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漫画の話です。

毒と薬

人間をざっくり二つに分けてみます。
つまり、「普通の人」と「変な人」。
普通と変の定義は、特にいらないです。そこは個人の主観でオッケー。
さらに、「普通の人」をざっくり分けてみる。
つまり、「いい普通の人」と「悪い普通の人」。
さすがに、この「いい」「悪い」の定義を人任せにはできません。そこは私の裁量(言葉遊びと言い換えても可)に任せてもらいましょう。
「悪い普通の人」とは、「毒にも薬にもならないような人」、「いい普通の人」とは、「毒にも薬にもなるような人」と表現してみてはどうでしょうか。
「毒にも薬にもならないような人」は、別名「(どうでも)いい人」ですね。すでに十年近く前にそこに眼をつけて、そのアンチを行った高橋しんには軽く敬意を表するべきかと思います。
「毒にも薬にもなる」って、ちょっといい表現かなと思います。良くも悪くも刺激的で。「酒は百薬の長」にして「過ぎたるは及ばざるが如し」の例を出すまでもなく、大事なのは刺激のバランス。刺激がなければ何にも変化は起きませんし、刺激が強すぎるのもまた問題ですね。
そうすると、この表現は接する側からの視点ということですね。ある人間に接した時に、それが毒にも薬にもなる、つまりは、毒にするも薬にするも自分次第ということです。「毒にも薬にもならない」人ってのは、自分にとって無刺激、面白みも味わいも全く感じられない人ってことですか。それが何に由来するかは人それぞれですし、誰に対してそう思うかも人それぞれなので、絶対的に「毒にも薬にもならない」人ってのはいないでしょうけど、それでもあなた(この文章を読んでいるあなた)にとって「毒にも薬にもならない」人というのは必ずいると思います。

さて、「普通の人を」このような表現で二分すると、「変な人」もこの手法に従って分類することができます。すなわち「毒になるような変な人」と「薬になるような変な人」。
えてして、「変な人」というのは自分の思考様式の埒外にある存在のことを指します。ま、何を考えてるのかわからない人、ってことです。そんな人がもたらす刺激はたいがいとても強いもの。それが上手く転がれば自分の意識の特効薬、カンフル剤になるかもしれないけれど、そうでなければ、無闇矢鱈に自分の神経を逆撫でしてくれるこのうえない迷惑となってしまいます。そしてそれは「毒」か「薬」かの二者択一で、自分の裁量次第でそれを調節するということがとても難しいものです。なにしろ何を考えているのかよくわからない人なのです。そんな人から受ける刺激を適度に調節できるものではありません。それができるのなら、何を考えているのかわかる、ということになってしまいますしね。だから、そんな人に対してできることは、「薬」であるなら、それが「毒」に転化しないよう十分用心して距離をとり、「毒」であるなら、二度と関わりにならないよう全身全霊避けるだけです。

ちなみに、この「毒」か「薬」かの判断は、コミュニケーションの後に発生するものです。コミュニケーションの後に、かの存在から受けた影響は良い方に転ぶのか悪い方に転ぶのか、主体的に判断し、その上で上記のざっくり分類法が適用されるのです。
ですが、世の中には、そのような自前の判断基準が通用しないにも関わらず、換言すれば、コミュニケーションの後にもそれがよいものなのかそうでないのか自分で判断できないにも関わらず、その人間について絶対的ともいえるほどの確信でもって、自分にとっての最大級の敬意を払ってしまうという存在があるのです。そして、そういう人間のことを、人は「師」と呼ぶのです。
ここらへんは蛇足の話ですが、もし師弟論に興味がある方がいれば、内田樹の著書を参考にしてください。特にレヴィナスについて触れている著作で、それについて詳しく論じています。他者と死者あたりがお薦めです。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス









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