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漫画の話です。

会話文考

この頃新しく小説を開拓する気になれません。
最近買った小説といえば、夏目漱石の「坊ちゃん」とサン=テグジュペリの「星の王子様」。どちらも新潮文庫の懸賞につられて購入しました。対象作品を二冊買えばいいので、何でもいいっちゃいいんですが、他の作品には食指が動かなかったんです。漱石サン=テグジュペリは昔から好きなのですが、その二作品が対象に含まれていたことが幸いでした。

なんで新たに作家を開拓する気になれないのか今までもやもやしていたんですが、今日書店で小説を何本か斜め読みしてふと気づきました。最近の小説を読むと、文章が嘘っぽく感じられてしまうからなんです。
もともとフィクションたる小説で嘘がなにがいけないのかと問われそうですが、別にストーリーの話ではありません。ストーリーメイキングではなくストーリーテリング、その次元の話なんです。
その小説の中の地の文であれ会話文であれ(特に多いのは会話文内ですが)、そこで使われている言葉が現実から不自然に乖離しているように思われる。それゆえの嘘っぽさです。
単純に現実から乖離しているのならそれほど問題はありません。むしろ、私が今現在好んで読む小説で話されている会話は、実際そのように喋る人はまずお目にかかることがないであろうものです。その文章を読んで得られる愉悦は、作者が「小説は虚構のものである」という確信の上に築かれています。実際に私たちが喋る時はこのようには喋っていない。だが、このように文章化すると面白くなる。そう思って作者が文章を作って初めて、その文章には現実から乖離した面白さ、換言すれば小説としての、文章としての面白さがうまれるのだと思います。

翻って、そうでない小説というのはどのような文章であるか。
それは、現実に忠実であろうとするあまり、現実から不自然な形で乖離してしまった文章です。抽象的な言い方をすれば、リアルを煮詰めればリアリティが生まれるという解釈を基にした文章、という表現ができます。
現実の私たちの日常会話を思い出せばわかることですが、私たちは誰かと話をしているとき、どもったり、同じことを繰り返したり、言いたいことが出てこなくてもどかしい思いをしたりと、いつでも流暢にしゃべれるわけではありません。会話を書き起こせば一目瞭然なのですが、「あー」や「えーと」などの間を取る言葉が頻繁に使われています。しかし、小説を書く際にそのような言葉を忠実にはさんでいってはひどく煩雑な文章になってしまいます。それゆえ、ほとんどの小説では間を取るためだけの直接意味を成さない言葉の大半はカットされ、そのうえで文章が構成されています。ですが、単純に間投詞的な語句を除いただけでは、むしろその不自然さが浮かび上がってしまうのです。その文章はロボット的と言うか、読点が少ない文章というか、淀みがないというよりは起伏のない文章になってしまうのです。そのような文章を読むと、私は妙にむずがゆさを覚えてしまいます。その会話主に動きが見えず、ストップアニメーションで文章が展開されていくように感じられるのです。

海外の作品や昔の小説は、どちらも今現在私が使っている言葉とは程度の差はあれ隔たりがあるという共通項があります。それゆえ、漱石サン=テグジュペリの作品をよんでも、私は変なむずがゆさを感じることはありません。文章構成や単語選択が今の私の常識(あるいは前提)とは異なるため、最初から不自然(すなわち現実とは異なる形で展開されているということ)であることに違和感を覚えないのでしょう。

私自身、小説に限らずこのような固めの文章を書くときも、口語表現と文章表現は基本的にイコールたり得ないという意識で書いています。結局のところはどちらが優れているということではなく、個人の嗜好に還元されてしまうところが大なものではありますが、伊坂幸太郎の作品が好きな人というのは多かれ少なかれ私と似た様な考えがあるんじゃないでしょうかねぇ。








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