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「偽物語」と西尾維新作品のアニメ化について

偽物語(上) (講談社BOX)

偽物語(上) (講談社BOX)

さっそく買ってきて、さっそく読破しました。そしてさっそく二周目も終えました。

以下、「化物語」シリーズの致命的なネタバレを含む(特に「まよいマイマイ」について)文章となりますので、少しでも興を殺がれるのはごめんだという方はご注意ください。


今回非常に気になった、というかメタ的に笑ったのは、本筋とは基本的に無関係な部分、会話の妙を楽しむための部分、言ってみれば作者の趣味全開の部分が、実に作品全体の1/3、100ページ以上にわたって展開されていたことです。
このシリーズのお約束的構成である、冒頭の後日談的導入、そして、物語の開始は、起承転結の転から唐突に始まり、次章から起承を回想する形で時系列が回復するんですが、その起承の部分が長い上に、本筋とほぼまるで関係がない。というか、その回想的説明で思う存分、勝手気ままの好き勝手にキャラ立ちを活かした会話を楽しんで、本全体の半分に届こうかというところで、ようやく本筋が始まったと言っても過言ではないと思います。ま、面白いんで全く問題はないんですけど。
個人的には「『噛みま死ね』」、「蹴ったマシン」、「鷲巣麻雀牌」がツボ。

そして、これは「戯言」シリーズで意識していたことで、おそらく今作でも踏襲しているのであろうことですが、シリーズ中の続編に、極力発表済みの話のネタバレを書かないようにしている点です。
具体的には、既に死んで幽霊として(作中の言葉を使えば「怪異」として)存在している八九寺を、知らずに読めば、あたかも生きている小学生、かつて怪異に行き遭っただけの存命の人間と思ってしまうような書き方をしていることです。おそらく、八九寺初出の「まよいマイマイ」以降の作品で、彼女が既に死んでいると明言している箇所は一つもないはずです。それを知らない人が読めば、妙に婉曲だなと思う書き方でしすし、知っている人が読んでも、妙に婉曲だなと思える書き方であるという、なんともなんともなものです。
他にも、それぞれ怪異に行き遭った登場人物たちが、いったいどのような目に遭ったということは、それぞれわざとらしくない程度にぼかしています。他の登場人物については、その事件そのものに言及したところで、そこまでネタバレにはなりませんが(いや、それでもそうとう興が殺がれることは事実ですが)、八九寺の場合は、その話の前提になることなので、かなり致命的なネタバレです。
どういう順番に本を出そうが、読む順番は究極的には読者の自由だ、というようなことを「ザレゴトディクショナル」内で述べていたので、そういうことなのでしょう。


あと、メタ的と言えば、瓢箪から駒というか、嘘から出た真というか、棚から牡丹餅というか、甘辛牡丹餅というか、作中で盛んにネタにしているアニメ化ですよね。
冗句(少なくとも、第一作目の段階では本気ではなかっただろう)としてさんざんっぱら言ってきたアニメ化が、よもや実現するとはって感じですけど、ああいうメタ的なことを作中で言わせるのって、かなりのテクニック、あるいはセンスが必要ですよね。基本、フィクションである小説の中の住人が、自身の属する世界の外側たる、読者のいる現実の世界を認識してしまうというのは(しかも、その手の作品を成立させるためのギミックとしてではなく、完全にネタとして使うというのは)、小説の世界そのものに不調和をもたらしかねないものですから。
現実の世界で考えれば、なんてことない会話をしている時に、あなたの友人が突然、「ま、テレネヅカス星人の考えてることなんてわからないけどね」などと電波ゆんゆんなことは口走りだすようなものです。八九寺の台詞じゃないですが、即座に病院にぶち込むレベルのビックリ発言です。
西尾先生の場合、メタ発言を第三者視点(つまり、一人称の語り部以外の存在)に言わせて、それを聞くキャラ(主に一人称の語り部)はそのメタ的視点の存在に気づかせない、という形で危ういタイトロープを渡っています。このシリーズで言えば、忍野や戦場ヶ原、八九寺に外側の視点の存在を一時的に持たせて、阿良々木君がそれに戸惑うという形です。ま、逆に完全にネタにしているからこそ、それを以降に引きずらせなくてもいいということでもありますが。


で、アニメ化の話をちょっとしたのでそこから広げますが、前回の記事でも書いたとおり、最近では「絶望先生」でおなじみの、新房昭之×シャフトが手がけるようです。
西尾先生の文章術、言葉繰りの妙に関しては信仰の域に達している私なので、「化物語」のアニメ化には強く否定的です。どうせやるなら、「刀語」の方がやりやすかろうにと思っています。
西尾先生の作品群をざっと挙げてみれば

戯言シリーズ(全10冊 含「ザレゴトディクショナル」)
人間シリーズ(全4冊予定 現在3冊刊行)
・きみぼくシリーズ(全4冊予定 現在3冊刊行)
りすかシリーズ(全4冊予定 現在3冊刊行)
・JDCトリビュート(全2冊)
刀語シリーズ(全12冊)
化物語シリーズ(全5冊予定 現在4冊刊行)
・xxxHOLICノベライズ
デスノートノベライズ
・ニンギョウガニンギョウ

戯言シリーズの文庫版が現在3冊まで刊行されていますが、それはとりあえず除外。純粋に個人の名義で出したオリジナルが、全部で40冊。デビューが2000年であることを考えるともはや化物じみているといって差し支えない冊数だと思います。
ま、そんな多作の西尾先生ですが、この中でどれが一番アニメ化しやすいかと問われれば、上で挙げたように、私は「刀語」であると答えます(ちなみに、JDCトリビュートとノベライズ2冊は未読であることは白状しておきます)。
理由は簡単、それは、映像化して一番映える作品だし、西尾先生「らしさ」が一番薄いから。
映像化して映えるとは、このシリーズが、おそらく最も動きのある作品であるということです。内容はともかく、その形式はチャンバラ格闘喧嘩絵巻。主人公たちが常に旅をして、誰かと切ったはったを繰り返す、絵の作りがいがあるであろう代物です。
「らしさ」の薄さとは、このシリーズが講談社大河ノベルスという企画の一環でなされたことと無縁ではないでしょうが、ページ数の縛り、毎月来る締め切りという過酷な条件の下で作られたこの作品、西尾先生お得意の洒脱な会話運びに紙幅を裂く余裕がほとんどなかったのです。オマケに付け加えれば、保険ではったはいいけど結局上手く使えず、そのままであったり、おざなりに処理された伏線なんかもちらほらあったり。
ま、それはともかく、要は、他の作品に強く見られる小説という媒体特有の面白みが、比較的薄いってことです。言ってみれば、作品の媒体が小説ではなくても、そこから出る面白みが原作からそれほど離れないのではないかと思えるのです。

翻って「化物語」ですが、それは惹句の「100%趣味で書かれた小説です」にあるとおり、文章による面白さを存分に追求した作品で、小説だからこそ、文字だからこそ面白い作品であると思うのです。
小説の会話文をそのまま音読しようとすると、かなりお寒い心地になるのは、ちょっと試してみればすぐわかることですが、はたしてアニメ化ではそこらへんはどう処理されるのでしょうか。特に「化物語」では、かなり尺の長い台詞が頻出するので、間の取り方が絶妙に精緻なレベルで要求されます。そこを細かく分解してしまっては、この作品のもつ、小説という媒体だからこそ醸しだされた面白さは激減、どころか消失してしまうでしょう。
会話が多い分だけ、キャラの行動が少ない作品ですから、動画として作品を再構成した場合に、画面上の寂しさはどのようにクリアされるのかも気になるところです。


ですが、逆に考えて、アニメに携わっているプロの人間たちが、そこら辺のポイントを把握していないわけはないでしょう。そこらを上手く料理できるからこそ、数ある西尾作品の中からわざわざこの作品をアニメ化の対象としたのではないでしょうか。
あくまでただの一消費者で、アカデミカルにもテクニカルにもアニメについて語ることの出来ない私ですから、プロフェッショナルたちの思惑なぞとてもじゃないけどわかりません。どのような形阿良々木君や戦場ヶ原たちが動き回るのか、その青写真はできていると信じていけない理由はありません。
普通ならそう考えて、受け手としてでんと構えていればいいのですが、なまじ自分がとても好きな作品が対象となっているので、ついつい徒なよしなし事を考えてしまうのです。
料理で例えれば、癖の少ない材料を使えば、食べられないような料理を作ることはそうそすないですが、迂闊に手を加えることを許さない珍味を材料に選べば、ほっぺたが落っこちる美食ができるか、犬も食わないようなゲテモノに成り果てるか、リスクの高い二者択一となってしまうのです。

はてさてこのアニメ化、鬼が出るか蛇が出るか、吉と出るか凶と出るか、3/4が不吉なのは私の心象風景ってことですが、イラストレイターのVOFANさんが描いたキャラたちはかなり魅力的な造形をしていますので、それが動き回るのを見たくはあるかなぁと、作品内容とは直接関係ないところで期待したりはしています。

お願いだから、声優と脚本にだけはケチらないで。





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