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真理先生/武者小路実篤/新潮文庫

真理先生 (新潮文庫)

真理先生 (新潮文庫)

初めて読んだ武者小路実篤の本。『友情』などはあったのに『真理先生』だけ都内のどこにもなく、群馬に帰ってきてあっさり発見。群馬さすがすぎ。

前々から読みたかったのだが、その嗅覚は嘘じゃなかった。非常に面白かった。
タイトルこそ『真理先生』だけど、こりゃ主役は「石かき先生(馬鹿一)」でしょう。
前半こそ「真理先生」を中心に話が進むけど、中盤以降力点が完全に「石かき先生」にシフトしている。
作者が言いたいことを「石かき先生」が代弁し、語り部の「僕」やその他の登場人物が世間の目、「真理先生」が作者の理想という構造だろうか。

で、「石かき先生」が表していること。

それは一言で言い尽くせるものではなかろうけれど、簡潔に言えば「愚直な真摯さ」だろう。

真摯とは、何に対して真摯なのだろうか。それは自分自身だ。
主要な登場人物たちは、とにかく自分自身に真摯な態度をとっている。その真摯さは、ただ自己中心的であるとか、生真面目であるとか、我が強いとか、そういった画一的なものではない。
各々にとっての自分自身は、当然各々だけのもの、十人いれば十通りの、百人いれば百通りの自分自身がある。
例えばこの作品の中では、世間に対してうらみつらみを持たず人生を肯定的に生きるという本然である人もいれば、社会性などに頓着せず、ただただ自分の描く画にのみ集中している自己を所有している人もいる。自身の容姿の魅力に気づきもせず蝶よ花よと爛漫な生活をしている人もいれば、幼い頃からの苦労を金銭的にも精神的にも救ってくれた恩人のために滅私の奉公をするものもいる。
そして、それらの人間は、みなその生活にいる自分自身を理解し、その上で甘受し、あるいは抵抗している。その自分自身に対する深い理解こそ、自分自身に対する真摯さなのだ。

あるいはそれは、自然に、世界に対する敬意といってもいいかもしれない。自分がここにいまこのように在ることに対する敬意。当たり前が当たり前にできている自然への感謝。そのような態度だ。

そして、「石かき先生」による愚直さ。愚かなまでに真っ直ぐであること。それは対象への真摯さである。
「石かき先生」は、自分の絵に対して愚直だ。そして、それにひどく自覚的だ。
自分の愚直さは、世間には相容れないものだということを理解して、なお自分の絵を選ぶ。それだけ自分自身に真摯だ。

私はこのような生き方に憧れはしない。
だが、とても尊いものだと思う。敬意を払うべきであると思う。

憧れることが出来ないのは、それが自分には決して出来ないものだから。自分にはないものではなく、自分にはできない。この違いは重要だ。

人は、自分にないものを欲しがるとは言うが、決して自分には出来ないとわかるものには欲望は働かない。同じクラスの気になるあの子のことをことはあっても、テレビの向こうのアイドルに本気で恋焦がれはしない。

私は、そこまで何かに愚直になることは出来ない。心身を打ち込めるものを持ってはいない。愚直になるということに、ストップをかけてしまう自分がいる。
愚直であることのいい面も悪い面も見据えた上で、私は愚直になることに待ったをかけてしまう。そういうじぶんであることを、すでに知ってしまっている。
それゆえに愚直であることに憧れることはないし、それゆえに愚直であれる人間に敬意を払う。

話は少し逸れるが、私にはポリシーと呼びうるものはない。こうしようああしよう、こうしてはいけないああしてはいけないくらいの、己に強いていることはあるが、それはポリシーと呼びうるほどに強くはない。あえて言うなら、「ポリシーを持たないようにする」というメタ・ポリシーのようなものがあるくらいだ。
なぜそうかといえば、あまり自分が何かに束縛、拘束されないほうがいいという思いからだが、それが自分が望んで選んだスタンスだとしても、確固としたポリシーをもつ人間に敬意を払わないわけにはいかない。ポリシーのある人間には一本筋が通っている。それはともすれば頑迷さ、思考の不自由さにもつながるが(そして、それこそが自分がポリシーを持とうとしない理由なのだが)、そのようなくっきりした態度を持てる人間は、持たざる者には凛々しく見える(あるいは、私のように強いてポリシーを持たないでいる人間は、逆に自由闊達に生きているように見られるのかもしれないが。というかそうであってほしいな)。

話は逸れつつも微妙に絡むのだが、自分の性質に自覚的であるというのは非常に重要であると思う。「汝自身を知れ」とは古代ギリシャの御世から言われているが、それは人間が自我を持っている以上永遠に通用しうる言葉なのだろう。
愚直であるということは、自分自身を自覚していなくては出来ない。
何に対して愚直なのか、それを知らずに愚直であることは出来ない。対象に自覚的でない愚直は、いつか迷いだし、五里霧中の内に果ててしまうだろう。ただ無心に愚直であるということは不可能だ。
愚直さの対象は、外界にあると同時に、それを認識している自分の精神世界にもある。それゆえ、外界からの刺激は精神世界の認識に容易に影響するし、精神世界の認識の強度が外界への働きかけに応答する。二者は不可分の存在なのだ。
ゆえに、自分自身の精神世界を自覚できないものが、何かに愚直になることはできない。

ただ、愚直になれないことと、真剣になれないことは違う。
「愚直さ」は「真剣さ」の十分条件だが、逆は成立しない。
愚直さと真剣さの違いは、それが人生を賭けられるか、もっと極端に言えば、人生全てを賭けられるかどうかだ。
場面場面で真剣になることは出来ても、ならばそれに人生の全てをかけられるかと問われて、肯定できるかどうかが愚直と真剣の線引きとなる。
勿論、その肯定に覚悟が伴わなければ、それは愚直ではなくただの愚か者であるのだが。


『真理先生』から話が逸れだしたのでこの辺で切り上げるが、とにかくこの作品の登場人物は、総じて自身に自覚的である。真摯である。敬意を払いたくなるように書かれている。それゆえ、読者である自分自身も自覚的であろうと、真摯であろうと思わせる。
サン=テグジュペリの『人間の土地』と同じく、人生を、「人間」を元気付けてくれる一冊だといっていいだろう。



最後になるが、この「石かき先生」を見ていると、『G戦場ヘブンズドア』の堺田町蔵と阿久田編集長を思い出すのは俺だけだろうか。









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