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漫画の話です。

『HUNTER×HUNTER』「道草」の楽しさと、「会いたい」と「見つける事」の違いの話

前回書いたハンタについての記事で、ネテロの遺志とそれを受け継ぐパリストン、二人の共通点と相違点を考えました。
yamada10-07.hateblo.jp
今回の記事では、前回の最後に触れた、二人と同じく「楽しさ」を行動理念に据えているジンについてと、それを考える中でピンと来た、ゴンの

上手く言えないけど…オレ… ジンに会いたいって思ってたんじゃなくって ジンを見つける事が目的だったんだって… 会ってみて気づいたって言うか

という言葉の意味を考えてみたいと思います。

ネテロ、パリストンとジンの「楽しさ」の違い

まずは、ジンの「楽しさ」についての考え方を、ネテロやパリストンと比較する形でまとめてみます。
前回の記事で、二人については

ネテロは、プロセスが楽しければゴールの結果にこだわらず、パリストンは、プロセスを楽しむためならゴールに辿りつかなくてもいい、と言えるでしょうか。
両者の違いは二点。まずは楽しさについて、ネテロはそれを結果とし、パリストンは目的としていること。そしてゴールについて、ネテロはそれを必要とし、パリストンは不要と考えていること。

と端的にまとめました。
この表現に沿って表すなら、ゴールを設定することでプロセスを楽しむのがジン、と言えるでしょうか。それを彼の言葉で言えば、「道草を楽しめ」です。

「道草」とはなにか

息子であるゴンへのはなむけともいえるその言葉は、自分自身の生涯を振り返って出てきたものです。ゴンに語った、自分がハンターを志すきっかけとなった王墓の話は、まさに「道草を楽し」んだ具体例でした。
当時のジンが望んでいたのは、ある王族の埋葬施設(とされる場所)へ行くことでした。ハンターになることはそのための手段の一つであり、それ以外の条件をクリアするために同好の士を募り、数年をかけて無事王墓へ足を踏み入れることができました。ですが、その時のジンにとって一番嬉しかったのは「ずっと願ってた王墓の「真実」を目の当たりにした事じゃなく いっしょに中へ入った連中そいつらと顔を見合わせて握手した瞬間だった」のです。
それをまとめてジンは、「大切なものは ほしいものより先に来た」と言いました。もちろんジンは王墓へ入ることを望んでいたし、そもそもそれがスタートだったのですが、その中途で生まれた仲間こそが、たどりついたゴールそのものよりも大切なものだった。それを、ゴールにたどりついてから初めて気づいた。「ほしいもの」を手に入れて初めて、それより前に「大切なもの」が来ていたことがわかったのです。
ここでの「ほしいもの」とは、この思い出話をするきっかけとなった、ゴンの「ジンがほしいものって何?」という質問が踏まえられています。そしてその質問については、ジンは「今目の前にないもの だな」と答えています。
またジンは、「オレはいつも現在いまオレが必要としてるものを追ってる 実はその先にある「本当にほしいもの」なんてどうでもいいくらいにな」とも言っています。

ほしいもの/大切なもの・必要なもの

ここでジンの行動をチャートにしてみると
1,「今目の前にないもの」をほしがる

2,「本当にほしいもの」へ辿りつくために「必要としてるものを追」う

3,「大切なもの」が(ほしいものより先に)来る

4,「本当にほしいもの」を得る
となります。
つまりジンは、(what I) wantと(what is) important、wantとneedを明確に使い分けています。ほしいもの/大切なもの、ほしいもの/必要とするものという二項は、別物としてはっきり区別され、そして「大切なもの」と「必要とするもの」は、イコールで結ばれうるのです。
「道草」とは一般に、回り道や目的から逸れたことのような、ネガティブさをともなったニュアンスで解されますが、ジンの場合は、そうではありません。すなわち、目的に到達するためには、それに応じた様々な手順を踏む必要がありますが、それらは、自分の思うままに目的地まで真っ直ぐいけない以上、広義の回り道、道草には違いありません。でも、それを惜しむな、面倒くさがるな、むしろ楽しめ、というのがジンの考えです。
臆断の域にも踏み込んでしまいますが、ジンはおそらく、自分が「本当にほしいもの」へ本気で辿りつこうとすれば、それに同調する本気の仲間、同士が得られると考えているのではないでしょうか。この王墓発掘の話もそうですし、G.I.のエピソードも、レイザーの回想から彼がジンを強く信頼していることが見て取れます。そしておそらく、ジンからレイザーの信頼もまた同様なのでしょう。暗黒大陸編だって、当初は敵対していたビヨンドの仲間らとも、彼らが本気で暗黒大陸を目指していることを理解してからは、ジンは彼らに胸襟を開き、彼らもまたジンと積極的にかかわろうとしています。

後から振り返って気づく「大切なもの」

ジン自身の言葉で「大切なものは ほしいものより先に『来た』」、「ほしいものより大切なものが きっとそっちに『ころがってる』と表現しているのは示唆的です。なぜって、「来た」や「ころがってる」という表現は、ジン自身が能動的に得た、というニュアンスではないからです。
自分自身が「ほしいもの」を追い求めている途上で、「大切なもの」に予期せぬ形で出会った、というのがこれの意味するところでしょう。予期していなかったからこそ、それが後から振り返って、実は「大切なもの」だったのだとわかるのです。というよりは、途中でたまたま出会った者達と最後まで道を同じくできたからこそ、そこに価値を見いだせた。つまり「ほしいもの」を得たという一つの区切り、ゴールがあったから、道中で出会った者達の価値が確定した、と言えるのかもしれません。
ですから、上のチャートには
4,「本当にほしいもの」を得る

5,「大切なもの」が来ていたことに気づく
と5を入れるのが正解なのでしょう。
とまれ、ジンの考えでは道草を楽しむべきなのです。道草を楽しむから、手間を惜しまず、手間と思わずやるべきことをやるから、途中で来たものが、ころがっていたものが、あとから「大切なもの」だったと思えるようになるのですから。

ゴンの言う「会いたい」と「見つける事」の違い

さて、ここまでジンの「楽しさ」についてまとめたところで、ゴンの話にいきましょう。
冒頭でも引用した、33巻No.345「署名」でのゴンのセリフですが、これを読んでからつい最近まで、何を言っているかいまいちつかめませんでした。「ジンに会いたい」と「ジンを見つける事が目的」って、いったいなにが違うんだと。
でも、このジンの言う「道草」という考え方を踏まえると見えてきたものがあり、そしてその結果、やはりカエルの子はカエルなのだなと思わずにはいられませんでした。
まず端的に違いを言えば、「会いたい」とはジンという人間それ自体がゴールであり、そのプロセスは考慮されていません。それに対して「見つける事が目的」とは、その字義通り、「見つける事」という行為それ総体、すなわちジンというゴールにたどり着くプロセスを味わうこともひっくるめてが目的だと考えます。
これはその後の、

オレ 「親だからずっといっしょにいたい」とは考えなかっただろうけど
もしも念が使える状態で ジンの強さや凄さを肌で感じてたら「ついて行きたい」って思ったと思う
(33巻 p91)

もあわせて考えることで、より深められます。
「親だからずっと一緒にいたい」とは、親=ジンと一緒にいることが目的であり、一緒にいればそれだけで常に目的はクリアし続けられます。ですから、一緒にいる間中何が起ころうが、それが面白かろうがつまらなかろうが、ジンと一緒にいるだけですべてオールオッケーとなります。それはジンの言葉を少し借りれば、「今目の前に」あるものしか求めていない、ということであり、「今目の前にないもの」をほしがるジンとは正反対のあり方です。
それに対して「ついて行きたい」とは、ジンの行く道を自分も一緒に歩いてみたい、ということです。つまり、ジンと一緒にいることではなく、ジンが味わうであろう経験も自分も味わいたい、ジンが楽しむであろうことを自分も楽しみたいということです。
わざわざ「念が使える状態で ジンの強さや凄さを肌で感じていたら」と断りを入れているのがその証左と言えます。この断りは、ジンが体験することを自身も同様に体験するためには、相応の能力が必要ということを理解していたから出てきたものでしょう。念を使えない今のゴンでは、ジンと一緒にいたところでジンと肩を並べられない。お荷物、足手まといにしかならない。ジンが楽しむことをジンのように楽しめない。道草を、楽しめない。
ゴンが「ジンを見つける事が目的だったんだって… 会ってみて気づいた」のも、上で書いたジンの、「後から振り返って、実は「大切なもの」だったのだとわかる」というものと見事なほどに軌を一にしています。ジンを見つけるというゴールに辿り着いたから、ゴンもそこまでの道程を振り返ることができました。そして、ジンという「ほしいもの」より先に、キルアやクラピカ、レオリオといった「大切なもの」が来ていたことがわかったのです。
まさにカエルの子はカエル。誰に教わるでもなく、ゴンはジンと同様の行動理念に至っていたのです。

むすび

ということで、ジンの考える「道草」の楽しみ方と、それと重なるゴンの思いの話でした。かれこれ3年以上引っかかっていたゴンの微妙な言い回しが解きほぐせて、魚の小骨がとれたようなスッキリした気分です。
本誌ではクラピカが主役になって絶賛連載中ですが、果たして今後ゴンが登場する機会はあるのか!?



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『HUNTER×HUNTER』ネテロの遺志とゲームを楽しむための土俵の話

先日発売された、『HUNTER×HUNTER』35巻。
この密度の作品が年に2冊刊行なら何も文句はないのですがそれはともかく、濃い内容のせいで既刊を読み返さなきゃ継承戦がどんなもんだかすっかり思いだせないでいたので、会長選挙編あたりから再読していたのですが、その中で、寄り道ながら選挙戦の最中にジンの言った「前会長の遺志」について考えたのでその記事です。
HUNTER×HUNTER モノクロ版 35 (ジャンプコミックスDIGITAL)
ネテロの遺志、そしてそれを継いでるとされるパリストンの意志の共通点と相違点については、既に何年も前に面白い記事が別の方の手によって書かれております。
blog.livedoor.jp
それを踏まえつつ、二人の意(遺)志の共通点と相違点を考えてみたいと思います。

「楽しさ」を求めるやつら

さて、上記リンク先の記事で、ネテロとパリストンについて「両者は、同じく善悪・利害より「楽しさ」を優先してしまう素質があ」ると書かれています。優先「してしまう」という表現まではともかく、「楽しさ」が自身の行動に際する基準にあることは同意します。
二人(とジン)が、「楽しさ」を好むことは、他者からの評価という形で随所に現れています。

まるで邪魔や障害を楽しんでいる節さえある…
そんなとこだけネテロ会長に似てる…
(31巻 p62)

アイツ(引用者註:パリストン)はただ楽しみたいんだ
オレ(引用者註:ジン)や会長ネテロといっしょだよ …ま オレは飽きっぽいけどな
(32巻 p117)

面白いと思ったら何でもする人(引用者註:ネテロ)さ
(中略)
前会長が息子ビヨンドに与えた制約にしても むしろ息子ビヨンドが自分の命を狙ってくる事まで期待していたのではとすら思える
(中略)
元会長はクレイジーだ 洒落にならない難題を 自分にも他人にも笑ってふっかける
まあ… そこが魅力だったわけだが
(33巻 p113

このように、ネテロやパリストン(とジン)が、楽しさ、面白さを求めて行動していると他人から評価されていることがよくわかります。それをしてジンに、選挙の終盤で、「今残ってる4人(引用者註:パリストン、レオリオ、チードル、ミザイストム)で前会長ネテロの遺志を継いでるのは パリストンだけだ」と言わしめるのです。
これは、ジンとパリストン以外の十二支んらが、選挙を終えた後も、既に故人となった前会長ネテロの意向を忖度する形でハンター協会の方向性を考えていること(33巻での、ネウロが遺した2枚目のDVDを確認した直後の言い争いが象徴的です)と、自分だけがさんざっぱら楽しんだ選挙をネテロの手向けに、さっさと十二支んを辞めたパリストンという、非常に対照的な姿で現れています。付言すれば、ジンも同じタイミングで十二支んを脱退していますね。サン=テグジュペリの言葉を借りれば、十二支んはネテロばかりを見つめ、パリストンやジンはネテロと同じ方向を見ていた、というところでしょう。十二支んは楽しんでいるネテロが好きで、パリストンやジンはネテロと同じく楽しむことが好きだったのです。

「楽しさ」を求める奴らの違い

では、その共通点を確認した上で、ネテロとパリストン(とジン)の意(遺)志、すなわち楽しむことを追い求める姿勢は、どのように異なるのでしょうか。
上記引用ブログではその点を、『HUNTER×HUNTER』世界において、「ゲームを楽しむ」ことが重要なテーマになっていることを前提に、「パリストンはゲームを楽しむがそれを共有しようとしないソロプレイヤーであって、ネテロはゲームを楽しむがそれを共有できる相手がいないソロプレイヤーとの違いがあります」と表現しています。
私なりに両者を端的に表すなら、ネテロは、プロセスが楽しければゴールの結果にこだわらず、パリストンは、プロセスを楽しむためならゴールに辿りつかなくてもいい、と言えるでしょうか。
両者の違いは二点。まずは楽しさについて、ネテロはそれを結果とし、パリストンは目的としていること。そしてゴールについて、ネテロはそれを必要とし、パリストンは不要と考えていること。

ゲームを「楽しむ」ためには何が必要かーネテロの場合

一人ずつ説明していきましょう。
ネテロが楽しさを求める時、そこには結果が明確に出されることを望んでいる節があります。象徴的なのは、かつてネテロが暗黒大陸へ行った際の思い出を語った言葉です。

ワシの求める「強さ」には相手が必要だった 言うなれば 勝ち負けのある個としての「強さ」じゃな
だが新世界にあるのは 個人の勝ちなど存在しない 厳しい自然との格闘のみじゃった
(33巻 p16)

「勝ち負けのある個としての「強さ」」を求めていたということは、そこには結果、別の言い方をすれば競う相手が必要だったと言えます。新世界で待ち受けていた「厳しい自然」と、それに対峙するネテロは対等ではありません。つまり、勝負ではありません。どちらが勝つか、ではなく、ネテロが勝つか負けるか(=生きるか死ぬか)であり、自然の側には勝ちも負けも無いのです。
ネテロはあくまで、相手のある、個としての勝負にこだわった。お互いが同じ土俵に乗っていないことには楽しめなかった。
だから、強くなりすぎてしまったことに退屈していた。倦んでいた。

一体 いつからだ
敗けた相手が頭を下げながら 差し出してくる両の手に
間を置かず 応えられるようになったのは?
そんなんじゃ ねェだろ!!
オレが求めた武の極みは
敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む事!!
(28巻 p15~19)

相手を必要とする「強さ」を求めていたネテロにとって大事なこと、つまり楽しいことは、「全霊を以て臨む事」。おそらく彼にとって、臨んだ結果の勝ち負けはあまり重要ではありません。もちろん勝つに越したことはないでしょう。勝った方が、より楽しい。でも、負けたからといって楽しくなかったかというと、決してそうではない。負けて悔しいから、次は勝つぞと意気込める。負けた経験があるから、勝つことがとても嬉しくなる。
たとえば子供相手にルールを教えながらするゲームや、相手を勝たせるためにする接待ゲームは、少なくともそのゲームをすることそのものに楽しさはありません。それは、プレイヤーが同じ土俵に立っていないからです。
同じ土俵に立つとは、同じ目的でゲームに参加するということです。ゲームの目的が勝敗を決することではなく、ルールを教えるとか、相手をいい気持ちにさせるとかの、いうなればゲームそのものに対して不純なものでは、勝っても負けてもそこには不純なものが混じります。

同じ土俵に立つことの重要性

ネテロの経験した「敗けた相手が頭を下げながら差し出してくる両の手に 間を置かず応え」るという状況は、その両者が同じ土俵に立っていないことをまざまざと表しています。敗けた相手に悔しさはなく、勝ったネテロに嬉しさはない。おそらくそこには、「敗けてもともと」という相手の諦念と、「勝って当然」というネテロの倦怠があり、前者は後者によって見下ろされているのです。両者は同じ土俵にいない。
勝ち負けというゴールがあるからこそ、その勝負、すなわちゲームに意味が生まれます。ゲームがゲームとして成立するのです。
ネテロは、誰かと同じ土俵でゲームを行い、最終的にゴールに到達する、という一つの流れをクリアすることで、結果として楽しさを覚えているのだと言えるでしょう。目的はゲームのゴールに辿り着くことで、楽しさは結果としてやってくるのです。楽しさを求めるためにゲームを終らせる、と言ってもいいでしょうか。

余談。ネテロの最後の闘いについて

ところで、ネテロがメルエムと闘った際、「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨」んでいた彼は確かに楽しくあったでしょうが、しかし心の底では、100%楽しめなかったと思うのです。なぜって、彼の身体にはミニチュア・ローズが埋め込まれていたから。
蟻に対して負けることを許されていなかったネテロは、たとえ王に敗れ死んだとしても、王を道連れにできるよう、心臓が止まったら作動する爆弾を自らの身体に仕掛けていました。つまりそれは、メルエムと同じ土俵に立てていなかったということ。ネテロの至上目的は、あくまでメルエムを滅することであり、純粋に闘うことではありませんでした。その意味で、ネテロのゲームは不純だったのです。
もっともそれを言うなら、メルエム自身も闘うために闘ったわけではなく、人間代表のネテロと言葉を交わすために、その前段として闘ったまでのこと。闘うために闘うという、ネテロの望む純粋なゲームには程遠いものだったのです。「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む」こと自体は楽しくとも、ゲーム自体は、到底100%楽しめるような代物ではなかった。
自らの指で心臓を貫く直前にネテロが浮かべた邪悪な笑みには、折角のゲームを汚してしまった自身に対する深い嘲りの感情も込められていたことでしょう。初めから負けることのない、初めから相手が「詰んでいた」ゲームなんて、その途中がどれだけ面白いものであれ、ゲームに対する冒涜以外の何ものでもないのですから。

「楽しさ」はゲームのどこにあるのかーパリストンの場合

翻って、パリストンはどうでしょう。
彼について、ジンはこういいます。

アイツ(引用者註:パリストン)は勝つ気も負ける気も無い
(中略)
アイツはただ楽しみたいんだ
オレや会長ネテロといっしょだよ …ま オレは飽きっぽいけどな
(32巻 p117)

ここにすべてが集約されているのですが、パリストンは「勝つ気も負ける気も無い」のです。つまり、ゲームを終わらせる気がない。ゲームが終わらなくても、遊んでいる最中が楽しければそれでいい。楽しみたいがためにゲームをしている。楽しむことが目的であり、ゲームはその手段でしかない。ゲームが続けば続くほど楽しみも続くのであれば、勝ち負けを決める気なんてさらさらない。
それは選挙の途中でチードルも理解し、

勝ち負けなんて眼中にないから 損得勘定抜きで無機質かつ冷静に…
他者の感情を操りルールを利用して 私たちが最も嫌がる事を選択出来るのだ!!
(32巻 p74,75)

と、パリストンを評価するのです。
このときゲームを楽しんでいるのは、パリストンだけです。他の人間は基本的に、勝つことを目的としてゲームに参加しています。ゲームと表現するのが不謹慎だとしても、参加したものを縛るルールがあり、勝敗が決まるゴールがあるなら、それはゲームと表現して差し支えありません。実際、チードルは、ジンが選挙を「票取りゲーム」と表現したことに不快感を示しますが、選挙には十二支んで決めたルールがあり、会長をきめるというゴールがあります。ゆえに、ゲームです。

「楽しさ」の土俵に立つのは誰なのか

ルールがあり、ゴールがある以上、そこには最善手があります。唯一ではなくとも、「こうすべきだ」と考えられる作戦が存在します。そしてその作戦は当然、ゴールに到達するためのもの(選挙なら、会長になるためのもの)。ルールが明確であればあるほど、とりうる作戦も明確になります。だから、チードルの手の内は「読まれ易い」。手の内を読んだうえでパリストンは、チードルの作戦を邪魔します。
厄介なのは、パリストンの目的がゴールすることではないこと。チードルとは違う思惑で、ゲームに参加しているのです。パリストンにしてみれば、ゲームで楽しめればいい。勝とうが負けようが関係ない。勝ちも負けもないままゲームが楽しいまま続くのであれば、それこそがベスト。ゲームが終わらないために=相手がゴールしないために、ルールの内でなんでもします。
原則的にルールとは、ゴールへ到達するために何をすべきか、何をしてはいけないかを決めているものです。ゴールを目的としていない者を想定したルールなど、普通はないのです。だから、チードルと噛み合わない。チードルが空回りしてしまう。目的が違うのだから、同じ土俵にいない。
ただ、同じ土俵にいるかいないかは、正確には、チードルの目からはそう見える、と言うべきでしょう。ゴールを目指すチードルにとっては、同じゴールを目指してはいないパリストンは、当然違う土俵ですが、パリストンにしてみれば、チードルも含めたゲームの参加者全てを巻きこんで、自分が楽しむことを目的としているのだから、他の参加者がゴールを目指そうがなんだろうが、ゲームに参加してさえいれば彼の土俵にいるのです。自分が「楽しむ」という彼だけの土俵に。

パリストンの「楽しさ」の根っこにあるもの

では、パリストンがゴールを目指さずに他人を邪魔して、いったい何を楽しんでいるのか。実はそれは「楽しさ」は他者に嫌がらせをすることそのもの、すなわち他者の嫌がる姿を見ることから生まれているのですが、彼自身その図式をよく自覚しています。

人は普通愛されたり愛したりすると 幸せを感じるらしいですね
僕は人に憎まれると幸せを感じ 愛しいものは無性に傷つけたくなるんです
(33巻 p52)

だから彼は、自らが幸せになるために、楽しむために、ネテロの嫌がることをしていたのでした。

……ボクはね 会長になりたくて副会長を引き受けたんじゃない
会長のジャマがしたかっただけ… ネテロさんはね ボクが面白い茶々を入れると本当に嬉しそうに困ってた……
もっと会長と 遊びたかったなァ
(32巻 p104)

そしてネテロ自身、パリストンの茶々を楽しんでいたのですから、ある意味で二人は非常にいいコンビだったのでしょう。

ワシが最も苦手なタイプ ワシが隣に置いときたいのはそんな奴じゃよ
(31巻 p15)

ここには、困難に対処することに楽しさを見いだしているネテロの姿があり、それは「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む事」と通じるものがあります。思い通りにいかないから楽しい。他人の意思とぶつかりあうから楽しい。
いうなればネテロとパリストンは、あるゲームにおいて、ゴールに向かうプレイヤーとそれを邪魔するプレイヤー、という形で参加していたのです。同じゴールにどちらが先に着くかというゲームではなく、たとえば野球のバッターとピッチャーのような、目指すものは違くとも(バッター側の目的は得点すること、ピッチャー側の目的は失点しないこと)一つのルールの中で同じ土俵に立っているゲームで楽しんでいたのでしょう。

まとめ 彼らの土俵には誰がいるのか/誰をのせているのか

改めてまとめれば、ネテロもパリストンも、「楽しさ」を自身の行動原理に据えているという点で共通しています。ですが、ネテロはルールのあるゲームで同じゴールを目指す、すなわち同じ土俵で勝負することの結果として生まれる「楽しさ」を求めますが、パリストンは、誰かの嫌がる姿を見ることが「楽しく」、そのために、ゲームでゴールを目指す他のプレイヤーの邪魔をし、その姿を延々見るべく、自身はゴールを目指さず、それどころか自身も含めて誰もゴールに到達しないように行動するのです。そのとき、他のプレイヤーからしてみればパリストンは同じ土俵にいませんが、パリストンとしてみれば、すべてのプレイヤーは彼自身が楽しむために彼の土俵の中にいるものなのです。
トランプでたとえれば、ネテロはポーカーなどの対戦ゲームで誰かと勝負するのですが、パリストンは他者はカードとしてソリティアなどの一人で楽しむゲームをしている、と言えるでしょうか。
態度は違えど「楽しむ」ことへの情熱を燃やす二人を考えれば、クソ真面目にネテロのやってきたことを踏襲しようとしている他の十二支んではなく、たしかにパリストン(あるいはジン)こそがネテロの遺志を継ぐ者なのでしょう。

予告

まとめ以外でもちょこちょこと触れていたように、ジンもまた「楽しさ」を行動理念に据えるものとしてネテロの遺志を継ぐものなのですが、すでに7000字にも迫ろうという馬鹿げた文字数になってしまったので、ジンおよびその息子であるゴンについては後日別稿ということでご勘弁願いたい所存。
ジンと別れクジラ島に戻ったゴンが言った

上手く言えないけど…オレ… ジンに会いたいって思ってたんじゃなくって
ジンを見つける事が目的だったんだって… 会ってみて気付いたって言うか
(33巻 p90)

という言葉が長いことよくわからなったのですが、本記事を構想している最中、ジンのことを考えていたらはっと閃くものがあったので、それについて書きたいと思います。



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『ショート・ピース』監督の「想像の域を出」る魅力と、「本音」の肯定の話

前回の記事でレビューした『ショート・ピース』。
世界よ、この素晴らしき人間たちに喝采を 『ショート・ピース』の話 - ポンコツ山田.com
そこでの置き土産で、人が根っこのところで抱えている感情の肯定と、主人公キヨハルの「映画が俺の、想像の域を出ない」という言葉についての関連性についての話を残していました。今回はそれを掘り下げた話。
ショート・ピース(1) (ビッグコミックス)
さて、上でも挙げた「映画が俺の、想像の域を出ない」というキヨハルの言葉。この言葉は妙に私の心に刺さったのですが、これは第5話にて、写真家の父を持つ男子高校生にカメラを持たせて撮影をさせた後に出たセリフです。
その高校生・服部要は、著名な写真家である父を持っていますが、父は家庭を顧みることなく仕事仕事&仕事、妻や息子(すなわち要)が病気であろうと入院しようとかまわず仕事に出かけてしまう仕事一筋の人間で、それ以外の姿を見せぬまま客死し、そんな彼の背中しか見られないで育った要は父を憎み、将来人と変わらない仕事をしようと心に決めました。
けれど、たまたま林間学校で撮った写真をキヨハルに見られ、お前にはカメラの才能があると、強引に撮影に誘われました。写真家であった父を憎んでいる要のこと、当然勧誘を拒絶しますが、無理やり渡されたキヨハルの過去作品を見て心揺さぶられ、自分に才能があるといったキヨハルの真意を知りたく思い、撮影に参加することにしたのです。
撮影当初は、たった数枚の写真の出来がたまたま良かっただけなんじゃないかと、要の腕に半信半疑だった映研部員も、実際に彼の手によって撮られた作品のカメラワークに驚嘆し、誉めそやしますが、要を誘った当のキヨハルはなぜか気の抜けた顔。撮影中止をつまらなそうに宣言し、そそくさと帰り支度です。こうなったら聞かない彼の性格を知っている部員たちは、諦めて素直に撤収作業を始めますが、要だけは理解できません。「僕の撮った映像に何か文句があるのか」と食ってかかりますが、キヨハルは即座に絵コンテを切って、要も納得せざるを得ないほどのより良いカメラワーク案を溢れさせます。そして、ぐうの音も出ない要が悔しまぎれに言った「君が自分で撮ればいいじゃないか」というセリフを受けての、「映画が俺の、想像の域を出ない」なのです。
少し長くなりましたが、これがこの言葉が出た文脈です。この言葉がどうして、人が根っこのところで抱えている感情の肯定につながるのでしょうか。
そもそも映画とは、一つの作品を完成させるために非常に多くの人間がかかわる媒体です。脚本を作り、舞台に相応しい場所をロケハンし、許可が必要なら取り、登場人物にふさわしい役者をキャスティングし、スポンサーを集め、カメラマンや照明、録音など、表に出ずとも撮影に必要となるスタッフを集め、カメラの前に立つ役者には衣装をあつらえ髪形を整え、撮り終ればそれを編集し……と、ざっと思いつくだけでもこれだけ出てきますから、実際にかかわっている人から見れば、もっとはるかに膨大な人員が挙げられるのでしょう。それがプロではなくアマチュアでも、小説や漫画、音楽といった他の媒体に比べ、圧倒的に多くの人間が必要なことに変わりはありません。
多くの人間がかかわる以上、そこにはそれぞれの思惑というものが、意図したものであれ偶然であれ、顔を出します。脚本をどれだけ読みこんで、監督の指導を受け、その通りに演技し、カメラを回し、音をかぶせ、光を当てようとも、書いた脚本家やそれに基づいて作品を構成する監督当人でない以上その解釈には振る舞う人間の主観が混じります(そも、脚本家や監督当人でさえ自分の脚本や構成を全て理解しているわけではないでしょうし)。それゆえ、作られたものには、監督の意図していなかったものが必ず混じります。それはもう、複数人で制作している以上宿命的に。
意図しなかったものが混じる。にもかかわらず、キヨハルの想像の域は出ない。それはどういうことなのか。
思うに、人が想像できることとは、理の内側にあるものだけなのではないでしょうか。
理。それはたとえば科学のように、ある一定の条件下では常に適用できる法則や体系です。人はその法則や体系を構築することで、一定の知識や技術に一般性を持たせ不特定の多数の人間に同水準のものを学べるようにし、また学ぶ側は自分一人で考え編みだすよりも遥かに速いスピードで、一定の水準に達することができます。そのサイクルによって、人間は飛躍的な技術の発展を可能しました。
ですが、その理は、「常に適用できる法則や体系」であり、「不特定多数の人間が同水準のものを学べる」のであるため、その理を知っている者の間では、理にしか基づいていない産物はその形を容易に想像できるものとなってしまいます。つまりは、「想像の域を出ない」。
事実、キヨハルにダメ出しをされる直前の要は、他の部員がベタ褒めをしてくれている自分のカメラワークに対し、「何ミリ単位の工夫」「構図を記号化して最も美しく映える画を消去法で見つけ出す」とその要諦を述べていますが、それこそが理です。言語化された技術こそ、他者に伝達可能であり、共有可能な理なのです。そして、それが理であるがゆえに、キヨハルにはそれが「想像」できてしまいます。1巻時点で明確な描写はありませんが、第4話でひかりが演技を模した役者を即座にいくつも挙げているあたり、彼は自身の天賦の才だけでなく、既存の技法や作品、役者について人並み以上の勉強をした上で監督・脚本をしているのでしょう。だから、即座に言語化できる程度の勘やセンスに基づいた技巧(=理)だけで撮られた要のカメラワークなど、「想像の域を出ない」。自分の知っている理の範疇に収まってしまう。
ならば、「想像」を越えたものを生み出すにはどうすればいいのか。キヨハルを納得させるためにはどうすればいいのか。
理を越える。一言でいってしまえば、それです。
理。それは一般性を持たせたもの。不特定多数の人間が学べるもの。ならば理を越えるとは、一般性がない域、不特定多数の人間には共有できない域まで行くということです。
ここで、当初のテーマにリンクします。そう、「人が根っこのところで抱えている感情」です。作中の言葉で簡潔に言えば、「本音」ですか。
人が生きる中で、様々な人に会い、様々な目に遭い、様々な思いを抱く。そうして培われる、他の誰とも共有できない、他の誰にも模倣できない、芯となる感情、思い、「本音」。それが、理を越えたところで発露するものに、キヨハルは強く反応するのです。
たとえば要の、人間への執着。
たとえばひかりの、演技そのものへの好きという気持ち。
それらは理として他者に伝達可能なものでなく、当人の中で渦巻くしかない感情です。けれど、それらが演技やカメラワークという形で表出するときに、理と混ざり合い、理だけでは到達できないものが生み出されます。それこそが、「想像の域を出」るもの。キヨハルが求める、その人の「本音」であり、「そうさせた衝動」です。
こうして、キヨハルが「想像の域を出」るものを求めることと、人が根っこのところで抱えている感情への肯定がつながります。キヨハルの作品は、それにかかわる人間が根っこに抱えるものを衒わず怯まず発露し、「本音」をさらけだすことを求めるのです。
ここまで書いておいてなんですが、もちろん、ただ「本音」をさらけだしただけでいいものができるわけではありません。そのプリミティブな感情がどれだけオンリーワンであっても、それを他人が受け入れられる水準で形作るには、相応の理が必要となります。深く掘り下げれば掘り下げるほど、他者と共有できず模倣もできないのが「本音」というものである以上、演技やカメラワークなどの形で他者に向けて理解できるよう表現するためには、そのためのツールである理が不可欠です。理と「本音」の高度なマリアージュこそが、キヨハルをして「魅かれた」と言わしめるものなのです。
本作を読んだ後に湧いてくる爽快感は、人間へのこのような視線が大きく関係していると思うのですね。


さて、1巻時点では、フォーカスされたキャラクターは要にしろひかりにしろ、基本的に才能のある者、すなわち「本音」以外に理も備えた人間なのですが、映研にはそうではない(少なくともそういう描写のない)、普通の高校生レベルの高校生が所属しています。彼や彼女が今後どういう風に描かれるのかも、注目していきたいところです。2巻はいつになるんだろう……



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世界よ、この素晴らしき人間たちに喝采を 『ショート・ピース』の話

地方でそこそこの人気を博しながらも、上に行けないでいるバンドのボーカル・月子は、後ろ盾をしてもらっているライブハウスの社長からもっと売れ専の曲を作れと言われ、くさっていた。新曲のPVを作ろうとするも、予算も無いので、地元の高校の映研が賞をとったという話を聞きつけ、彼らに制作を依頼する。だが、その映研こそ、奇才の監督・恩田清治が所属している部活だった。彼の作品とその制作過程を目の当たりにし、壁にぶつかりもがいていた月子たちの心もぶすぶすと燻りだす……
ショート・ピース(1) (ビッグコミックス)
ということで、小林有吾先生の新作『ショート・ピース』のレビューです。
奇妙な振る舞い、奇矯な言動。奇人変人を地で行く人間なれど、ひとたび見れば誰もが黙らざるを得ない作品を生み出す男、恩田清春。高校の映研で監督兼脚本を務める彼が、研ぎに研いで、良くも悪くも尖ったその感性で生み出す作品とその過程に、あたかも、途方もなく大きな質量に他の物体が引きつけられるように、他の人間も引き込まれていく。そんな大きな渦を描いているのが本作です。
壁に当たってもがき、目をかけてもらってるライブハウスの社長からは方針変更を迫られているバンド。
華やかな活躍をした過去を心の奥底に押し込め、普通の暮らしをしようとしている元有名子役。
親子のつながりを持とうとしなかった有名写真家の父親に反発するように、一人で働ける小説家を目指した少年。
自分の心を押し殺して現実を受け入れようとしている彼や彼女は、キヨハルの作品を見て、制作に関わって、取り繕わない自分の気持ち、目を背けていた本音をさらけだすことを受け容れるのです。
自分のやりたいことをやる。自分の気持ちを肯定する。背けていた感情に目を向ける。
ともすれば青臭いといわれそうな言葉ですが、本作はそれらの心の動きを、映像作品制作という、多くの人間がかかわる共同作業である創作行為と、それを中心となって指揮する一人のとんがった人間を通じて、ドラマチックに描き出しています。
たとえば、かつて有名子役だった少女、足立ひかり。彼女は幼少期に何本もの映画やドラマ、CMに出演しながらも伸び悩み、ついにはある映画監督に「君には何もない」と言われてしまいました。他の子なんかより自分の方が絶対うまい。そう強く思うも、落ち目の評価を覆すことができぬまま、彼女は引退しました。
それから6年後、ひかりはキヨハルのいる高校に転校してきます。周囲はかつての天才子役がやってきたと大騒ぎしますが、当の本人は騒がれることを望まず、過去の栄光を淡々と語り、普通に接してくれと話しました。栄光も所詮は過去の話。そう思ってきた彼女ですが、ふとした拍子に映研とかかわりを持ち、部員から作品に出演してくれないかと勧誘される中、当の監督であるキヨハルから「必要ない」とすげなく言われたことで、心の奥底に封じ込めてきた感情を引きずり出されました。彼曰く、「あんたには、あんたというものが何もない。」その言葉は、かつてプロの監督から言われた言葉の記憶と絡み合い、普段彼女が意識すらせずにしている演技がかった振る舞いを剥ぎ取り、絶望と恐怖に抉られた彼女の素顔をさらけだしたのです。
キヨハルの言葉の真意を質すため、映研の作品に出演させてもらうよう頼んだひかり。彼女の演技は、他の部員や出演している演劇部員が大はしゃぎするくらいに「うまい」ものでしたが、当の本人だけは浮かぬ顔。自分にだけはわかる自分の演技の至らなさを自覚し、人の輪から離れ俯いていました。いや、それに気づいていたのはもう一人。ひかりと二人、モニターチェックをする監督のキヨハルにより、彼女の演技が失速した瞬間は的確に指摘され、以降も彼女の演技や内心の推移を余さず説明されていきます。それにより、かつての監督と、そしてキヨハルの「何もない」の言葉の真意を悟り、とうとう彼女は、その言葉に向き合わず逃げ出した自分の弱さを自覚したのです。
ここまで、演技の仮面に覆われたひかりの日常の姿と、その彼女が目を逸らし続けてきた自身の過去と弱さを、キヨハルというフィルターを通すことで対比的に描き出してきて、ついには絶望に崩れそうになった彼女が露わになるのですが、その露わになった彼女こそ、キヨハルの求めていた、誰かのコピーを脱ぎ捨てた、一人の役者としての足立ひかりだったのです。裸の彼女に言葉を投げかけ、もう一度立ち上がらせるキヨハルと、自分の根っこのところにある気持ちに気づくひかりの姿こそ、この話のクライマックスなのですが、そのシーンは実に爽やかで、そして胸が熱くなるものです。
上にも書いたように、人間の根っこにある気持ちへの強い肯定、第1話のセリフを借りるなら「あんたは素晴らしい」と、飾らず、衒わず、素直に誰かを(あるいは自分を)祝福することが、この作品には強いテーマとして存在しています。それは第5話での、上手くはあっても面白くはないカメラワークを見ての、「映画が俺の、想像の域を出ない」と言ったキヨハルの言葉にも、一見無関係のようで通じることだと思えます。
それを考え出すとさらに長くなるので詳しくは後日の別稿として、ざっくり要点だけを言えば、彼の「想像の域を出」る作品を生み出すために、作品に関わる人間たちは、理屈や技巧、知識を越えた先にある、否、呑みこんだ先にある、否否、呑み込んだ大元にある「自分」というものを出す必要があります。それは、呑みこんだ当人以外には、外に現れるまで決して知れないもの。それどころか、当人すら外に現れて初めて知れるもの。当然、キヨハルにもわからないもの。だから、「想像の域を出」る作品のためには、作品に関わる人間が己を肯定しなければいけない。自分の本心を認めなければいけない。自分自身を祝福しなければいけない。自分は自分でいいのだと。そこには、とても素朴な人間賛歌がある。
とまれ、奇人監督を中心とした高校生たちによる映画制作に溢れる、自己を肯定するドラマには、読んでいて前を向きたくなる強さと明るさがあります。発売が昨年の11月だったのに読んだのが先月末で、発売すぐに読んでいれば俺マンに滑り込んでいただろうに、申し訳ない……
まずは第1話を読んで、その熱さと爽やかさを味わってください。
ショート・ピース 1/小林有吾
あと、女の子がかわいいの、いいよね……



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『甘々と稲妻』微かに現れた現実と遡及する実在感の話

10巻の大台に乗り、小鳥の受験も佳境を迎えた『甘々と稲妻』の最新刊。
甘々と稲妻(10) (アフタヌーンコミックス)
その47では、ついに小鳥が専門学校の受験へと向かうのですが、「普通にやれば受かるから」「もっと普通にやればいいよ」と、普通が連呼されるアドバイスと応援に、むしろ大きなプレッシャーを感じてしまいます。
「普通」ができない自分はおかしいんじゃないか。「普通」にやればできることを失敗してしまったら、あとでどんな目で見られるのか。
練習を重ねてもプレッシャーは晴れず、本番当日の朝になっても彼女の顔は暗いままでした。俯いたまま最寄り駅の改札を通ろうとしていた彼女を呼び止めたのは、自転車に乗っているつむぎ。何度転んでも立ち上がって、ついに自転車に乗れるようになったつむぎの声援に、小鳥も自らを奮い立たせ、見事合格を勝ち取ったのでした。
さて本題は、つむぎが小鳥の応援に駆け付けてきたシーン。微妙に見切れていますが、小鳥が入ろうとした駅が、武蔵境駅であることがわかります。
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10巻 p92
ほんのちょっとした情報ではあるのですが、物語の地元に関する情報って、多分これが初出だと思うんです。
で、このたった一コマで、いや、たったひとこまだからこそ、私にとってこの作品の実在感が跳ね上がりました。
もしかしたら、作中の街の風景や高校などにもモデルがあり、現地在住の読者にとっては、ここが何処の街かなんてとっくの昔にお見通しのことだったのかもしれませんが、学生時代の受験やイベントやで、ほんっっっの少しだけこの周辺に縁があった私にとっては、そのわずかな縁が10巻になってちょこっとだけ顔を出すことで、じわっと現実の色がついたのです。
この微妙な匙加減と登場のタイミングは、今まで味わったことのないものだったので、やたらと新鮮でした。これがもしまるっきり縁のない街だったら、実在の地名が登場してもふーんそうなんだくらいなもんだし、逆に完全に地元だったりしたら、もっと早くからわかって変な優越感じみたものを抱いていたでしょうが、この微妙さ。駅に降りたことなんて二、三度くらいっていう微妙さ。それゆえに「ああ、あそこかぁ」ってなる微妙さ。
ぼんやりした「日本のどこか」くらいのイメージに、「武蔵境周辺」という色が、物語もかなり進んでからつくことで、後付けで最初に遡って物語の実在感が増す。そんなちょっと不思議な体験を、この見切れた一コマでしました。

俺マン2017の話

毎年行われている俺マン。
oreman.jp
今までこのブログでは特段触れていませんでしたが、毎年こっそり挙げていました。
新年一発目にして二か月半ぶりのブログということで、去年を振り返るべく、俺マン2017の俺ノミネート作品について感想を書いてみようと思います。
なお、俺ギュレーションとして、今年単行本が出た作品5本、というものが勝手に設定されております。あと、書いた順はよかった順というわけではありません。ノミネート5作品については、順不同の良かった5作品ということです。
月曜日の友達 1 (ビッグコミックス)
小学校から中学校に上がり、周りのみんなが途端に大人の振りをしだしたことに違和感を覚える一人の少女と、大人の振りばかりの中で浮いている一人の少年。月曜日の夜に学校で会うことを約束するようになった二人は、二人きりのときだけは、大人の振りをしている友人たちの間では口に出せない思いの丈を、素直に吐きだせる。
子供はいつまでも子供のままではいられない。でも、なれと言われて大人になれるものではない。無理して大人であろうとすることはできる。でも、それはまだ大人ではない。子供と大人の端境で揺れる少年少女の、恋とも友情ともつかない不安定な気持ちを紡ぐ言葉は、現実性という枠組みを軽々と超え、光のように、水滴のように、詩のようにこぼれだしていく。
一般的な漫画とは一線を画しているそのセリフ回しに、ボールや光線、水滴などの幾何学的なモチーフを多く配したポップアート的な絵面。そこに楽しさと裏腹の不穏さが同居した物語がたまりません。
阿部先生と言えば不穏さが代名詞だと勝手に思っていますが、本作にもそれは潜んでいて、少年少女の秘密の遊戯が楽し気に、開放的に描かれれば描かれるほど、その裏側の脆さを感じ取ってしまいます。この不穏さは唯一無二。あまりに不穏な作品は躊躇してしまいますが、本作は不穏さと明るさと脆さのバランスが絶妙で、読み返す度に、私の心の中の崖っぷちでふらふらと孤高に揺れています。ふらふら。
銀河の死なない子供たちへ(上) (電撃コミックスNEXT)
人類が死滅した地球上で、永遠に生きるπ(パイ)とマッキの姉弟。季節が巡り、山が崩れ、海が割れ、動物たちは子孫を残し、死に、その子孫がまた子孫を残し、そして死ぬ。変わり映えのしない千変万化の移ろいの中で、二人は子供のまま生き続けるが、その中で二人が出会ったものとは……
永遠を生きるもの、という、古今東西で語られているモチーフを、施川ユウキ先生が成長しない二人の子供の目を通して描いていきます。
答えの出ない問いを考えるときには、それと対立するものを考えることで、欠性的にそれに形を与える、という方法があります。すなわち、「死」を考えるには、それの存在しない「死なないもの」を考えることで、「死なないもの」から抜け落ちている「死」の形を知ろうとするのです。
そこで語られるものが唯一の答えであるわけではありません。そもそも、そんなものがないからこその答えの出ない問いなのですから。答えの出ない問いに対する優れた答えとは、より多くの人にその問いへと真剣に向かわせるものです。本作にはその気配をビンビンと感じます。
映画大好きポンポさん (ジーンピクシブシリーズ)
ポンポさんは敏腕映画プロデューサー。そんな彼女が見いだした、女優の卵・ナタリーと、映画スタッフ・ジーンという二つの原石は、環境と仕事という研磨を与えられて、見る見るうちに宝石へと化けていくのです。
それだけ聞くと、才能を持つも陽の目を見なかった者達がたまさか優秀なプロデューサーに見いだされたことによる、ただのシンデレラストーリーのようですが、陽の主役であるポンポさんに対比される、陰の主役であるところのジーン君の、映画に対する鬼気迫るとさえ言えるのめりこみの描写が、テンポよく進んでいく陽気な本作の中に一匙の狂気を混ぜ込んで、読み手にぞくぞくとしたものを感じさせます。
改めて読み返し印象に残ったのは、ジーン君がポンポさん脚本の映画を撮影していく中、要所要所で、ポンポさんがイメージした絵が今目の前に出来上がっていることに驚愕しているところです。ポンポさんが脚本を書き上げる中で浮かびあげたイメージと、それを読んで全体の構成を考え撮影を進めるジーン君が思い浮かべたイメージがピタリと一致し、それが二人のあいだで共有される。イメージがカメラの前で現前する度に、ジーン君は驚きに身体を震わせながらポンポさんを見て、ポンポさんはそんなジーン君に「それだよ」と言わんばかりに頷くのです。太極図の如くに陰と陽が一致した瞬間。そのシーンに、私の身体も思わず震えます。そう、なんでこんなに震えるの、と不思議になるくらいに。
作中でポンポさんが言う好みのとおり、テンポよくコンパクトにまとめられた、陽気と狂気の娯楽作品。
BLUE GIANT SUPREME(3) (ビッグコミックススペシャル)
日本で伝説的な一夜のライブを行った大は、一人ドイツへ飛んだ。誰も知り合いのいない街で、大は相棒のサックスとともに新たな一歩を踏み出す……
単行本が出る度に安定して高熱量を叩きだしている『BLUE GIANT』。『~SUPREME』になってもそれは変わりません。大の演奏する姿は、絵しかない漫画からも音が聞こえてくるようで、彼の演奏を耳にした聴衆と同じく心を鷲掴みにされます。
単純な技術を越えた、人を震わせる才能が大にあることは、作中でも彼の師匠から言われていますが、その才能も、才能を生かせるだけの技術なしには十全に活かされません。大が寸暇を惜しんで練習するのは、楽器を吹くことそれ自体が楽しいのはもちろんのこと、自分が楽しく演奏するためには、理屈に基づいた基礎的な、地道な、地味な反復練習が必要なことを知っているからです。
私事ですが、本作を読んだことも一因として、学生時代に吹いていたテナーサックスを久しぶりに再開しました。今更大のようになれるとは思いませんが、練習を繰り返して、少しずつできることが増えていくことを実感できると何とも楽しく、おそらく今が人生で一番楽器を楽しんでいるし、一番うまいです。
何かにひたむきになることの熱量を最も強く味わわせてくる作品だと思います。
GIANT KILLING(45) (モーニングコミックス)
イギリス帰りの元日本代表・達海監督が率いるETUのシーズンもいよいよ最終盤。
45巻まで出る中で、多少の中だるみもありながら、そのたるみがあったからこそ次の爆発があったのだと思わせてくれる長期連載作品。この継続的な面白さにはただただひれ伏す。一度読みだしたらしばらく止まれない作品。大掃除には鬼門だ。

ということで、俺マン2017ノミネートの5作品でした。
次点で『好奇心は女子高生を殺す』(高橋聖一)、『SPECIAL』(平方イコルスン)、『プリンセンス・メゾン』(池辺葵)、『ダンジョン飯』(九井諒子)、『シネマこんぷれっくす!』(ビリー)なんかがあります。
昨年はあまり更新できなかった弊ブログですが、今年こそはがんばりますとか言いませんので、ぼちぼちやっていこうと思います。元旦に更新したのはちょっとした罪滅ぼし。それでは今年もよろしくお願いします。



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『アウトレイジ最終章』『銀河の死なない子供たちへ』死ぬことの恐怖の話

つい先日、友人に誘われて、『アウトレイジ 最終章』を観てきました。実のところ、1も2も観ていないでいきなり最終章から観るという非常に罰当たりな観方をしたのですが、これが案外楽しめました。事前にウィキペディアで1と2のあらすじを読んでおいても人名や組名が羅列されているためにさっぱりわからず、上映直前に友人から改めてあらすじを教えてもらっても、説明している友人自身細部の記憶があやふやで、最終的には、関東のある組が関西のある組を事実上傘下に収めている、日本だけじゃなく韓国の人間や組織も登場する、ということだけが頭の中に入っていたにすぎないのですが、意外に楽しめました。もし1,2を観ずに最終章だけ観る奇特な人間が他にもいるならば、とりあえず上の2点だけ頭の中に入れておくといいと思います。いるかそんなやつ。
さて、承前をほとんど理解できていないストーリーに、複雑な人間関係、乱舞する人名や組名などの固有名詞などにもかかわらず、それなりに楽しめたのかといえば、一種爽快ですらあった粗暴さのためなのですな。暴力や罵詈雑言、権謀術数、金の力、特殊性癖、人間関係の確執などなど、人間が健全に生きようと思えば、存在することは否定できなくとも隠しておいた方がいい諸々を、なんの衒いもなく(あるいはこれでもかと衒って)描いている画面は、嫌悪を飛び越えていっそ爽快にまで針が振り切れたのです。
吹き荒れる暴力は平気の平左でやくざたちを殺しまくります。デリヘルで因縁をつけられたやくざは揉め事の末にアイスピックで刺し殺され、鉄砲玉になったチンピラは相手を撃ち殺した果てに自分も撃ち殺され、権謀術数に巻き込まれた下っ端はわけもわからず撃ち殺され、とあるパーティー会場に居並んだ大勢のやくざたちも前触れなく撃ち殺され。まあ人が死ぬんです。
で、人が死にまくるのを見て、思ったんです。死ぬってどうなることなんだろうって。
言ってみればそんなのは、はしかと同じで誰もが一度は罹る疑問。私だって子供の頃に、自分が死んだあと、こう考えている自分(の意識)はどうなってしまうのか、どこへ行ってしまうのか、無くなってしまうのか、無くなってしまうとはどういうことか、無くなってしまったら無くなってしまったこと自体がわからなくなるのではないか、無ってなんだ、そして自分が死んだあとの世界はどうなるのか、今と変わらず続いていくのか、自分が死んでも世界は変わらないのか、じゃあ自分が生きていても何も変わらないんじゃないか、自分が生まれた意味ってなんだ、などと考えて、どうしようもな恐怖に泣きそうになったことがあります。みんなもあるよね?
で、いい歳こいてまたはしかに罹ったわけでもないのですが、恐怖に震えはしなくても、やっぱり不思議に、というか、純粋に疑問に思ってしまったんです。死ぬって何だろうって。
劇中で死んだやくざたちは、痛みの中でじわじわ死んだ奴もいれば、直接的な死因は一瞬でもそれに至るまでにそれなりの時間、絶対に逃れられない死の恐怖を味わい続けた奴もいるし、逆に訳の分からないまま一瞬で死んだ奴もいる。なんであれ、その時に何を思っていたのだろうか、ということなんです。
致命傷を受けて助けを呼ぶこともかなわず、緩慢に近づいてくる死を実感している人間。
口の中に詰められた爆薬に繋がる導火線まで火が近づいてくるのを見つめることしかできない人間。
破裂音を聞いたと思ったら内臓が銃弾に貫かれていた人間。
もう死ぬと実感したときに。死ぬことから逃げたくても逃げられないときに。あれ、俺死ぬの?と思ったときに。いったい何を思うのか。
それが気になってしまうのは、死んだら、そう考えている自分の意識はどうなってしまうのか、という疑問が私自身にあるからで、意識が無になる=もうその先に何もない、ということがうまく呑みこめないのです。宇宙の始まりの前には何があったのか、というのと、ベクトルは正反対ですが、同じ性質の疑問かもしれません。その前/後なんかない、ということが、よくわからない。というか、やっぱりそれが怖いのかもしれない。
死ぬことが怖いんじゃない。死んだあとに何もないのが怖い。
死んだあとがない=そこで終わり=無という感覚が怖いから生み出されたのが宗教である、というのが私の雑な宗教観です。死後の審判も、天国や地獄も、輪廻転生も、死んだらそれで終わりじゃないことにしておきたい人間の恐怖から出たものだと思ってます。
つまり、裏を返せば、死なない人間には宗教が生じる余地はないとも言えます。死んだ後の恐怖を考えることがないから、死んだあとの救いを考えておく必要もない。そもそも死なないのだから、死後も天国も地獄も輪廻転生もなにもない。


さてここで、前回の記事 でレビューをした『銀河の死なない子供たちへ』に絡めてみましょう。
作中に登場するπ(パイ)、マッキ、そして二人の母親は、死にません。比喩でなく死にません。津波に呑まれても、クジラに呑まれても、首を吊っても、ハイエナに体中を喰いちぎられても、何万年時間が過ぎても、死にません。
そんな彼女らも「死とは何か」を考えるのですが、その疑問は死すべき私たちとは違うものです。

人間はあんなにたくさんのことを考えたり書いたり物を作ったり壊したりしていた… みんな例外なく死んでいるのに あるいは死んでいくからか
まだ死んでいない人間に会って直接聞いてみたいんだよ いずれ死ぬことについて 死なないことについて
(p52)

死なない人間(?)にとって、死は何ら恐怖ではない。自分にとって無縁だから、ただ単に、ひたすらに、わからないもの。それはたとえば、人間がトンボなどに複眼の見え方をきくようなものでしょうか。単眼二つで物を見る人間には、複眼の見え方は無縁なものです(バグズ手術でも受ければ別ですが)。わからない。ただ単に、ひたすらに、わからない。
死なないままに生き続ける彼女らは、永遠の観察者です。死というものに参与できないので、ひたすらそれを観察するしかない。もう他に人間がいない地球上で観察できるものは、言葉を交わせない(緻密な意思疎通ができない)野生の生物か、さもなければ人間が遺した書物だけです。
そんな人間が死についての疑問をどのように考えているのか、そもそもなぜ死を疑問に思っているのか。それもまた、死ぬべき私たちにとっての疑問です。
たぶん私は、根を詰めて考えたら尋常じゃなく怖いのに答えが絶対出ないことがどこかでわかってるから、死についてどっぷりと向き合うことから避けているのでしょう。でも、現実の出来事や、波長の合う創作物に出会ったときに、ふと考えてしまう時があります。まあ布団をかぶって震えない程度には、考えるべきときに考えておけたらなと。



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