ポンコツ山田.com

漫画やアニメ、小説などについて、思ったことを恬淡と。

自分のものさし他人のものさし  世間とは何者か

絶望先生の言う「ものさし」を自分は何本持っているのだろう?
その作品って何点つけるの?
たまごまごごはん

こちらの記事からインスパイアド。


このブログではあまりやりませんが、mixiでレビューを書くときは、私は「満足度」と「お薦め度」という二つの軸で、段階評価をひとまず出します。その後に、文章によってより詳細にレビュー。
段階評価は◎→○→△→▲→×の五段階です。
さて、この段階評価、満足度に関しては特に問題は無いんです。自分の好みに合った程度に応じてランク付けをするだけですから。純粋に主観的な評価でもそれは問題ないんです。
ですが、お薦め度というのは考えてみるとなかなか難しい。自分の評価(つまり満足度)と一致しない、それどころか評価が大きく分かれることさえしばしばあるからです。

自分はとても面白いと思うけど、世間的にはそうでもない。あるいは万人に勧めるには気がひける(例えば「なるたる」や「ブラッドハーレーの馬車」)。
自分にはいまいちピンとこない作品だけど、世間では結構な高評価をもらっている(例えば「ひぐらしのなく頃に」)。

どちらも、自分の評価と世間の評価がずれていることが共通しているわけですが、では、私はいったいどうやって自分の評価と異なる評価を下せているのでしょうか?

上では「世間」という言葉を使いましたが、私の知る世間、それも漫画やゲームなどのサブカルチャーについての世間なんて、ほとんどがネット上の情報です。
受け手の感想でネット上のものが全体のどれほどの規模なのか、私にはいまいちピンときません。ほんの一握りというほど少なく無いかもしれませんが、感想の大半だと思えるほど傲慢でもありません。
感覚的には、ブログなどの具体的な文章だけでなく、2chなどの雑多な感想も含めれば、受け手全体の三割前後にはなるのかなぁと思います(「ひぐらし」あたりはもともと同人のパソコンゲームだけに、ネット上の情報が占める割合は増えるでしょうが)。
作品を享受した生の声、ネットを通さない感想、早い話が現実の知り合いの感想は、当然ネットの感想よりもはるかに少ないです。というか、そもそもネットの利点の一つが、そのような普通の生活だけでは得られなかった同好の士を爆発的に増やせたことなのですから、当然ちゃ当然なのですが。

ならば、私が意識している世間とはなんなのか。
私はいったい誰を想定してお薦め度に評価をだしているのか。

それに関して直接的な答えとはなりませんが、私の評価基準を説明しましょう。
私は、私自身の固有の性癖嗜好を勘案し、さらに取捨選択して、世間像と言う物を仮想的に作り出し、その仮想人格に向けて評価を下しているんです。
私という球があるとして、出っ張った枝葉を切り払い、引っ込んだ穴ぼこを埋め立てて、「まあだいたい丸だな」と思えるくらいまで地ならしをして、世間像を作り上げる。
こんな感じです。

一読してわかるとおり、結局この説明では世間とは何かについて触れられていません。だから、直接的な答えにはなれないのです。
ですが、こう書くことで次の問いを発することが出来ます。
つまり、では、どうやって出っ張った枝葉と引っ込んだ穴ぼこを選んでいるのか、目指すところの「だいたいの丸」である世間はどのように算出されたのか、と。

出っ張った/引っ込んだというのは相対的な概念です。基準が無ければ、邪魔だからと切り払うことも出来ず、危ないからと埋め立てることも出来ません。基準がより大きければ、枝葉が伸びているところまでむしろ穴埋めをしなければならず、基準がより小さければ、穴の底までむしろ削らなければならないのです。

では問いに対する答えに戻りますが、私が評価を出すときの世間は実体的なものではなく、私たちの社会の成員、具体的には、日本国の10代〜40代あたりで、漫画というサブカルチャーを解する人々が、「世間とはこういう人々だろう」と思い描いている、一つの共同幻想なのです。
もはやトートロジーになりますが、「世間と想定された共同幻想」が世間だと言えます。

このようなトートロジーでもなんとかその形を読み解こうと思えば、その鍵は、自分自身もその共同幻想に参加しているという点にあります。
自分自身が思う世間の形。つまり、自分が比較している世間の形。
自分の性癖嗜好と、それから比較参照した世間の性癖嗜好。
その二項だけを考えても全体像は見えてきません。今いる視座からいったん離れて、より俯瞰的な視座を想定してみるんです。
そうすると、今までの自分/自分の世間像という二項対立から、それぞれの人間による、自分/自分の世間像という二項対立の集合が見えてくるはずです。
イメージするならウニで、ウニの棘の先端がそれぞれの人間による「自分」で、ウニの本体部分がそれぞれの世間像の集合体って具合でしょうか。ただし、実際のウニのように本体部分がソリッドに確定しているわけではなく、外殻は重なるところが少なくて、中心に近づくほど各々の世間像が重なっていると考えてください。

こうして一時的な視座の確保により世間像の全体図が描けたところで、再びもとの視座に戻ります。そこで改めて、共同幻想の世間像に具体性を与えていくのです。
それはどうするのかといえば、今度はより詳細に他人の自分/自分の世間像を観察するんです。
この他人は、実際の知り合いでも、ネットのどこかにいる人でもかまいません。その人が持つ対立項を想定するに足る情報を発している人なら、誰でもいいんです。
その人が持つ世間像は、共同幻想の世間像からどれだけ離れていそうか。
その人は、自分の世間像と共同幻想の世間像の乖離にどれだけ自覚的でありそうか。
それらを判断するに足ると思えるぐらいの情報を発している人を、判断指標としてどれだけ有しているかが、共同幻想の世間像の具体性に寄与すると思うのです(無論、指標の量だけでなく、指標を評価する自身の判断力の質も同程度に重要ですが)。


とまあ私はこうやってお薦め度の対象となる世間を想定しているわけです。
それでも不安なのは、このお薦め度がどれだけ正確なのか、確たることがわからないことです。
世間が共同幻想である以上、そこに正解(絶対的に正しい世間像)を確定してくれる現実の人間は存在できず、具体的な答え(実在の人が発する、その作品についての感想)をかき集めて「私が思う、共同幻想としての世間像」を修正しながらよろよろとやっていくしかないんです。
願わくば、この評価がなるべく共同幻想に近くて、より多くの人の読書の一助になればと思います。


余談になりますが、お薦め度の五段階評価を言葉に直すと

◎→買わなきゃ損。多くの人が肯定的評価を出すだろうし、さらにそのうちの一部の人は、「大満足」といってくれると思う。
○→買って損はない。多くの人が肯定的な評価を出してくれると思う。
△→多少評価は分かれるかもしれないが、半数以上は肯定的に捉えてくれるのではないか。
▲→万人にはお薦めできない。好きな人はいないことは無いだろう。
×→作者には申し訳ないが、読んだことに損した気分だ。特段の事情が無い限り読まないほうがいいと思う。

○と△は、アクの少ない作品に付けられます。▲は否定的でもあり肯定的でもあり。私の場合「なるたる」のお薦め度はこの評価になりますから(ちなみに満足度は○)。×は多分付けたことが無いです。それが世の中に出版された以上何がしかのニーズはあったはずなので、満足度はともかくお薦め度では付けられないです。






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