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漫画の話です。

『よふかしのうた』セリと秋山と対等な友達の話

前回の記事では、コウの行動原理について書きました。
yamada10-07.hateblo.jp
簡単にまとめれば、コウはナズナを好きになろうとしていますが、それは手段としての恋であり、最終的な目的は、彼女が示した価値観で生きることだ、ということです。
まだ恋をしたことがない少年が吸血鬼になるためには、自分の血を吸う吸血鬼に恋をしなければいけない。
でも、恋ってなんだろう。好きってどういうことだろう。
それがわからないからこういう状況になった彼が、その状態にならなければいけない(しかも一年以内に)(しかも生命を賭けて)という皮肉も、本作の面白味の一つなのですが、では、その好きだの恋だのといった難問を本作ではどう描いているのか。
本稿では、その一つであるセリと秋山の関係について考えたいと思います。

セリの描写の不明瞭さ

3巻にてついに登場したナズナ以外の吸血鬼。眷族を増やし子孫繁栄を目的とするのが吸血鬼ですが、その中の一人であるセリは、「この世で最もモテる存在」であるところのJKに扮しています。
いかにも軽薄そうな調子で男性と知り合っているセリですが、3巻の後半では、彼女と、彼女のストーカーと化したメンヘラこと秋山に焦点が当てられています。最終的にはセリが秋山を眷族にする、すなわち、セリに惚れた彼の血を吸うことでお話は一段落しましたが、私のつい勢いで読んでしまう癖ゆえにか、この流れがわかるようでわからない、わからないようでわかるという、印象深いわりにはなんとも曖昧な理解で終わってしまい、いくつかの疑問が残りました。
たとえば、
Q1 「恋は盲目」の話を秋山から聞いたときに浮かべていた、思わしげな表情は何なのか(3巻 p173)。
Q2 なぜ恋愛上手な吸血鬼が、秋山の感情を拗らせるような悪手を打ったのか(3巻 p177)
Q3 なぜ「今回に限って」秋山を殺そうとしたのか(3巻 p182)
Q4 眷族祝いのカラオケに行ったときに浮かべていた、思わしげな表情はなんなのか(3巻 p201)。
と、作中で答えが言葉にされているものもありますが、その答えが直截的すぎてよく呑みこめなかったりしました。ただ、とどのつまりそれらは、
Q5 セリにとって秋山は結局どういう存在だったのか
という疑問に集約されます。
彼女の言ったとおり友達なのか。それとも恋愛感情があったのか。あるいは別の何かなのか。
この疑問を解き明かすべく、セリと秋山の関係を詳しく見ていきましょう。

恋愛が楽しかったはずのセリ/「恋愛なんて脳のバグ」の秋山

まず、秋山と知り合った時点のセリです。
ナズナ以外の他の吸血鬼と同様にセリは、種の目的(子孫繁栄)に忠実に、積極的に男どもを誑し込み、そこに楽しみも感じていました。

恋は盲目 という言葉がある
盲目な男を相手にするのは楽しかった。
すべて自分の思うがままだった。
(3巻 p171)

しかし彼女は、そんな生活に「いつしか飽きを感じ始め」てしまいました。

飽きちゃったんだよ そういうの。
退屈なんだよ でもこんなの誰に言えばいいんだ?
「人との関わり全てに"恋愛”がついてくることに疲れちゃった」なんて。
(3巻 p188)

そこに何か理由はあるのか、他の吸血鬼も似たようなことを感じるのか。それはわかりませんが、とにかく彼女は飽きてしまった。
そんなときに出会ったのが秋山でした。
彼との出会い方は、他の男性との出会いと大差ありません。すなわち、いかにも男性が惚れてしまいそうな、吸血鬼らしい出会い方。
飽きを感じていようと、セリはそれ以外に人間との付き合い方を知りません。ですから、秋山にもいつものような態度で声をかけたのです。
しかし、秋山は他の男とは違いました(少なくともセリはそう感じました)。

「恋愛感情なんてひとときの脳のバグでしかないんだ。
そんなものに縛られるなんて馬鹿馬鹿しいと思わないかい?」
知らなかった
そんなこと思う人間がいるなんて考えたこともなかった。
今まで覚えたことのない感情だった。
もしかしたら 
この人間となら
(3巻 p171)

恋人にフラれたばかりの大学生がイキって言うには似つかわしすぎる秋山のセリフですが、こんな言葉をセリに言う人間は今までいなかった。
それはそうでしょう。彼女が人間の男と接するのは、食事のためか、眷族を作るためか。前者であればおそらく、後に自分が血を吸われたとは思わないような形で接するはず*1。ですから、実質、人間と接するときはほとんどの場合で眷族を作るため、すなわち相手を自分に惚れさせるように接していたセリが、その当の相手から「恋愛感情なんてひとときの脳のバグ」などと、恋愛を否定するようなことを言われるはずはないのです。なにしろ吸血鬼は恋愛上手なのですから。
しかし、秋山はそう言い放った。それがセリには新鮮だった。「今まで覚えたことがない感情だった」くらいに。「もしかしてこの人間となら」今までとは違う関係を築けるのではないかと思うくらいに。

セリの新しい関係「友達」

今までとは違う関係。それはセリ曰く、そして秋山曰く、「友達」でした。
友達。それはセリにしてみれば、恋愛がつきまとわない関係。飽きてしまった、退屈してしまった、疲れてしまったそれとは違う関係。
高校からの恋人からフラれたばかりの秋山は、当初は「恋愛なんて脳のバグ」と恋愛を否定するようなことを言い、セリに恋愛感情を見せはしませんでした(実のところ、彼は当初からセリに好意を持っていましたが*2)。だからセリは、彼と友達になれると思った。恋愛なんて無関係に付き合えると思った。そして実際セリは、その関係がとても新鮮で、とても楽しかったのです。
二人の関係がどのくらいの期間だったのか、それはわかりませんが*3、いい意味で甘くない蜜月は長く続きませんでした。セリは気づいてしまったのです。結局自分は、他の人間と同じようにしか秋山と付き合えないのだと。

でも普通の友達みたいなコミュニケーション 知らないんだ。
無意識で相手を惚れさせようと振る舞っちゃう
あ、今押せばこいつあたしのこと好きになるなって
気付いたらそんなことばっかり考えてる。
(3巻 p188)

秋山と「友達」として喋っているはずが、無意識の裡に恋愛を振舞にからめてしまう。どうするれば相手を自分に惚れさせられるか考えてしまう。秋山が自分に惚れれば、もう「友達」ではいられなくなってしまうのに。
そもそも、セリにとって友達とはどんな存在なのでしょうか。
それを考えるにはまず、彼女にとっての友達じゃない人間とは何かを考える必要があります。
上にも書いたように、彼女にとっての人間は、食事か眷族候補でした。そして、実際にコミュニケーションをとっていた後者をどうとらえていたかと言えば、「盲目な男」であり、「すべて自分の思うがまま」だったのです。また、吸血鬼にするための条件は、吸われる側が吸う側に恋をしていることであり、その逆は必要ありません。まったく非対称な関係性です。
ということは、そうではない人であるところの「友達」とは、盲目ではない男であり、自分の思うがままにならない人間だと言えるでしょう。それはつまり、対等な付き合いのできる存在です*4

A1 友達とはずっと友達でいられるのか

秋山は、今まで(食事以外では)恋愛を絡めたコミュニケーションしかとることのできなかったセリに対して、「恋愛なんて脳のバグ」と、それまでの彼女を否定するようなことを言いました。それは、秋山がセリの思うがままにならなかったということです。彼女を否定してくれる(無批判に賛成しない)のは、対等な相手だからです*5。それが彼女には新鮮で、楽しかった。
でも、彼女は気づけば、それまでと同じように、どうすれば秋山を惚れさせられるかということを考えてしまっています。秋山が自分に惚れてしまえば、「恋は盲目」になってしまえば、もうこんな楽しい会話もできないのに。
それに気づいてしまったのが、まさに「恋は盲目」の話をしていたときにセリが浮かべた表情だと思います。

かの…元彼女に対しての感情を 今思い返すと ちょっと異常だったなって思うこともあるよ。
無意味な心配をしたり嫉妬深くなったり…
正直、そんな状態になって自然に会話ができなくなるなんて気持ち悪いもんね。
(3巻 p173)

このまま秋山との関係を続けていけば、いつか自分は彼を自分に惚れさせてしまうだろう。「気持ち悪い」状態にしてしまうだろう。それにセリは気づいてしまった。でも自分は、それ以外の付き合い方を知らない……

A2 最悪よりは、それより一歩手前の方がマシ

だから彼女は、(あくまでコウが考えるところですが)恋愛上手の吸血鬼にもかかわらず、秋山に嫌われるような態度をとった。友達じゃなくなってしまうなら、秋山が自分を好きになって、対等じゃない関係になってしまうくらいなら、まだ嫌いになってくれたほうがいい。そうすれば、少なくとも自分を嫌っている分だけ、「思うがまま」な存在ではないから。
これが、セリが秋山の感情を拗らせる悪手を打った理由だと思います。秋山がセリの意図から外れ彼女を嫌いにならず、メンヘラと化してストーカー行為をするようになったのは、今まで彼女がそんなこと(意図的に自分を嫌わせる)をしたことがなく、加減がわからなかったから、でしょうか。

A3 最悪よりは、それより半歩手前の方がマシ

では、そんな彼女が秋山を「今回に限って」殺そうとしたのはなぜなのでしょう。
それは上記とも関連するのですが、彼に、自分の思うがままにならない人間であってほしかったからではないでしょうか。
秋山とは友達でいたい、対等でいたい。でもできそうにない。惚れさせるくらいなら、対等でなくなってしまうくらいなら嫌いになってもらう。でもそれにも失敗してしまった。ならいっそのこと、そうなる前に殺してしまおう。
そういう心の移り変わりだと思うのです。そんな変遷は、コウいうところの「セリさんの方がメンヘラじゃん!」なのですが、今までそんな感情を持った相手がいなかったからこそ、「今回に限って」そんなメンがヘラったことを考えてしまったのです。

A4 個人の最悪=種の最高?

ですが実のところ、セリには、秋山を眷族にすることも選択肢にあがっていました。それは、おそらくは秋山からのLINE画面を見ての独り言からもわかります。

こうなるとだるいんだよなあ…
途中まで眷族にしてやってもいいかなって思ってたんだけど…
(3巻 p137)

これまで読解してきたこととは多少そぐわない言い方ですが、LINE画面のアイコンや、ストーリーの文脈から考えれば、このメッセージの送り主が秋山であると考えるのが妥当でしょう。
その時点では嫌われようとしていたとはいえ、なぜ友達であった秋山を「眷属にしてやってもいい」と思ったのか。直接には描かれていませんが、推測するにその理由は、彼女が吸血鬼だから。種として子孫繁栄を目的としているからではないでしょうか。秋山とは友達でいたい、惚れた腫れたの関係でいたくないというセリ個人の願望と、眷族を作って子孫繁栄すべしという種の目的。相反する二つの命題があり、迷う中で、自分の望みを措いておいてでも、秋山を眷属にしようという考えが浮かぶこともあったのだと思います。
この二律背反にセリが悩んでいたことがわかる描写があります。

「僕を あなたの眷属にしてください。」
「……いいの?
今までの生活とか… なくなっちゃうかもしれないんだよ?」
「いいんだ。 
ありがとう 友達だから 僕のこと 考えてくれてたんだね。」
(3巻 p195,196)

友達の秋山と一緒にいれば楽しかった。ひょっとしたら、眷属にしても、友達じゃなくなっても、一緒にいて楽しいかもしれない。でも、秋山を眷属にしたら、今までの生活がなくなっちゃうかもしれない。
そんなことをセリは考えていました。秋山自身が自認するように、吸血鬼は人間より上の存在。「人間の都合なんて無視して」いい存在。なのにセリは、人間の秋山のことを考えていたのです。だって、友達だから。
そして葛藤と暴走の末、セリは秋山を眷属にしました。彼女に惚れた秋山の血を吸うことで。
種の目的に彼女は貢献しました。でもそれは、彼女の望みを放棄することでした。でもそれは、秋山と一緒にいられることでもありました。でもそれは、秋山が「眷族」という明確に彼女より下の存在になったことを意味するのですが。
そんなもろもろに心が振り回された果ての「お祝い」であるがゆえに、彼女はあんなに物憂げな顔をしていたのだと思います。

A5 彼女にとって彼は

以上を踏まえれば、セリにとって秋山は、あくまでも「友達」であったのだと思います。自分の思うがままにならなくて、対等で、ついその人のことを思いやってしまうような存在。そこには秋山が言った、「無意味な心配」や「嫉妬深」さといった「恋」の状態を見いだすことはできませんが、おそらく、秋山がセリのことを想っていたと同じくらいには、大きなものだったのではないでしょうか。
ただそれは、彼女が秋山を眷属にした以上、「あった」「だった」と過去形で表すしかないのですが。

ということで、セリと秋山に関するお話でした。
まだセリ一人が描かれただけでこれですから、他の吸血鬼たちも本格的に動き出したら、いったいどうなってしまうんでしょう。楽しみやら怖いやら。



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*1:添い寝屋をして、人が寝てから血を吸っていたナズナのように

*2:3巻 p174

*3:半袖Tシャツから長袖シャツへの服装の変遷を考えると、せいぜい数か月?

*4:一応、対等以上、すなわちセリの方が下だという付き合いも原理的にはありえますが

*5:しかし、これすらセリが無意識の裡に、秋山が「こういうことを言う方がセリの好感を得られるだろう」と思うように、振る舞ったのだとすれば、非常に悲劇的な話になってしまいますが

『よふかしのうた』コウの行動原理の話

コトヤマ先生の、現在絶賛連載中の『よふかしのうた』。
よふかしのうた(3) (少年サンデーコミックス)
本作は言ってみれば、日常に馴染めなくなってしまった少年が、そんな日常を気楽に無視して過ごす吸血鬼の少女と出会う、ボーイ・ミーツ・ガール。ささいなことをきっかけに、学校へ通うことができなくなった中学生2年生・夜守コウが、吸血鬼ナズナと出会い、彼女が提示した価値観に感銘を受けて、その価値観でもって生きていくために、吸血鬼になろうとする物語です。
最新刊である3巻で新たにナズナの同族、すなわち別の吸血鬼たちが登場したことで、ナズナの異端ぶりや、本来吸血鬼にとって吸血行為はどのような意味をもつものなのか、ということなどが明らかになりました。物語の幅が広がりましたね。
で、この幅が広がったタイミングで、改めて本作の構造や登場人物のあり方を整理してみたくなりした。まず本稿では、そもそものコウの行動原理を追ってみようと思います。

上でも書いたように、コウがナズナと交流するのは吸血鬼になるためです。しかして本作における人が吸血鬼になる条件、それはただ吸血鬼に血を吸われればいいのではなく、「吸血鬼に惚れた人間がその吸血鬼に血を吸われると 晴れて眷属になる」、端的に言えば「人が吸血鬼に恋をすること」です。かくしてコウは、吸血鬼になるために、ナズナに恋をしようとするのです。
さて、ここで重要なのは、彼の最終的な目標は、ナズナが示してくれた価値観で生きることだということです。つまり、ナズナに恋をすることは副次的なことに過ぎないということです。
ナズナが示した価値観とは「今日に満足」することですが、それに強く惹かれたということは、コウは満足できないまま日々を過ごしていたということです。
元々コウは、学業も優秀で、誰にも愛想よく振る舞っていて、交友関係も良好でした。それは、同級生の女子から告白されるくらいに。しかし、コウのそのような優等生然とした態度は、「好きとか嫌いとか 愛とか恋とか よくわかんない」ことからくる、ある種の他人への無関心に端を発するであり、そしてそれは恋愛感情に留まるものではなく、友人関係においても彼は「友達ってどこから言っていいんですか…?」と疑問を持つくらいには他人との距離感、距離の近づけ方が不得手な人間でした。
そんな彼ですから、女子から告白されたところで、できた返事はお断り。「愛とか恋とか よくわかんない」から。惚れた腫れたは当事者間のものですから、告白されたコウが断ればそこで話は終わるはずですが、コウが告白を断ったということを伝え聞いた、女子生徒の友人から理不尽な難詰を受けてしまいました。
それがきっかけで、コウの不登校が始まりました。この件がすべての原因というわけではなく、今までたまっていた(けど無視していた)不満が一気に表に出てしまい、学校が「つまんなくな」り「つかれちゃっ」て「何もかも嫌にな」ってしまったのです。「やりたいこともなりたいものも無かったから せめて正しくあろうと思っていた」のに、その正しさすら失敗してしまった。「それ以外の価値観を知らなかった」彼は、失敗してしまった場所(=学校)に通うことができず、夜をうろつくようになりました。
そして示された、ナイト・ウォーカーすなわち吸血鬼のナズナの価値観。

今日に満足できるまでよふかししてみろよ。
そういう生き方も悪くないぜ。
(1巻 p56,57)

その言葉に衝撃を受けたコウは、ナズナに頼みこみます。
「俺を吸血鬼にしてください」と。

俺は多分踏み込みきれない きっといつか今までの生活に戻って つまらない日々を過ごす でももう知っちゃったんだ 夜を。
初めてなりたいものができたんだ。
この気持ちをなくしたくない。
(1巻 p59,60)

この気持ちをなくしたくない。今日に満足したい。そう生きたい。そのために彼がしなくてはいけないこと。それは後戻りできないよう吸血鬼になること。そのためには。

だから 俺に恋をさせてください
(1巻 p60)

かくしてコウは、ナズナに恋をしようとするのです。
あらためて整理すると
・「今日に満足」して生きたい
 ↓
・そのためには(後戻りできないよう)吸血鬼になる必要がある
 ↓
・そのためにはナズナに恋をする必要がある
という形が、コウの行動原理です。大目標(「今日に満足して生きること」)に至るために小目標(ナズナに恋をすること)を目指しています。ナズナに惚れることが、ゴールであってゴールじゃない。
誰かを好きになろうとするという、ある意味トンチンカンな行動。それが本作の面白いところだし、誰かを好きになるってのがどういうことかわからないコウの苦悩にもつながるし、ひいては「誰かを好きになるとはどういうことなのか」という非常に難しい問いにもつながっていくのです。

さて、今回はこのへんにして、次回はその「誰かを好きになるとはどういうことなのか」ということがどう描かれている、考えてみたいと思います。



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俺マン2019の話

今回も参加した俺マン2019。
oreman.jp
今年の幕開けに、自分が推した作品を軽くご紹介。
「「今年自分が面白いと感じた作品を紹介する」以外、明確なレギュレーションを設けていません。」という元々のゆるいレギュレーションに、「今年発売(発表)された作品5本」という俺ギュレーションを少しだけ加えてます。
なお、紹介順は面白い順と言うわけではありませんが、『水は海に向かって流れる』は2019年の1位ということでお願いします。
水は海に向かって流れる(1) (週刊少年マガジンコミックス)
待ちに待っていた田島列島先生の新連載。『子供はわかってあげない』以来ですね。
高校進学のために、叔父のいるシェアハウスに引っ越すことになった直達くん。そこにいた唯一の女性、榊さんにドキドキしている直達くんだけど、実は彼女は、かつて彼の父とW不倫していた女性の娘だった。そもそも父の不倫の事実すら知らなかった直達くんに、ふとした拍子で彼があの男の息子だと知ってしまった榊さん。一つ屋根の下の生活はどうなる……?
という高校生男子のまっすぐな迷走と、26歳OLの複雑な内心が、肩の力の抜けたスラップスティックで描かれています。
直達くんが、おそらく人生で初めて直面したであろうこんがらがった人間関係。どうにかしようとしたい他人の思惑。でも、その発端となった事件はすでに終わっていて、後に残されているのは、ふさがったんだかふさがっていないんだかよくわからない心の傷だけ。それは母にも、父にも、叔父にも、榊さんにもある。知らぬは当時子供だった自分ばかりなり。
人には過去があって、傷があって、それが治るものだったり治らないものだったりあるいは治すことを拒否するものだったり、でもそれは傷から目を逸らしているだけなのかもしれなかったり。
他人の心の傷は、誰かが治せるものじゃない。後から自分で見返して、もう治ったかな?とそっと触れてみるしかありません。それがわからない直達くんは無力感にさいなまれますが、その無力感に溺れないで動こうとする姿は、輝いて見えます。
とまあ、だいぶシリアスそうなストーリーなのに、作中の空気が明るい。変な言い方ですが、健やかな空気です。なんだろう、苦悩はあっても悪意はないからかな。みんな、がんばろうとしてるけどままならない。ままならないけどがんばろうとしている。そういう感じなのかしら。
現在2巻まで発売中。私も地味だけど綺麗な酔っ払い26歳OLをおんぶするような高校生活を送りたかった……
ワンダンス(1) (アフタヌーンコミックス)
吃音に悩んでいたカボこと小谷花木は、入学した高校で、一人踊る女子生徒を見る。その姿の美しさに心奪われたカボは、彼女、ワンダこと湾田光莉を追うようにして、ダンス部に入部する。しゃべらなくていい。踊ることで表現ができる。その楽しさに触れたカボは、次第にダンスにのめり込んでいく……
珈琲先生の新連載です。思わず首の後ろでアクセントをとってしまうようなダンスシーンの気持ちよさと、普段から色々考えるカボくんの内心の描写がいいですね。
フィジカルとフィーリングとはたから思われがちなダンスについて、そのコツやノり方を分析的に説明しているのが、たいそう私好みです。吃音ゆえに口数が少なく、だからこそ人の話やその場の音や空気をよく聴いているカボくんだからこそ、音楽のグルーブをよく聴いていて、派手な動きでなくてもアクセントを合わせることで魅せるダンスになっているのが、うまく設定にマッチしています。
吃音とダンスの感覚の共通点については、1巻発売時にがつっと書いてます。
『ワンダンス』吃音とリズムとダンスの話
『ワンダンス』ダンスの自由と動かされる感覚の話
カボとワンダの恋愛模様も、きゅんきゅんきちゃいますね。直截的に言葉にする描写はないけど、たしかにカボを憎からず思ってるワンダかわいい。
これを読んだせいで、今年ダンスの体験教室にでも行ってみようかな、なんて思ってます。
児玉まりあ文学集成 (torch comics)
僕こと笛田くんが通う文学部の主、児玉さん。彼女は詩のように話し、小説のように振る舞い、文学のように息をする。少なくとも、笛田君にはそう思える。生きる文学である彼女から文学を乞うために、今日も笛田君は文学に通うのです……
三島芳治先生のこちらも新連載。べたっと平面的な絵の中で紡がれる、言葉遊びと文学の話。笛田君の目に映っているものは、児玉さんの言葉で、築かれた文学の真実なのか、虚構の世界なのか。他の学生たちが平穏な学校生活を送る中、一人笛田君が、現実と虚構の中を行き来して、児玉さんの言葉に振り回される姿は、滑稽でもあり、道化でもあり、ひょっとしたらとても文学的なのかもしれません。なにしろ、言葉によって世界の見方を変えるのが、文学なのですから。
笛田君は、児玉さんの言葉を素直に受け取ります。そして、そのように世界を見ようとします。なんて理想的な文学の読者なんでしょう。
読者も、彼女の言葉に少しだけでも振り回されると、また世界の見方が変わるのかもしれません。
違国日記(1) (FEEL COMICS swing)
両親を交通事故で亡くした中学三年生の朝は、疎遠だった母方の叔母・槙生に引き取られました。槙生は、自分の姉にして朝の母だった人を好きではなかったと当の朝に公言しますが、そして同時に言います。それでも私はあなたをないがしろにはしない、と。寄る辺を失くした一匹の子犬と、一人で暮らすことを選んだはずの大人の女。二人の共同生活は二人をどう変えるのか……
キャラクターの心理を丁寧にかつビビッドに描写することに定評のあるヤマシタトモコ先生。本作では特に、人の孤独さ、わかりあえなさと、それでも一緒に生きていける人のしたたかさ、やさしさが、二人の女性を軸に描かれています。
タイトルにある違国。違う国。
人はそれぞれ、自分だけの国に住んでいます。自分だけの領土。自分だけの法律。自分だけの空気。領土の広さや法律の峻厳さ、空気の色やにおいは人それぞれですが、国同士が国境を接することはできても、同じ王を戴くことはできません。その国の王は自分だけ。他人を王とすることはできないし、他人の臣下になることもできない。一人で王様、一人で国民。それを必要以上に意識してしまっている槙生という女性と、まだそれを知らない朝という女の子。しかも相手は自分の肉親で自分の嫌いな女性の一人娘。両親を亡くしたばかりの不安定な女の子。衝突が起こらないわけがなく。
タイトルが「異国」じゃなくて「違国」なのは、「異国」にはたとえば「異国情緒」のような、遠い国、文化の異なる国、というようなニュアンスがついているからで、そうではなく、同じように思えてもそれは違う国、隣同士でも違う国、のようなニュアンスを出したかったというのが、理由の一つにある気がします。隣にいるのに違う国。一緒に住んでいるのに違う国。
時にヒヤヒヤし、時にハラハラし、時にスンと寂しくなるような二人の生活が、どのように変わっていくのか、今後も目が離せません。
BLUE GIANT SUPREME(1) (ビッグコミックススペシャル)
この作品に関しては実は、俺マン2016から4年連続で推していたんですよね(当時は無印)。いまさらなにをかいわんや。
巻を重ねても、大を取り巻く音楽の熱さは衰えるところを知らず、メンバーやオーディエンス、共演者はもちろん、イベントの主催者やプロモーター、スタジオエンジニアの心も熱くさせます。そして、その熱の中心で、誰よりも前を、上を向いている大。今年も期待しています。


ということで、2019年の漫画のトップ5でした。
他にも候補作として、
・好きな子がめがねを忘れた
・邦キチ!映子さん
・千年狐
・僕の心のヤバイやつ
異世界おじさん
・シネマこんぷれっくす!
・かげきしょうじょ!!
SPY×FAMILY
鬼滅の刃
がありました。
また今年も面白い漫画が読めることを祈りつつ、よろしくお願いいたしますのご挨拶。



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『鬼滅の刃』あけすけな言葉と物語の推進力の話

今更ながらに手を出した『鬼滅の刃』。
鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックス)
今月から買いだしたのですが、アニメ化によるフィーバーのあおりを受けて、5巻まで買ったところで品切れ。10月後半の入荷で8巻まで買ったもののまたすぐに品切れ。11月の再々入荷まで待たなければいけません。人気すごい。
ということで、まだ8巻までしか読んでいな状況なのですが、この作品の魅力の一つは、ストーリーの推進力であると感じます。とにかくキャラクターが話を引っ張っていくので、退かない、たゆまない、ゆがまない。そしてその推進力の根底には、どのキャラクターも備えている、まっすぐさがあります。猪突猛進は伊之助のセリフですが、彼に負けず劣らずどのキャラクターも己の理念に忠実で、やるべきことに一直線です。
それは別の言い方をすれば、迷わないということ。惑わないということ。
いえ、正確に言えば迷いもするし惑いもするのですが(炭治郎のセリフやモノローグでも、どう戦おうか迷ったり、逃げるべきか否か惑うシーンは出てきます)、その迷いも惑いもすべてさらけ出し、その裏側に別の思惑が存在しているような様子が一切ないのです。
炭治郎がどう戦おうか迷うのは、どう戦えばいいのかわからないから。逃げるべきか否か惑っているのは、どっちを選ぶほうがいいか判断をつきかねているから。そんな迷いや惑いに、直接的な理由以外の事情が見えないのです。
要するに、彼や彼女の思いがなんらかの言葉をとったとき、それは心情をあけすけにあらわしたものなのです。葛藤がないのではありません。葛藤をすべて言ってしまっているのです。
炭治郎が鬼に対して怒り、憐れみ、悼むときの言葉。
善逸が己の弱さや意気地のなさを吐露する言葉。
伊之助が敵を前にして血沸き肉踊り、あるいは恐れ戦いているときの言葉。
これらはすべて、いっそ説明的といえるほどに彼らの心情を率直に表しており、それゆえに、話の展開に淀みを作らず、真剣のごとくに切れ味鋭く内面を表し、キャラクターの思惑は剣戟のごとくに火花散るものとなっています。
こう書くと、ただの説明臭い作品となりそうなのに、しっかりと展開に起伏のある熱い作品になっているのは、おそらく、その言葉が必要最低限のものにとどめているからでしょう。必要な言葉は漏らさず書くけど、必要以上の言葉は極力書かない。そんな抑制があるから、テンポよく展開していくのだと思います。
また、このキャラクターのあけすけさは、ストーリーの展開以外に、コメディ面でも作用しています。炭治郎・善逸・伊之助の三バカがバカをやっているとき、あまりにもあけすけにバカをさらしているものだから、そのシーンでは本当にそのバカなことしか考えていないように見えるので、コメディ部がストーリーの重苦しさを引きずらないのです。このライトな感じ、ホント好き。

続きが一刻も早く読みたいので、早く品切れ解消して…お願い……



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『BLUE GIANT SUPREME』大の揺るがなさとその意味の話

新刊が出る度にドキドキさせられる『BLUE GIANT SUPREME』。
BLUE GIANT SUPREME (8) (ビッグコミックススペシャル)
相変わらず演奏シーンはカッコよく、演奏にしびれるお客さんの表情も秀逸。それがあるから、演奏を終えた後に健闘を称えあうメンバーの抱擁も、カタルシス溢れるものになります。個人的には、キメ台詞が一番かっこいいのはブルーノだと思うんですよね。第63話でラファに言ったセリフとか最高です。
さて、主人公の大が自身の目標、すなわち世界一のサックスプレイヤーに向かって真っ直ぐ進んでいることは、特にSUPREMEに入ってからはずっと変わらず続いていることですが、彼のその姿を一言で表現するとしたらそれは、「揺るがなさ」なのかな、とふと思いました。
他のことに脇目もふらないという意味では、珈琲先生の描く『ワンダンス』のヒカリや『のぼる小寺さん』の小寺などとも似ていますが、私はそちらについては「ひたむき」と表現しました。
「揺るがなさ」と「ひたむき」。
私がこの二つの言葉をどう感じ分けているかと言えば、前者は、現在のはるか先にある未来や目標を明確に志向し、そこに向かって進んでいる様子。後者は、すぐ目の前にある楽しさに対して集中している様子。
端的に言えば、見ているものまでの距離です。前者は遠く、後者はすぐ近く。
もちろんそれは良し悪しの話ではないのですが、大の「揺るがなさ」を意識してSUPREMEの1巻から読み返してみたら、大の行動のあまりの早さに驚きました。自身の現況を安定させることを求めず、目標へ続く次のステップがわかったら、躊躇なくそこへと足を踏み出していくのです。
単身ドイツはミュンヘンへ乗り込んだら、拙い英語でライブハウスにアポなしで飛び込み出演交渉。ツテもデモCDもない、どこの馬の骨とも知らぬ東洋人とまったく相手にされない中、運よく知り合ったドイツ人学生がほうぼう手を尽くしてくれて、なんとか見つかった小さなライブハウス。そこで2回ライブをしたら、一人でできることはもうすべてやったと、バンド仲間を求めてミュンヘンを去ることを決意。組みたいと思えたベーシストには一度断られたものの、何度でも交渉するため、彼女が次に行くと言っていたハンブルクへ一路旅立つ。また一人に戻って、ミュージックショップやライブハウスに飛び込んでは彼女を探す……と、2巻の途中まででここまでのことをこなしているのです。
倦まず弛まず足を止めず、世界一のサックスプレイヤーになるために、大は邁進するのです。その歩みの速さは、頑張る人はかっこいいなどといったよく聞くフレーズとは次元の違う、もはや狂気の世界にすら足を突っ込んでいるようにすら思えます。
とはいえ、彼の揺るがなさは、迷わなさとイコールではありません。現在の自分の位置と未来を隔てる長い距離ゆえに、迷うこともあります。でも、彼は足を止めないのです。

分からない。
オレの演奏に足りないモノ… 自問しても答えられないモノが山ほどあって、
分からないことが多すぎて、吹く以外なく…
だからオレは練習してるのか?
吹いてさえいればそれでいいと、練習してる自分に満足してねえか!?
(1巻 第7話)

と、ドイツに来て初めてのライブの出来に不満を覚えながらも、

次こそ―― 次のライブこそスゲエぞ!!
オレは間違っていない! 仙台、東京、ドイツ……
オレは一日だって、間違ってないぞ…!!
(1巻 第7話)

と、不安になる自分を必死に鼓舞し、練習を続けます。

いつもなら身体の一部みたいに感じる楽器が、何故か、遠い。
楽器とボクが少しずつ離れていく感じ…
(中略)
2日間吹き続けて、ボクは初めて、「これがスランプなのか」と思いました。
(1巻 第8話)

と、初めてのスランプにショックを受け、楽器を吹けなくなりましたが、

ドイツに来てから一人の時間が増えて、ボクは色々考えていました。
今までのこと。ドイツでのこれから。
サックスの技術・・・ ドイツでの活躍の場所…
日本にいる家族のことや、友人達のこと
それからボクは、走り出しました。
走って、時々歩いて、走って…
そして日が暮れた頃に、
何もない場所に着きました。
何もない景色を見て思ったんです。
オレ、考えすぎだって…
(1巻 第8話)

疲れ果てるまで歩いた先で、考えすぎていた自分に気づき、雑念を消し去りそもそもの目標をはっきりと思いだせました。
迷って、少しふらついて、今の位置を見失いそうになっても、目標自体ははっきりしているから、すぐにそれを見つけることができる。その意味で、揺るがないのは大自身であるというよりも、彼が掲げた目標だと言えるのでしょう。


巻末のボーナストラックでは、ついにNumber 5の大を除く全員が登場しましたが、物語はまだまだ終わりそうもありません。今後どこまで展開させていくつもりなのでしょうか。7巻で大御所ベーシストのサムが大にかけた言葉は、8巻でのアーネストとラファの件で回収しきったのでしょうか。それともさらに大きな壁が出てくるのか?
楽しみで仕方ありません。



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『ワンダンス』ダンスの自由と動かされる感覚の話

三度あることは四度ある。『ワンダンス』のお話です。
今回は、ワンダの言うダンスの「自由」と、カボの感じたダンスの「動かされてい」る感覚の話。
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
ワンダはカボからダンスが好きな理由を聞かれ、その一つとして「なんか「自由になれる感じがする」と答えました。その答えは、周りの目を気にして自由に振る舞えないカボにとってひどく魅力的に映ったようで、彼がダンス部に入る大きな一因となります。
そして、入部してしばらく。6月に行われるコンテストのオーディションで、他の部員の前でワンダと踊ったカボは、ワンダの踊りを見て、「音を聴く」という、当たり前のようでなかなか意識できないコツに気づき、「動かなくていい 音楽に動かされていればいい 何も考えなくていい」と感じながら気持ちよく踊ります。
さて、この「自由」と、「動かされてい」る感覚。一見正反対のもののようですが、両方ともがカボにとって腑に落ちているものであるというのは、どういうことなのでしょうか?
これを考えるのにもまた、前回の記事でも参照したこの本が参考になりそうです。
どもる体 (シリーズ ケアをひらく)
この本の、「ノる」ことについて書いた章でこんな記述があります。

「勢い」とは、まさにパターンを繰り返し使うことによって生じる、推進力のようなものだと考えられます。運動が単純に継起するのではなく、現在の運動のうちに過去の運動が含まれ、さらには未来の運動が予感されている。これが「勢い」です。
(どもる体 p165)

引用内で触れられている「パターンを繰り返し使う」という行為。これはまさにダンスです。基本単位となるようなパターン(振り付け)を組み合わせてダンスは行われますが、その組み合わせは単純なものでなく、それまで踊ってきたものを変奏、展開していき、表現の幅を広げていきます。よくできた変奏の仕方は、過去の運動を参照し、未来の運動を予感させ、出てきたものが意外な振り付けであろうと、見てるものにある種の納得を催させる関連性を内包しています。つまりは、「勢い」があるのです。
そして、そんなダンスが必然的に伴っているリズムについては、こう述べています。

バフチンはこう述べています。「リズムは、志向、行動、体験がある種のあらかじめ決定されたものであること(…)を前提としている。」。
つまり、リズムにおいてはベクトルのようなものが生まれ、自分ですべてを決めなくてもよい。法則の力によって、運動の進むべき方向がおのずと決められ、進んでいく。
それは決められているという意味では「絶望」かもしれませんが、運動そのものは、なかば「法則任せ」にできる。ヴァレリーも、リズムが十全に作用すると、存在が「自動的になる」と語っていました。ボールが物理法則にしたがって繰り返し弾むように、まさに弾みを得たことによって、リズミカルな運動はおのずと進んでいきます。
(同書 p165)

「自分ですべてを決めなくてもよい」。
「法則任せ」。
「自動的になる」。
ここで述べられていることは、カボの感じた「音楽に動かされていればいい」という感覚と見事に符合します。
たとえば私が趣味でやっているジャズのアドリブ。リズムセクションが演奏するリズムパートの上で、ソロ楽器がアドリブをとるのですが、このときリズムにノれていないと、自分のカッコ悪さが気になり、気ばかり焦り、次にどんなメロディをだせばいいかわからなくなり、今何を吹いているのかもわからなくなります。
それはまさに、『ワンダンス』で部長が言った、「早取り」が起きる状態。

人前に立つ 一斉に注目を浴びる カメラなんかも向けられる そして音楽が流れてくる 踊らなきゃならない
そうするともうテンパって 視界はどこ見てんだかわかんないし 聴覚はシャットダウンして何も聴こえない
そうすると頭の中はこんなことでいっぱい
「次どんなステップを踏めばいんだっけ?」「こっからあの動き どうやって繋げばいいの?」「あっ 練習したあの技も使いたい…!」
「てかこのポージングダサくね?」「てか今顔ブスじゃね?」
…と 身体ばかりに意識がいってとにかく焦る
そうすると何が起きるか
「早取り」が起きる
(ワンダンス 1巻 p153,154)

書いてて、アドリブでしくりまくったときを思いだしてブルっちゃうのですが、ノれてないと、こうなってしまうのです。
でも、勢いがあれば、リズムにノれれば(『ワンダンス』内の言葉を使うなら、音楽をきちんと聴ければ)、運動の進むべき方向を「法則」に任せられるので、その「方向」の中で、自分ができることに集中できるようになります。
実際カボは、きちんとリズムにノることで、手持ちの振り付けがまだまだ少ないながらも、簡単な動きをうまくつなぎ、魅せるダンスを踊ります。
このときのカボは、自分が次にどんな動きをしようか、具体的に考えていません(「何も考えなくていい」)。意識は音楽を聴く方に集中し、体の方が、次にどう動けば一番いいのか、手持ちの動きの中から「自動的」に答えを出しているのです。こうして彼は、音楽に「動かされてい」るのですな。


さて、ここまで述べてきた「動かされるてい」る感覚。ここから「自由」に飛躍するには、以前書いた記事がヒントになりました。
『バガボンド』『戦国妖狐』決定された運命と自由の話 - ポンコツ山田.com
この記事では、『バガボンド』、『戦国妖狐』、『極東学園天国』を例に出し、自由と決定された運命という、相反すると思われる二つのものについて書きました。
その中でも、沢庵の言う

それによると―――― わしの 
お前の 生きる道は
これまでも これから先も
天によって完璧に決まっていて それが故に――――
完全に自由だ
バガボンド 29巻 #256)

という言葉。
そして

人は無限だ
それぞれの生きる道は 天によって完璧に決められていて
それでいて完全に自由だ
根っこのところを天に預けている限りは――――――――――
(同 #257)

という言葉。
この二つをキーにしてみましょう。
思うに、ここで沢庵が言っている「天」は、リズムにノった状態に、そして「生きる道」はどう踊るかということに相当するのではないでしょうか。
すなわち、ある人間がどう踊るかは、ノったリズムによって決定されているのだ、と。
それがなぜ自由なのかと言えば、上で私が、カボは「自分が次にどんな動きをしようか、具体的に考えてい」なくて、「意識は音楽を聴く方に集中し、体の方が、次にどう動けば一番いいのか、手持ちの動きの中から「自動的」に答えを出している」と書いたように、リズムによって「完璧に決められ」た踊りとは、あるリズムに一対一で常に対応する唯一の踊りがあるのではなく、今・ここにおいて、あるリズムで踊っているある人間が、手持ちの振り付けの中で、その時点での習熟度に応じて、最善として導かれる動きが自動的に出てくることを意味するからだと思うのです。
つまり、常に変化する「今・ここ」と、常に変化する人間においては、最善とされる動きも常に変化するのです。ある「今・ここ」における最善が、他の「今・ここ」においても最善であるとは限らないのです。
踊る当人の状況次第で、無限に近い最善手がありうるという意味で、自由なのです。
これは、前掲の記事でも引用していた、『戦国妖狐』の足利義輝の発言にも通じるものでしょう。

時と可能性には無限の揺らぎがあり 選択は常に自由だ
同時に運命も全て決まっていて 決めたのはわし自身だ
戦国妖狐 9巻 p13)

「無限の揺らぎ」の中で、その揺らぎ(「今・ここ」)に応じた最善の踊りは一つしかない(=決まっている)けれど、どの揺らぎ(「今・ここ」)で踊るかを選択することに自由は存在している、ということです。


長くなったのでまとめますが、カボの感じた「動かされてい」る感覚とは、彼がリズムにノっている状態であり、その状態で踊れる最善手は、ある「今・ここ」においては一つしかないのですが、「今・ここ」とは常に変化し、「今・ここ」を選ぶ人間も常に変化し、そしてどの「今・ここ」を選ぶかはそれぞれの人間に委ねられているので、その意味で自由でもあるのです。
もちろん、常に「今・ここ」を自由で選べるものではなく、その意味でダンスの「自由」も、多くの場合、理想的な状態からはどこか欠けているものですが、それはそれとしても、一見相反しそうな二つの感覚はこのようにしてつながるのかなと考えます。



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『ワンダンス』吃音とリズムとダンスの話

まだまだ書くよ、『ワンダンス』の話。今日はカボの吃音にスポットをあてた話。
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
本作の主人公カボこと小谷花木には吃音の症状があり、それが彼のコンプレックスとなっています。
吃音とは、簡単に言えばどもること。症状のパターンとして、
・連発型:一つの音が連続して発声される(「たまごを」と言おうとするところを「たたたたたたたまごを」など)
・難発型:発話するまでに時間がかかってしまう(「たまごを」と言おうとするところを「――――――――――たまごを」など)
・伸発型:発話の途中で音がのびる(「たまごを」と言おうとするところを「たまーーーーーーーーーーごを」など)
などがあり、これらが複合して存在することもしばしばです。
カボは連発と難発の併合で、どうしても会話がぎこちなくなってしまい、慣れない人と喋ることに気後れし、ひいては自己主張にも苦手意識を持っていたのですが、同級生の湾田光莉に触発されて、言葉がなくても表現できるものとしてダンスを始めました。で、意外なことに、この吃音とダンスは、あるキーワードで通ずるものがあるのです。
そのキーワードとはリズム。リズムがあることで、吃音のどもりはなくなり、ダンスには美が生まれます。
それを教えてくれたのはこの本。
どもる体 (シリーズ ケアをひらく)
同書で著者は、吃音=「どもる」を、発話の際に「体のコントロールが外れ」「思ったのと違う仕方で、言葉が身体が出てくる」もの、と捉え、当事者はどのようにしてコントロールが外れた体に対処しようとしているのか、技術(身体)面と心理面から、二元的に述べています。
その同書の中で、吃音の当事者たちがどもらない例として、こんなことが言われています

「歌うときはなぜかどもらないんです」。
当事者たちが口をそろえて言う「吃音の不思議」のひとつです。人によって症状の個人差がきわめて大きい吃音ですが、この点に関してはみんなの意見がぴたりと一致する。
(中略)
リズムと演技。どもりが出にくいこの二つのシチュエーションに共通しているのは、それに没頭しているあいだ、彼らが「ノっている」ということです。「ノる」とは単にハイテンションになることではありません。「ノる」は、意図と体のあいだに生まれる独特の関係のことであり、この関係が運動をたやすくするのです。
(どもる体 p148,149)

リズム。
同書の引用部分では歌に備わるものとして触れられていますが、これはまた、カボが始めたダンスにおいても極めて重要なものです。その上で、「ノる」ことも同様に、魅力的なダンスをする上でもっとも重要なものの一つでしょう。
もう少し、『どもる体』の内容を追ってみましょう。
同書では、リズムについてこう述べています。

まず、リズムに不可欠な要素は「反復」でしょう。
(中略)
ただし、注意しなければならないのは、「反復」といっても、まったく同じものが繰り返されているわけではないことです。たしかに、時間の刻み幅は同一です。同じ間隔をあけて、アクセントが訪れます。
(中略)
違うけど同じ、同じだけど違う。この相反する特徴をあわせ持つことがリズムの特徴です。つまり、リズム的反復とは事細かに細部を指定する規則ではなく、異なるものをざっくりと束ねる寛容さを持った規則なのです。
(前掲書 p154,155)

変化を含んだ反復としてのリズム。変化していくからこそ、逆に「刻む」働きが重要になります。適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れる。「ノる」とは端的に言って、この「刻む」働きにほかなりません。音などを実際に出す側だろうが、それを聴いたり見たりする受け手の側だろうが、リズムにノっている限りこの「刻む」働きに区別はありません。
(前掲書 p156)

「違うけど同じ、同じだけど違う」「反復」。
「適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れる」「刻む」行為。
この2点をリズムの重要事項として著者は挙げています。この2点が備わっている歌をうたうときは、吃音者でもどもらずに(著者の言葉を借りれば100%)発話できるというのです。
そして、ダンスもまた、基本的な動作のパターンを基に、音楽に合わせて反復的に、そして基本パターンを変奏しながら振り付けを増やしていきます。「違うけど同じ、同じだけど違う」「反復」です。
また、『ワンダンス』の中でも「形を合わせなくても 同じ音を 同じアクセントで取れば ダンスは揃う」と言われているように、アクセント、すなわち「適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れ」「刻む」ことで、ダンスには躍動が生まれます。
当たり前のことですが、ダンスはリズムにノって踊ることで、美を生み出す芸術なのです。
さて、そんなリズムですが、さらにこんなことも言われています。

詩人としてリズムの力を探求していたフランスの文学者ポール・ヴァレリーも、この点について指摘しています。「リズムが十全に作用するとき、存在は自動的であり、外部の偶発的な条件は破棄され、排除されたかのようである。」
(前掲書 p160)

「リズムが十全に作用する」、すなわちリズムにノっている状態では、覚えたものが意識せずとも自然と現れ、体を動かしているかのようである、というのが「自動的であり、外部の偶発的な条件は破棄され、排除されたかのようである」の意でしょう。
このヴァレリーの引用は、リズムについてのものであり、詩についてのものであり、そして吃音にも関係するものですが、ここで登場する「自動的」という言葉からは、『ワンダンス』内のカボの言葉を想起させます。

動かなくていい
音楽に動かされていればいい
何も考えなくていい
(ワンダンス 1巻 p179,180)

「音楽に動かされる」。「何も考えなくていい」。それはまさに自動的ということです。
リズムに乗ったカボは、今まで学んできた動作を「自動的」に行い、華のあるダンスを見せています。

再びヴァレリーの言葉を引用しましょう。
リズムにおいては、「先行するものと後続するもののあいだにつながりがある」とヴァレリーは言います。そのつながりとは「すべての項が同時に存在し、活性化されているかのような、けれども継起的にしかあらわれないようなつながり」です。
(どもる体 p162)

ここで言われている「継起的」とは、先行するものがあるから後続するものが生まれる、と言えるでしょう。カボのダンスも、ある動作をした後にその動作から上手くつながるような次の動作が「自動的」に決定され、滑らかに切れ目なく(あるいは適切な「刻み」でもって区切られ)連続する動きとなっています。そしてその一連の動作の総体=ダンスは、「すべての項が同時に存在し、活性化されているかのよう」であるため、一つ一つの動作は難しいものではなくとも、とてもノれるものとなり、カボがその瞬間において生み出した、独立した芸術として現れるのです。


リズムにノることで、どもらなくなる吃音と、美しい動きを生み出せるダンス。このように、両者はリズムという考えを通じてつながったのです。
付け加えれば、カボが中学時代にやっていたバスケットボールも、球技の中ではもっともリズミカルなスポーツだと言えそうです。一定のパターンで、手でボールを弾ませる、バスケの基本動作であるドリブルは、リズムのある反復的動作として屈指のものでしょう。カボ自身、ダンスを踊る際の音の取り方について、バスケットボールをイメージしていると言ってますしね。
カボの吃音という特徴が、このような形でダンスと関係してくるというのは、意外であり面白いなと思います。



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