ポンコツ山田.com

漫画の話です。

文学の世界と世界の中心の女の子『児玉まりあ文学集成』の話

校舎の隅っこ、地学部の部室を乗っ取った文学部。そこにいるのは唯一の部員、児玉まりあ。まるで詩のような話し方をする児玉さん。彼女が言葉を紡げば、そこには文学が生まれる。文学部に入部するため、僕こと笛田君は部室まで毎日通う。彼女の入部テストは厳しく、笛田君はなかなか入部できない。なんとか合格すべく、今日も今日とて笛田君は、児玉さん直々の入部テストに付き合うのです……
児玉まりあ文学集成 (torch comics)
ということで、三島芳治先生の新作『児玉まりあ文学集成』のレビューです。
いつも難解な言葉を口にする謎めいた美少女・児玉まりあと、信奉するかのように、崇拝するかのように、彼女のいる文学部へ通う笛田君。ある時は比喩、ある時は語彙、ある時は記号、またある時は語尾。いつも彼女は、煙に巻くかのように、楽しむかのように、文学に関する難解な話をあふれさせ、笛田君はなんとかそれを理解しようと躍起になる。でも、いくら頑張っても児玉さんの影すら踏めず、彼は文学の前に崩れ落ちるばかり。
この物語は、笛田君がひたすら児玉さんから文学の薫陶を受け、文学の真理の一端に触れ、文学の難解さに愕然とし、そして一人の女の子である児玉さんがかわいい漫画です。
この作品における文学。それは以下のセリフで端的に示されています。

木星のような葉っぱね」
「それはどこが」
「意味はなかった でも今私が喩えたから この宇宙に今まで存在しなかった葉っぱと木星の間の関係が生まれたの 言葉の上でだけ これが文学よ」
(p6,7)

文学とは、言葉で意味を生み出すもの。言葉で関係を創造するもの。
この宇宙に今まで存在しなかったものも、言葉にすることで生み出せる。それが文学だというのです。
世界は言葉によって認識されている、言葉によって構成されている、言葉によって形作られている。ならば、世界にない言葉が生まれれば、世界にはその言葉に対応するモノコトを生み出すのではないか。
ある話の中で、児玉さんがありもしない言葉を口にしたせいで、世界に新たな物質が生まれました。
児玉さんは言います。
「案外神様もこんな風にこの世界を作ったのかもね」
その昔、神様は天地を創造した後に「光あれ」と世界を形作っていったそうですが、本当は「言葉あれ」とおっしゃったのかもしれません。
そんな絵空事、あるいは文学が、軽妙にそして玄妙に、なによりかわいらしく描かれている作品です。
児玉さんは、笛田君が文学部へ在籍するに足る人間であるかどうか、テストをしては彼を落とし、そしてまたテストを繰り返します。そんなことをもう一年ばかりも繰り返していたりして。彼女が笛田君に向けて発する言葉、あるいは文学は、世界に意味を与え、世界のモノやコトに新たな関係性を与え、時には新しい存在だって生み出したりして、笛田君の世界をどんどん複雑にしていくのです。
でも、その中心にいるのは、ただの女の子。少し変わっていて、少しかわいい、たまに不思議な言葉を口にする、その他大勢から見ればどこにでもいるような女の子。
でもきっと、文学部に入りたくてたまらない笛田君にとっては、彼女はまるで文学のように、あるいは世界のように、複雑で、難解で、神秘的で、超常的な、唯一の女の子。世界でたった一人の女の子。
誰にでもある勘違い。どこにでもある特別な感情。ひょっとしたら文学は、そんな気持ちを表すために生まれたのかもしれません。
なんちゃって。
難しいことを言っているようで、大事なことを言っているようで、空疎なことを言っているようで、哲学的なことを言っているようで、その実ありふれたエンターテインメント、でも唯一無二のエンターテインメント。まさに文学。それがこの作品です。
試し読みはこちらから。
トーチweb 児玉まりあ文学集成
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めがねを忘れてあの子が近い『好きな子がめがねを忘れた』の話

クラス替えで隣の席になった三重さんは、いつもぼうっとしている、めがねの女の子。いつもぼうっとしていて、口を開けば少しずれたことを言って、でも、そんな彼女のことが気になってしかたがない。そんなある日、三重さんはめがねを忘れて登校してきたのでさあ大変。文字通り距離感のつかめない彼女の一挙一動に小村君はもう目が離せないのです……
好きな子がめがねを忘れた(1) (ガンガンコミックスJOKER)
ということで、藤近小梅先生『好きな子がめがねを忘れた』のレビューです。
内容はタイトルそのまんま。隣の席の好きな子が眼鏡を忘れたせいで(おかげで)、男の子がドッキンバクバクするラブ(?)コメです。
まあこのコメディの何がいいって、ド近眼の三重さんがめがねを忘れるものだから、そして三重さんが小学校低学年レベルで恋愛感情が育ってないものだから、小村君に近い。とにかく近い。鼻と鼻が触れ合いそうな距離まで顔を近づけてくるし、それどころか平気で手まで握ってくる。純情な中学生男子が、そんな攻撃に抗えるわけがありません。自分の好きな人の顔が、文字通り、目と鼻の先にあって正気を保てる男子が何処にいましょう?そりゃあ焦点をぼやけさせて意識を半分飛ばして、機械的に受け答えをするしかない。
やってる三重さんにしてみれば、目が悪いんだから相手の顔を認識するために顔を近づけるのは当然だし、道案内してもらうのに手は握ってもらわなきゃだし、待ち望んでいたケーキはは「あーん」てしてもらわなきゃ食べられないし、授業中居眠りして寝ぼければ隣の男子をお父さんと間違えて肩に寄りかかって眠るくらい当たり前です。そうか?
いちいち心臓が跳ね上がり、顔も真っ赤になる小村君と、涼しい顔で目つきの悪い(めがねを忘れたから)三重さん。このギャップこそコメディですね。
さらにこの作品、セリフ回しが妙に癖になります。
ちょっとしたことをしてもらって「このお礼はいつか必ず」だの、めがねを忘れたままドッヂボールの内野に入って「敵も味方もわからない」だの、給食当番を代わろうかという申し出に「私がやる…ううん 私にやらせてほしいの」だの、やけに武士めいた言葉遣いをする三重さんに、三重さんの手を握った自分の手を見つめて「手を洗わないわけにはいかないけど今日の手の皮脂を綿棒などで拭って保存しておきたい」だの、三重さんと一日遊んだ後に「この星の言葉では伝えくれないくらい楽しかった」だの、ちょいちょい気持ち悪いことを口にする小村君。
基本的には、男を惑わす三重さんのド天然思わせぶりワーディングとそれにあたふたする小村君なのですが、その中グッとくるセリフをするっと入れてくるのが楽しいです。
まああとは、毛量の多いスッとした顔の女の子はかわいいという一般常識に踏襲しつつ、めがねを外すとやぶにらみになって、顔を近づけて焦点距離が合うととたんに柔らかい表情になる(目と鼻の距離で)という、宇宙の真理に触れた三重さんはとてもかわいいですよね。必要以上に、と言ってもいいほどに、カメラに近い三重さんの顔が描かれるのは、めがねを忘れてドッキンバクバクという本作の趣旨にのっとっているのです。
試し読みはこちらから。
magazine.jp.square-enix.com
つい何度も手に取って、うふふふふとニヤニヤしてしまういいラブ(?)コメ。おすすめどす。



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俺マン2018の話

今年も開催されている俺マン2018.
oreman.jp
例年通り乗っかって、今年読んだ漫画のお薦めを挙げたいと思います。
企画自体のレギュレーションは「その年自分が面白いと思った作品」と至極緩いものですが、俺ギュレーションとして、「今年発売された作品5つ」というものを付け加えます。まああんまり昔の作品を漁ってはいないんですが、例年のこととして。
それではレッツゴー。
月曜日の友達 コミック 全2巻 セット
私の胸をざわつかせてやまない作家・阿部共実先生の放ったボーイ・ミーツ・ガール。男の子と女の子、青春と青春未満、孤独と友達、独りと二人、現実と幻想、現実と夢。色々なもの境界線を行きかい、融けあい、子供が大人になる階に手をかけるその瞬間を、ポップな絵とリリカルな言葉で描き出した傑作の完結巻が、今年の2月に発売されました。
同じようで違う孤独を抱く水谷と月野。誰もが人に見せたり見せなかったりした、でも誰もが必ず感じていたに違いない、いつの間にか変わってしまった(と感じた)周囲とどこまでいっても変われない自分の戸惑いが、この二人の中学生を通して瑞々しく、それでいて痛々しく、その上で美しく語られているのです。
当然これを読んだ私はもういい大人であり、自分の中学校時代の不安を思いだすように、あるいはそうであったかもしれないと糊塗するように読みましたが、果たして現役の中学一年生が読んだら、つい数年前までその立場であった高校生が、もしくはそうなるであろう小学生が読んだら、いったいどのような感想を持つのか、それが非常に気になる作品でもあります。もし私が中一の時分にこの作品に出会っていたら、と想像すると空恐ろしくすらありますね。良くも悪くも今とは少し違う自分になっていただろうなと思わせる、それだけの力がある作品です。孤独に寂しさを感じる心を指し示し、自分を理解してくれる人の存在の嬉しさを見せつけ、その人とも必ずいつか別れが来るという現実を見せつける、そんな力。
試し読みはこちらから。
comics.shogakukan.co.jp
amazarashiが本作にインスパイアされて作った楽曲「月曜日」もまたドチャクソいい曲なので、あわせて聴いてほしいです。
www.amazarashi.com
シネマこんぷれっくす!(2) (ドラゴンコミックスエイジ)
映画好きが昂じて、映画みたいな青春を過ごせる部活に入りたいと思っていた男子高校生・熱川鰐人。しかし、その映画好きが祟り、数々のトラップに誘い込まれるようにして彼が辿り着いたのは、学内の変人が集まる、死ね部こと映画研究部だった。かくして、フ○ース(とおっぱい)に導かれて死ね部もとい映画研究部に入部することになった鰐人は、なんとか青春らしいことをしようと映画製作を始めたいのだが、曲者ぞろいの死ね部の説得は一筋縄でいくわけもなく……
という、ビリー先生の商業デビュー作『シネマこんぷれっくす!』が俺マン2018にランクインです。私自身は映画を人並み以下にしか嗜まないのですが、それをすっとばすようなスラップスティックコメディがとても楽しいです。
洋画は字幕か吹き替えか? B級映画の楽しみ方は? マッドマックスの最高傑作は? HIGH&LOWはパリピのための映画なのか? 漫画原作映画の是非について。洋画の砲台の是非について。そんな話をテーマに繰り広げられる、畳みかけるようなギャグ台詞の応酬、派手なリアクション、コマ割りによる間のとり方は、まるでよくできたコントのようで、すいすいケラケラと笑いながら読めます。
今年のギャグ枠ベストは確実にこの作品。
第一話の試し読みはこちらで。
シネマこんぷれっくす! 無料漫画詳細 - 無料コミック ComicWalker
銀河の死なない子供たちへ(下) (電撃コミックスNEXT)
作品の幅を広げている施川ユウキ先生が送りだした、生と死について真正面から取り組んだ作品。
比喩でなく永遠の命を持つπ(パイ)とマッキの幼い姉弟は、同じく永遠の命を持つ母とともに、人間が滅びた世界で三人仲良く、何も変わらない、変われない日々を過ごしています。しかし、そんな不変の日常で出くわしたのは、不時着した宇宙船。ただ一人搭乗していた瀕死の乗組員は妊娠しており、なんとか無事に子供を産んでから、この名前だけを告げて、事切れました。とりあげた赤ん坊を二人で育てていこうと決心した不死の二人は、人間と、変化する人間と、成長する人間と、いつか必ず死ぬ人間と、初めて共に暮らすことになったのです。
生と死という、真正面から取り組むにはあまりにも重く、真正面から取り組まなくてはあまりにも軽くなってしまう問題。そこに唯一の答えなどなく、未来永劫でないかもしれません。ならばできるのは、問いの答えを出すことではなく、問いの解き方を残すこと。私は生と死についてこう考えると記すこと。その在り方について物語ること。たったの2巻という短い冊数の中で、不死のものは生をどう思うのか、定命のものは死をどう思うのかについて、一つの物語を描いています。
良い作品は、受け手に答えをもたらすのではありません。問いを突き付けるのです。
私はこう考えた。ではあなた(受け手)は?
問いを突き付けられた受け手は、問いに対して何らかの答えに辿りつこうと、解法を探します。他の人間の解法を参考にし、それがしっくりこなければ自分なりに調整し、私はこう思うと形にせずにはいられないのです。
少女終末旅行 コミック 全6巻
ほぼすべての人間が滅亡した世界で、ケッテンクラートに乗って旅するチトとユーリ。僅かに生きのこった人間に、滅んだ文明の残滓に、世界の最期を看取るものを通り過ぎながら、二人が最後に至るのは……
という、つくみず先生の終末ものです。遅まきながら、本作を本格的に読んだのは最終巻発売後だったのですが、いやはや結末まで猛然と読んでしまいましたね。どうしようもない世界を、どうしようもないままに、絶望を忘れずに描き切ったこの作品は、何度読んでも最終巻で心震わされずにはいられません。
ディストピアの果ての果て。もう手の施しようのない世界を、ただひたすらに進む二人。そこには目的があるようでないようで、言ってしまえばまだ生きてるから進むのです。人間だから進むのです。他に誰もいない世界でも、消え去る世界を惜しむことしかできなくても、ゴールに救いがあると信じていなくても、まだ生きてるから進む。人間だから進む。
そう、それは本当に進むだけの物語。前に進むだけの物語。続いてくのが未来じゃなくても、救いじゃなくても、前に進めるから進む。進めるところまで進む。
じゃあ、進み切ってしまったら? 旅のどん詰まりには何があるの? 終わることしかできない世界の果てには何があるの? 私たち以外に、何が。
残酷で、絶望的で、希望なんてなくて、救いなんてなくて。でも、隣には、あなたがいて。あなたがいなければ、前になんか進めなくて。
派手さなんて微塵もない、でもとてもかなしくうつくしい、世界の店じまいの物語です。
試し読みはこちらから。
kuragebunch.com
BLUE GIANT SUPREME (6) (ビッグコミックススペシャル)
テナーサックスプレイヤー・宮本大が、世界一のジャズプレイヤーを目指す物語。
とにかく演奏シーンが熱い作品。音が聴こえてくる、とは言いません。曲を知らないのにその音が聴こえるというのは、なにか違うと思うのです。けれど、熱が届いてきます。演奏前の緊張、上手く演奏できない焦りや不安、ギアが噛み合ってきたテンションの高ぶり、共演者とフィーリングが一致した瞬間の興奮。プレイヤーとして、あるいはオーディエンスとして、演奏がなされているその「場」の空気を体全体で味わうような表現は、今まで読んできた音楽をモチーフにした作品の中でも屈指のものであると断言できます。
私事ながら、私も大と同様テナーサックスを吹いており、この作品で描かれているような熱を、自分も共演者も聴衆も味わえるような演奏ができたらと思っています。
試し読みはこちらから。
bluegiant.jp
以上、俺マン2018のノミネート作品でした。
他の候補作品には、『金剛寺さんは面倒臭い』、『異世界おじさん』、『かぐや様は告らせたい』、『へうげもの』、『プリンセス・メゾン』、『僕の心のヤバいやつ』、『映画大好きポンポさん2』、『Dr.STONE』などがあります。
来年もまた、心震わせられる作品に出会えることを祈って、良いお年を。



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『Dr.STONE』と『人間の土地』科学と人間と責任についての話

次にくるマンガ大賞2018」第2位に輝き、2019年7月からのアニメ化も決定している『Dr.STONE』。
Dr.STONE 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
ある日、世界中の人間(とツバメ)が何らかの理由により石化し、およそ3700年の時を越えて復活した主人公の石神千空。人為は自然に還り、野生が蔓延っている世界で、高校生離れした科学知識と精神力を持つ彼は、他の人間を復活させつつ、かつての科学文明を再興させようと奮闘する、というのが主なストーリー。映画『オデッセイ』(原作『火星の人』)のような、サバイバルアクションでありSFでもある本作ですが、随所に登場する科学への姿勢や登場人物の描き方は、私には別の作品を思い起こさせました。それは、『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリのエッセイ集、『人間の土地』です。
人間の土地 (新潮文庫)
作家であり、同時に飛行士でもあったサン=テグジュペリは、航空輸送機のパイロットとしての自身の経験をもとにいくつかの作品を上梓しましたが、本作もその内の一つです。
この作品は、一言でいえば人間賛歌。彼の活躍した戦間期は、まだ飛行技術も通信技術も確立しきっておらず、新たな航空ルートを開拓することも、開拓されたそのルートを飛行することも、まったく安全なものではありませんでしたが、それゆえ彼は、飛行することに、飛行した先で巡り合う人びとに、飛行を可能にする人間の技術に、その技術を会得した技術者たちに、深い畏敬の念を抱かずにはいられませんでした。人間とは偉大で気高い存在である。そんな感情が溢れている本作は、『ジョジョの奇妙な冒険』に負けず劣らずの人間賛歌であると私は考えています。
で、そんな作品のどこが『Dr.STONE』と通じるのかと言えば、前述したように、科学とキャラクターの描き方。
たとえば科学について。
『人間の土地』は、こんな一節から始まります。

ぼくら人間について、大地が、万感の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というのは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものだ。もっとも障害物を征服するには、人間に、道具が必要だ。人間には、鉋が必要だったり、鋤が必要だったりする。農夫は、耕作しているあいだに、いつか少しずつ自然の秘密を探っている結果になるのだが、こうして引き出したものであればこそ、はじめてその真実その本然が、世界共通のものたりうるわけだ。
(p7)

石化から復活した千空がしていたことは、まさにこれです。
なぜ人間の石化という事態が起こったのか。どうして自分の石化が解けたのか。
この取り付く島もないような疑問にさえ、彼は持ち前の観察眼と科学知識によって、トライ&エラーを繰り返し、ついには石化を人為的に解く方法を見つけました。
石化という「障害物」に対し、科学知識という「道具」でもって対峙し、その「秘密」を探っていった結果、石化の解除方法を見つけ、「その真実その本然」を「世界共通のもの」(=偶然ではなく再現性のあるもの)としたのです。
また、地球上の全人類が石化した後で、ゴニョゴニョの理由で存在している生き残りの村に合流した千空。当然、科学知識は新石器時代レベルにまで退化しています。そんな生活では冬を越すだけで一苦労。寒さと食料不足は直接的に生命を脅かしてきますから、100人にも満たない村では毎年、いかにして冬の間に死者を出さないかが悩みの種となっています。
そこにやってきた千空は、滅びる前の科学知識を持っている男。既に数々の科学の成果物をもたらした彼は、冬のあいだに、マンパワーで負ける敵対勢力に対抗するため、携帯電話を作り出して情報戦を仕掛けようとしました。その携帯電話に必要なのがプラスチック(フェノール樹脂)で、そのプラスチックに必要なのが石炭のカス(と水酸化ナトリウムとホルマリン)。その石炭のカスを大量に作るために千空は、村の各戸に暖炉を設置し、結果として村民は、冬の間の寒さを凌げるようになったのです。また、各種薬品や電球をを作る過程で必要になったガラスは、瓶詰の容器としても活躍し、冬の間の食糧事情にも一役買いました。
『人間の土地』では、飛行機、つまりは人間が得た技術についてこう言っています。

単に物質上の財宝をのみ希求している者に、何一つ生活に値するものをつかみえないのは事実だが、機械はそれ自身がけっして目的ではない。飛行機も目的ではなく一個の道具なのだ。鋤のように、一個の道具なのだ。
(p60)

機械は、人間の技術は、それがどんなに高度なものであれ、それ自体が目的ではない。それは目的に達するための道具であり、人の生活の資するためのものなのだと。
このように、科学とは人間に資するものだと強く語られているのが『人間の土地』。では科学に資されている人間とは、いかなる存在なのでしょうか。
『人間の土地』には、こんな一節があります。場面は、飛行中の事故で雪のアンデス山中に不時着し、5日後に救出された、サン=テグジュペリの僚友・ギヨメが、山中を彷徨っていた時の苦難の思い出を語っているところです。

だがぼくは、自分に言い聞かせた。ぼくの妻がもし、ぼくがまだ生きているものだと思っているとしたら、必ず、ぼくが歩いていると信じているに相違ない。ぼくの僚友たちも、ぼくが歩いていると信じている。みんながぼくを信頼していてくれるのだ。それなのに歩いていなかったりしたら、ぼくは意気地なしだということになる。
(p52)

そしてこんな一節もあります。サン=テグジュペリ自身がサハラ砂漠に不時着し、同乗の機関士とともに、万分の一の可能性も無い助けを求めて、砂漠を歩くシーンです。

――ぼくが泣いているのは、自分のことやなんかじゃないよ……」
(略)
<自分のことやなんかじゃないよ……>そうだ、そうなのだ、耐えがたいのはじつはこれだ。待っていてくれる、あの数々の目が見えるたび、ぼくは火傷のような痛さを感じる。すぐさま起き上がってまっしぐらに前方へ走りだしたい衝動に駆られる。彼方で人々が助けてくれと叫んでいるのだ、人々が難破しかけているのだ!
(略)
我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!
(p162,163)

両方とも、自分が助けを待つ立場にも関わらず、自分を心配してくれる人たちのために、自分こそが動かなければいけないと信じています。自分こそが、心配してくれる人を安心させるための救援者だと、そう心を奮い立たせているのです。
この二つのエピソードを連鎖的に思いださせたのは、『Dr.STONE』の8巻、司たちに捕まったクロムが、千空たちが助けに来てくれていると知ったはいいものの、自分が閉じ込められている牢の前には罠が設置されていることも知ったシーンです。

ダメだ 罠だ千空 俺を助けに来てくれちゃ…
千空たちに知らせねえと 誰か……


ヤベー 何言ってんだ俺は
「俺を助けに来てくれ」る? 「誰か…」?
パパママ助けてのガキかよ
違うだろ
俺が助けるんだろが 千空たちをよ……!!
(8巻 p186)

あるいは、千空の父である百夜も、石化の異常に襲われた地球を宇宙から目にして、こう吼えました。

「戻ろう 地球に」
「オホー! なに言ってんの百夜まで! 言ったでしょ 70億人もいるんだからきっと誰かが助けに…」
「違げーよヤコフ 
俺達は 人類最後の6人だ
助けを待つ? 違げーだろ 俺たちが助けに行くんだよ 全人類 70億人を…!!」
(5巻 p186,187)

自分が助けに来てもらう立場にも関わらず、その救援者である千空らを助けようと考えるクロム。資源も情報も時間も無い状況で、貧弱な立場にいるはずの自分達こそが救援者だと表明した百夜。『人間の土地』のギヨメやサン=テグジュペリらと見事に重なります。
このような人間の態度について、サン=テグジュペリはこう書いています。

彼の真の美質はそれではない。彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。彼には、かしこ、生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対して責任があった。それに手伝うのが彼の義務だった。彼の職務の範囲内で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。
(略)
人間であるとは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係のないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ちえた勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。
(p57,58)

責任を感ずるものこそが人間であると、サン=テグジュペリは言いました。自分を助けに来てくれている千空や村の人間たちの安全に対して、それを自身の責任と感じているクロムは、まさしく人間なのです。
また、牢に入れられる前に、滝つぼの上で吊り下げられて、千空を裏切り他の村人ともども自分らの仲間にならないかと司に誘われたクロムは、迷いなく拒否し、動揺の一つも見せずに死を選びました(結果的に助けられましたが)。このシーンもまた、『人間の土地』の一節を思い出させます。

ぼくは死を軽んずることをたいしたことだとは思わない。その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根差していないかぎり、それは単に貧弱さの表れ、若気のいたりにしか過ぎない。
(p58)

やはりクロムは、科学の再興と、それに不可欠な存在である千空に対して、自身の責任を感じたために、粛々と死を受け入れたのでしょう。
責任という観点で見れば、過去から連綿と受け継がれてきた科学知識を絶やしてはいけないという責任を千空は感じているでしょうし、司は司で、「汚れた人類を浄化して 新世界を踏み出すために そのためなら俺は この手をどれだけ汚すことも厭わない…!」と、新たな世界の指導者としての責任を感じています。その方向性や種類は違えど、誰に頼まれたのでもなく自ら進んで、他者や世界に責任を感じていることは同じです。科学王国も司帝国も、そのトップの双肩には、自らしょい込んだ重い責任がのっているのです。


Dr.STONE』の巻末には、多くの書籍が参考文献として載っていますが、『人間の土地』も実質参考文献みたいなものでしょう。
『人間の土地』には上記引用の他、「愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ」や「完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる」などといった、人口に膾炙している名言も入っている、激しくお薦めの本です。たぶん、人生で一番多く読み返した本。年末年始の暇のお供に、ぜひ読んでたも。



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『映画大好きポンポさん』視線が円を描くキメシーンの話

2巻も最高だった『ポンポさん』。
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とはいえやっぱり1巻も最の高。綺麗に完結した一冊の中に起承転結をぎゅっととじこめており、作中のポンポさんの嗜好通り、「シーンとセリフをしっかり取捨選択して 出来る限り簡潔に 作品を通して伝えたいメッセージを表現」している作品と言えます。
映画大好きポンポさん (MFC ジーンピクシブシリーズ)
シーンやセリフを取捨選択する中で大事なのは、どこでどう盛り上げるかを明確に意識すること。取捨選択され数を減らされたシーンやセリフだからこそ、ばちっとキメる箇所を作ることで、凝縮された感動を生み出せます。
で、1巻の最高のキメシーンと言えば当然、見開きのカラーページ。ポンポさん自身に「このシーンを撮るためにここまでやってきた」と言わしめたこのシーンは、ストーリーの文脈やキャラクターの描写などによって、作中の映画にとっても漫画の読み手にとっても、盛り上がるべくして盛り上がる印象的なシーンになっています。
さてこのシーン、前述のように、印象的に仕上がっているの複合的な要因によるわけですが、その中でも絵としての構成面に着目してみましょう。
f:id:yamada10-07:20181028210020j:plain
(p132,133)
この見開きで特徴的なのは、主役となるキャラクターが右ページのみにいて、左ページには誰もないこと。ページをめくった読み手はまず、突然色のついたキャラクターが目に飛び込んでくることに度肝を抜かれるのです。
そしてこのシーンは、一見しただけではわかりづらいですが、風が上手から下手、右ページから左ページに向かって吹いています。それは、わずかにそよいでいるキャラクターのシャツの裾、前のページでは明確に描かれている髪の動きなどから察せられます。花びらが風に舞っていく向きもそれだけではわかりづらいですが、この微細な情報があることで右ページから左ページへ吹かれていくように認識できます。
つまり、読み手の視線はまずキャラクターに吸い込まれ、はっと息を呑んだ後に、風に飛ぶ花びらと一緒に、空間しかない左ページへと流れていくのです。
そこで終わりではありません。見開き下部には「ザアアアアアアァ……」という擬音が書かれています。これの向きは、日本語の横書きの記法に倣って左から右へ。つまり、上で挙げた視線の移動方向とは反対であり、絵を見ていく方向と文字を読んでいく方向でぶつかってしまいそうなものですが、このシーンの場合はさにあらず。なぜかといえば、文字が下部に書かれているから。
原則的に、一枚のページの中では右上から読み始める(第一のコマが右上にある)日本の漫画の都合上、このシーンで読み手の目にまず飛び込んでくるのはキャラクターの顔。絵の中でも特に情報量の大きい箇所です。それゆえ、人は下部の文字より先にキャラクターの絵、なかんずく顔→全身と視線がいき、そこから風の流れに乗って左ページへと進みます。仮にページを移る前に下の文字を目にしても、右ページに書かれているのは「アアアァ……」というそれだけでは実質的な意味のない文字列。左ページの「ザアアア」があってはじめて、この文字列は風が吹く擬音だとわかるものです。
というわけで、ほとんどの人の場合、まずキャラクターに目がいき、右から左へと視線が移るものと思います。絵を追って右から左へと進んだ視線は、今度は文字を追って左から右へとページを回帰します。文字を読み終えれば今度は、文字の最後に部分からのびるキャラクターの脚に沿って、またキャラクターの顔へ。こうして読み手の視線はこの見開きの中で大きく一回りするのです。
右上から左下へと一方向的に読み進められる日本の漫画の中で、二重の意味で作中でもっとも印象的となるこのシーンにおいて、大きく円を描く特異な視線誘導をほどこすというこの構成力。そりゃあ何度でも読み返したくなる魅力でいっぱいってなもんです。
このマックスで盛り上がるシーンから、ほんの10ページ程度で終わるのがまたいいですよね。そして最後ににやりとできるジーン君の一言。余韻醒めやらぬうちにすっきりとエンディングというのが、本当にエンターテインメント。
3は出るのかな。出たら蛇足かな。でも読みたいな……



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『銀河の死なない子供たちへ』マッキの問いと、星になったπの話

下巻の発売からしばらく経ってしまいましたが、『銀河の死なない子供たちへ』の話。
上巻発売時のレビューはこちら。
yamada10-07.hateblo.jp
銀河の死なない子供たちへ(下) (電撃コミックスNEXT)
不老不死の二人の姉弟とその母が暮らす、他に人間のいない地球。三人だけの世界。永遠の生を健やかに享受するπと対照的に、物憂げにその意味を探すマッキはこんな問いを常に抱いています。

…π 僕は長い間ずっと探しているんだ
"生きている人間"を
(中略)
まだ死んでいない人間に会って 直接聞いてみたいんだよ
いずれ死ぬことについて
死なないことについて

この作品はある面で、この問いに対する答えを探す旅でもありました。何万年も不死の三人だけで生きてきて、他の人間を一度も見てこなかった地球で、それでも人間に、死すべき存在にあって直接問うてみたい。いずれ死ぬことについて。死なないことについて。
本記事では、その問いを中心に改めて本作を読み直してみたいと思います。

第二の問い「死なないことについて」 それは別れの答え

前述のように、三人以外に誰も人間がいなくなってしまった地球。上巻の中盤までは、それでも続いている他の生命の営みと、そこから疎外された孤独が描かれていますが、途中で地球の外から闖入者がやってきました。かつて地球を離れた人間たちの子孫の一人である妊婦が、生まれる寸前の我が子をなんとか生かそうと、地球に帰還してきたのです。不時着の衝撃で妊婦は瀕死でしたが、πとマッキの手によって無事取り上げられた子はミラと名付けられ、二人によって育てられることになりました。
二人の母には内緒の、三人の疑似家族。こうしてマッキは、いつか問いを向けうる存在、有限のもの、いつか死ぬもの、すなわち人間と暮らすことになったのです。
結論を言ってしまえば、ミラが死ぬまで、マッキはずっと抱いていた問いを彼女に直接問うことをしませんでした。ですが、間接的、婉曲的には、この問いとそれに対する答えの短い問答を聞いています。それは、死ぬ寸前の孤独を独り噛みしめているミラの前に現れた、マッキら二人の母が、二人のため、就中πのために不死になれと自分の血を飲ませようとしたシーンです。

飲め そうすればあなたも不死になる 今の苦痛から解放される それに
πも喜ぶ …私は
そのためにここへ来たんだ

いわばこれは、「死なないことについて」の問いです。死ぬ寸前の状態で、現に身体を蝕んでいる致死の苦痛を消してあげる、でも代わりに不死になる。不死になること、すなわち死なないこと。お前はこれを選び取るのか。極限の二択を迫る問いに、ミラは一言で答えました。

嫌だ

誤解の生じる余地のない、単純な拒否。ミラは「死なないこと」を明確に否定したのです。

私は人間として生きて 人間として死ぬ

これは、拒否した後に続くミラの言葉です。彼女は「死なないこと」は「人間ではない」と言い切ったのです。人間であるためには、不老不死ではいけない。老いなくてはいけない。死ななければならない。つまりは、変化しなくてはいけない。人間のあらゆる変化の終着点が死であり、そこに辿り着くことができない変化の拒否、すなわち不老不死は、人間であることの拒否であると、死の寸前の彼女は断じました。
回答者のすぐ近くにいながらずっと聞くことのできなかったマッキの問いは、期せずして答えられたのです。

死なない二人 部外者の二人

ミラのこの言葉は、育ての親であるπやマッキを人間ではないと断じることと同義ですが、それについてはπらも自覚的でした。上巻の前半で、まだ地球上にいるかもしれない人間を探す旅の途中、二人が語る人間は、常に客体、第三者としての存在でした。

人間はあんなにたくさんのことを考えたり書いたり物を作ったり壊したりしていた…

一緒に探す! マッキと一緒に人間探す!!

マッキ 人間ってどうやって探すの?

二人が「人間」と口にするとき、それはたとえば私たちが「ネコ」や「車」、「メタセコイヤ」などと口にするときと同じように、自分をその中に含まない、客体の概念として扱っていました。不老不死であり、獣に食われてもいつの間にか再生している自分達は「人間」と呼べる存在ではないと、二人は当たり前のように考えていたのです。
そして二人は同時に、人間ならずとも、老いて、子をなして、死んで、生の営みを繰り返していく生命たちを、美しいもの、世界に組み込まれているものとして憧れていました。

そーいえばママが言ってた
生き物は死んだら星になるって だから…
星空は死で埋めつくされてるんだよ きっとももちゃんも…
どの星だと思う?
あのピンクの星だったらいいな
美しくて
とても手が届かないや

「でもみんな交尾して赤ちゃん作って 楽しそーだなー」
「いのちをつないでいく場所なんだ この世界は
僕たちは所詮 この世界とは無関係な部外者んだよ」
(中略)
「む むかんけーなぶがいしゃなんて…ヤダ 
み みんなと一緒がいい」

死ぬこと。変わること。それは二人にとって手の届かないものであり、それゆえ二人は世界の部外者だったのです。

第一の問い「いずれ死ぬことについて」 星と人と

しかし物語の最終盤で、二人が死ぬ方法がわかりました。実は二人は母の実子でなく、母の血液によって不死の呪いを与えられた、元は人間だったものたちだというのです。なので、母から物理的に離れればその呪いは消える。地球から出ていくほどに離れられれば。
ミラから遺された情報端末を元に、マッキは地球のあらゆるところを探し、まだ使えるロケットを見つけ出して、使用に耐えうる状態にまで修復しました。地球から出る、すなわち不死の呪いから抜け出て、人間に戻る準備ができたのです。
自分が人間に戻れることを知ったπは言います。

ミラちゃんが言ってた 海の向こうに行ってみたかったって
πも行きたい 星の海の向こうへ…
だから 人間になる!!!

かつて「美しくて とても手が届かない」と言っていた星の世界。そこは、死せる人間だけが行ける世界。πはそこへ行くと強く表明したのです。
地球からの脱出前夜、πとマッキは焚火を前にして、未知の世界について話をします。

「宇宙に行ったら π達も成長して死ぬ身体になるんだよね
死んじゃうのかー」
「…π 今どんな気持ち?」
「すっごくドキドキする!」

このときマッキが発した問いは、まさに彼が永年抱いていた問いの、残された一つでした。死ぬことができるようになる直前の、人間になる直前の、まだ死んでない人間=πへ聞いた、「いずれ死ぬこと」についての気持ち。その答えが、「すっごくドキドキする!」でした。
はたしてこれは、どういう意味なのか。
かつて病床にあったミラは、πにこう言いました。

ちっちゃい頃は自分も永遠に死なないって思ってた
もしかしたらかつてこの星にいた子供たちもみんな思ってたのかもしれない
幼いってそういうものだから
いつか死ぬってわかった時 私は人間になったんだ
そんな気がする

幼いものは、自分が永遠に死なないと思っている。しかし、自分は死ぬのだとわかったとき、人は人間になる。つまり、幼さを捨てたとき、人は人間になるのだと言えます。
人は幼さを捨てると何になるのか。大人の階に手をかけるのです。永遠の子供だったπは、自分が死ねるようになる、人間になると知りました。それは、自分が変化できる、大人になれると知るのと同義です。
彼女の「ドキドキ」は、死ぬことへの恐怖ではありません。自分が大人になれることへの興奮なのです。
ロケットの出発直前、母のために自分は地球へ残ると明かしたマッキは、πへこんな餞の言葉を送りました。

宇宙は広いけど
大丈夫だよ
πはいつだって
星を見ていたんだから

そう。昔からπは人間に憧れていたのでした。美しくてとても手が届かないと言いながら、πはいつも星に、まだ見ぬ人間に目を向けていたのです。
一人光芒の流れる星の世界へπが突き進んでいった最後のシーンは、彼女が人間へと変わっていく、実に象徴的なラストだと言えるでしょう。

残された二人 永遠の命と永遠の親子

マッキが永年抱いていた問いの答えは、ミラとπによってもたらされました。
その彼はなぜ地球に残ることを選んだのでしょうか。
彼は変化することを、大人になることを、人間になることを拒否しました。永遠の死なない子供であることを選んだのです。それは同時に、永遠に母の子であることを選んだという意味でもあります。
永遠の母と永遠の子。それは、永遠に変化の訪れない、不自然で歪な親子関係。変化するミラとの家族関係を知ってしまったマッキにとって、それはいっそう意識されたはずです。
でも、どんなに不自然でも、どんなに歪でも、それは永遠のひとりぼっちよりはマシ。おそらくマッキはそう考えたのでしょう。

永遠の時間を持っていても 大切なものを失う準備なんてできないって
それを知っているだけだ

これは、ミラの死病に気づいた時の、πとマッキ自身に向けたセリフですが、これはそっくりそのまま母にも当てはまります。歪とはいえ家族として過ごした永遠にも近いような時間。自分自身もミラを失い、大切なものをなくした痛みがいかほどなのか、それを知ってしまったのでしょう。

あなた達三人はここで幸福な時間をひたすら積み上げている
積み上げれば積み上げる程 私には崩せなくなる
突き崩すのはあなた わかってるの?
あなたは成長し やがて勝手に死んでいく
ふたりを… πとマッキを永遠に置き去りにして ありったけの幸福を持ち逃げするの
これが正しい命のあり方だと見せつけるように
そしてその通りだから だから憎いの
与えて奪うのは 何も与えないよりずっと残酷

これは、母がミラに向けて放った言葉です。そして、この言葉をマッキは聞いていないはずです。でもマッキは、一人で同じ結論に至ってしまった。自分とπが母を残して地球を去れば、母は「ありったけの幸福を持ち逃げ」され、一人取り残される。母が自分で自分に与えた仮初めの家族と、自分で教えてしまったそれを奪える方法。言わなければ、二人は気づかなかったのに。自分で積み上げ、自分で突き崩す、幸福な時間。永遠の置き去り。そんな結論に至ってしまった。
その結論から、残留の決心まで、マッキにどれほどの葛藤があったかはわかりません。ですが終局的に彼は、母との無限の円環に閉じられることを選びました。何万年何億年、地球が太陽に呑みこまれるその時に彼らがどうなっているのか、呑みこまれたその後に彼らがどうなるのか、永遠ならぬ余人に知る術はありませんが。

物語は終わって されど永遠に続いて

物語の序盤にマッキが抱いていた問いは、明確にそれとは知られぬ間に、登場人物たちの口から答えられていました。
実のところ、マッキ自身は、その問いに答えがあったらどうこうということを一言も言っていませんでした。ただ彼は知りたかった。聞いてみたかった。それはただの好奇心に過ぎなかったのか。
いつだって星を見ていたπと違い、マッキはいつも俯いていました。それはまるで、己の裡を覗き込んでいるかのように。手の届かない人間に憧れていたπのような願望は、マッキにはなかったのかもしれません。森羅万象への問いと、それへの答え。あるいは、答えを求める過程。あとは、寂しい時にそばにいてくれる母。それがあればよかった。のかも。
人間を選んだπの命はいつか必ず尽きますが、不死を、母を選んだマッキの生は永遠に続きます。それは物語が終わっても。πが星になっても。ひょっとしたらその時だけは、マッキも空を見上げて、手の届かない星の美しさに何かを思うのかもしれません。



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