テレビに出る」(=一般の耳目を集める)というハードルをクリアするに耐えうるスキルだ。
だが、それが最上級の価値を有するという前提を無根拠に採用して、広くそれを持たざるものに押し付けるという態度は、人々の反感を買うものだったはずだ。

襤褸は着てても心は錦」という言葉は、(陳腐に言えば)「価値の多様性」を端的に表している。
金銭は完全にゼロサムゲームの駒であり、持つものがいれば必ず持たざるものも同時にいる。それゆえ、金銭を唯一の価値に置くことで、有限のリソースに向かって情け容赦のない収奪合戦が起こってしまうことのないように、古来からそのような言葉が語り継がれてきたのだ。
金銭が有用であり、重要であることに異論はない。それが唯一絶対最良の価値であると断ぜられることに、問題があるのだ。
だからこそ、お金に目の色を変えて生きている人間を「銭ゲバ」などと蔑む風潮があったのである。それはただの貧乏人の僻みではない。社会の多元性を維持し、有限なリソースで円滑に社会を機能させるための、人類学的な知見なのだ。

知性、知識は確かにその手のリソースではないのだが、それが「偏差値」という側面から表されれば、ゼロサムゲームの渦中に引きずり込まれざるを得ない。
偏差値は、あくまで全体の中の自身の位置であり、究極的には、自身の持つ知識量は関係がない。自分がどれだけ頭が良くても、周りがもっと頭がよければ偏差値は低いし、自分がどれだけ頭が悪くても、周りがもっと頭が悪ければ、偏差値は高値を叩きだす。偏差値はそのような性質でしかないのだ。

偏差値を至高の価値だと置いてしまうことは、結局のところ、自分のポジションの上下のみに一喜一憂し、実質的な知性については省みられなくなる懸念がある。
少し考えてみればわかる。自分の偏差値を上げるにはどうすればいいか、手段はふたつある。つまり、自分のテストの点を周りの人間より上げるか、周りの人間の点を自分より下げるか。圧倒的に簡単なのは後者だ。なにしろ、周りの人間の勉強の邪魔をすればいいだけなのだから。
つまり、偏差値への過剰な信仰は、知性の発達には寄与せず、むしろ全体の知性のボトムダウンにつながりかねない(実際、毎年ある予備校で行っている模試で、同程度の難易度のテストをしているにもかかわらず、20年ほど前から、素点が毎年1点のペースで下がっているというデータがある)。

このように、お金などと同様、偏差値が至高のものだと無闇に言い張る態度は、社会的に蔑んだ眼で見られて然るべきだと思うのだが、メディアはそんなわけはないと言わんばかりに煽り立てている。その長年の結果としての現在(「ゆとり」)であると思うのだが、そんな状況であるほうがメディアは都合がいいようで(具体的にはお金が稼げるので)、偏差値の御旗を振ることをやめない。
何十年後かに今の日本を振り返って、知性の谷底の時代であったと悲しまれることさえありうるだろうが、その責任の一端を、拝金主義のメディアが担っていないとはとてもじゃないが言えないと思うのだ。
踊る阿呆と躍らせる阿呆。どっちも悪いけど、躍らせない道もあるはずなのにあえて躍らせる阿呆の罪は、一ランク重いんじゃなかろうか。俺らが等活地獄に堕ちたとしたら、やつらはきっと黒縄地獄に堕ちる。

蛇足ながら、今回番組の監修に、「クソエンタのクソ神様」でおなじみの、ゴミ一男氏が就いていたという。
もうあいつは無間地獄でいいよ。






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