ポンコツ山田.com

漫画の話です。

俺マン2017の話

毎年行われている俺マン。
oreman.jp
今までこのブログでは特段触れていませんでしたが、毎年こっそり挙げていました。
新年一発目にして二か月半ぶりのブログということで、去年を振り返るべく、俺マン2017の俺ノミネート作品について感想を書いてみようと思います。
なお、俺ギュレーションとして、今年単行本が出た作品5本、というものが勝手に設定されております。あと、書いた順はよかった順というわけではありません。ノミネート5作品については、順不同の良かった5作品ということです。
月曜日の友達 1 (ビッグコミックス)
小学校から中学校に上がり、周りのみんなが途端に大人の振りをしだしたことに違和感を覚える一人の少女と、大人の振りばかりの中で浮いている一人の少年。月曜日の夜に学校で会うことを約束するようになった二人は、二人きりのときだけは、大人の振りをしている友人たちの間では口に出せない思いの丈を、素直に吐きだせる。
子供はいつまでも子供のままではいられない。でも、なれと言われて大人になれるものではない。無理して大人であろうとすることはできる。でも、それはまだ大人ではない。子供と大人の端境で揺れる少年少女の、恋とも友情ともつかない不安定な気持ちを紡ぐ言葉は、現実性という枠組みを軽々と超え、光のように、水滴のように、詩のようにこぼれだしていく。
一般的な漫画とは一線を画しているそのセリフ回しに、ボールや光線、水滴などの幾何学的なモチーフを多く配したポップアート的な絵面。そこに楽しさと裏腹の不穏さが同居した物語がたまりません。
阿部先生と言えば不穏さが代名詞だと勝手に思っていますが、本作にもそれは潜んでいて、少年少女の秘密の遊戯が楽し気に、開放的に描かれれば描かれるほど、その裏側の脆さを感じ取ってしまいます。この不穏さは唯一無二。あまりに不穏な作品は躊躇してしまいますが、本作は不穏さと明るさと脆さのバランスが絶妙で、読み返す度に、私の心の中の崖っぷちでふらふらと孤高に揺れています。ふらふら。
銀河の死なない子供たちへ(上) (電撃コミックスNEXT)
人類が死滅した地球上で、永遠に生きるπ(パイ)とマッキの姉弟。季節が巡り、山が崩れ、海が割れ、動物たちは子孫を残し、死に、その子孫がまた子孫を残し、そして死ぬ。変わり映えのしない千変万化の移ろいの中で、二人は子供のまま生き続けるが、その中で二人が出会ったものとは……
永遠を生きるもの、という、古今東西で語られているモチーフを、施川ユウキ先生が成長しない二人の子供の目を通して描いていきます。
答えの出ない問いを考えるときには、それと対立するものを考えることで、欠性的にそれに形を与える、という方法があります。すなわち、「死」を考えるには、それの存在しない「死なないもの」を考えることで、「死なないもの」から抜け落ちている「死」の形を知ろうとするのです。
そこで語られるものが唯一の答えであるわけではありません。そもそも、そんなものがないからこその答えの出ない問いなのですから。答えの出ない問いに対する優れた答えとは、より多くの人にその問いへと真剣に向かわせるものです。本作にはその気配をビンビンと感じます。
映画大好きポンポさん (ジーンピクシブシリーズ)
ポンポさんは敏腕映画プロデューサー。そんな彼女が見いだした、女優の卵・ナタリーと、映画スタッフ・ジーンという二つの原石は、環境と仕事という研磨を与えられて、見る見るうちに宝石へと化けていくのです。
それだけ聞くと、才能を持つも陽の目を見なかった者達がたまさか優秀なプロデューサーに見いだされたことによる、ただのシンデレラストーリーのようですが、陽の主役であるポンポさんに対比される、陰の主役であるところのジーン君の、映画に対する鬼気迫るとさえ言えるのめりこみの描写が、テンポよく進んでいく陽気な本作の中に一匙の狂気を混ぜ込んで、読み手にぞくぞくとしたものを感じさせます。
改めて読み返し印象に残ったのは、ジーン君がポンポさん脚本の映画を撮影していく中、要所要所で、ポンポさんがイメージした絵が今目の前に出来上がっていることに驚愕しているところです。ポンポさんが脚本を書き上げる中で浮かびあげたイメージと、それを読んで全体の構成を考え撮影を進めるジーン君が思い浮かべたイメージがピタリと一致し、それが二人のあいだで共有される。イメージがカメラの前で現前する度に、ジーン君は驚きに身体を震わせながらポンポさんを見て、ポンポさんはそんなジーン君に「それだよ」と言わんばかりに頷くのです。太極図の如くに陰と陽が一致した瞬間。そのシーンに、私の身体も思わず震えます。そう、なんでこんなに震えるの、と不思議になるくらいに。
作中でポンポさんが言う好みのとおり、テンポよくコンパクトにまとめられた、陽気と狂気の娯楽作品。
BLUE GIANT SUPREME(3) (ビッグコミックススペシャル)
日本で伝説的な一夜のライブを行った大は、一人ドイツへ飛んだ。誰も知り合いのいない街で、大は相棒のサックスとともに新たな一歩を踏み出す……
単行本が出る度に安定して高熱量を叩きだしている『BLUE GIANT』。『~SUPREME』になってもそれは変わりません。大の演奏する姿は、絵しかない漫画からも音が聞こえてくるようで、彼の演奏を耳にした聴衆と同じく心を鷲掴みにされます。
単純な技術を越えた、人を震わせる才能が大にあることは、作中でも彼の師匠から言われていますが、その才能も、才能を生かせるだけの技術なしには十全に活かされません。大が寸暇を惜しんで練習するのは、楽器を吹くことそれ自体が楽しいのはもちろんのこと、自分が楽しく演奏するためには、理屈に基づいた基礎的な、地道な、地味な反復練習が必要なことを知っているからです。
私事ですが、本作を読んだことも一因として、学生時代に吹いていたテナーサックスを久しぶりに再開しました。今更大のようになれるとは思いませんが、練習を繰り返して、少しずつできることが増えていくことを実感できると何とも楽しく、おそらく今が人生で一番楽器を楽しんでいるし、一番うまいです。
何かにひたむきになることの熱量を最も強く味わわせてくる作品だと思います。
GIANT KILLING(45) (モーニングコミックス)
イギリス帰りの元日本代表・達海監督が率いるETUのシーズンもいよいよ最終盤。
45巻まで出る中で、多少の中だるみもありながら、そのたるみがあったからこそ次の爆発があったのだと思わせてくれる長期連載作品。この継続的な面白さにはただただひれ伏す。一度読みだしたらしばらく止まれない作品。大掃除には鬼門だ。

ということで、俺マン2017ノミネートの5作品でした。
次点で『好奇心は女子高生を殺す』(高橋聖一)、『SPECIAL』(平方イコルスン)、『プリンセンス・メゾン』(池辺葵)、『ダンジョン飯』(九井諒子)、『シネマこんぷれっくす!』(ビリー)なんかがあります。
昨年はあまり更新できなかった弊ブログですが、今年こそはがんばりますとか言いませんので、ぼちぼちやっていこうと思います。元旦に更新したのはちょっとした罪滅ぼし。それでは今年もよろしくお願いします。



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『アウトレイジ最終章』『銀河の死なない子供たちへ』死ぬことの恐怖の話

つい先日、友人に誘われて、『アウトレイジ 最終章』を観てきました。実のところ、1も2も観ていないでいきなり最終章から観るという非常に罰当たりな観方をしたのですが、これが案外楽しめました。事前にウィキペディアで1と2のあらすじを読んでおいても人名や組名が羅列されているためにさっぱりわからず、上映直前に友人から改めてあらすじを教えてもらっても、説明している友人自身細部の記憶があやふやで、最終的には、関東のある組が関西のある組を事実上傘下に収めている、日本だけじゃなく韓国の人間や組織も登場する、ということだけが頭の中に入っていたにすぎないのですが、意外に楽しめました。もし1,2を観ずに最終章だけ観る奇特な人間が他にもいるならば、とりあえず上の2点だけ頭の中に入れておくといいと思います。いるかそんなやつ。
さて、承前をほとんど理解できていないストーリーに、複雑な人間関係、乱舞する人名や組名などの固有名詞などにもかかわらず、それなりに楽しめたのかといえば、一種爽快ですらあった粗暴さのためなのですな。暴力や罵詈雑言、権謀術数、金の力、特殊性癖、人間関係の確執などなど、人間が健全に生きようと思えば、存在することは否定できなくとも隠しておいた方がいい諸々を、なんの衒いもなく(あるいはこれでもかと衒って)描いている画面は、嫌悪を飛び越えていっそ爽快にまで針が振り切れたのです。
吹き荒れる暴力は平気の平左でやくざたちを殺しまくります。デリヘルで因縁をつけられたやくざは揉め事の末にアイスピックで刺し殺され、鉄砲玉になったチンピラは相手を撃ち殺した果てに自分も撃ち殺され、権謀術数に巻き込まれた下っ端はわけもわからず撃ち殺され、とあるパーティー会場に居並んだ大勢のやくざたちも前触れなく撃ち殺され。まあ人が死ぬんです。
で、人が死にまくるのを見て、思ったんです。死ぬってどうなることなんだろうって。
言ってみればそんなのは、はしかと同じで誰もが一度は罹る疑問。私だって子供の頃に、自分が死んだあと、こう考えている自分(の意識)はどうなってしまうのか、どこへ行ってしまうのか、無くなってしまうのか、無くなってしまうとはどういうことか、無くなってしまったら無くなってしまったこと自体がわからなくなるのではないか、無ってなんだ、そして自分が死んだあとの世界はどうなるのか、今と変わらず続いていくのか、自分が死んでも世界は変わらないのか、じゃあ自分が生きていても何も変わらないんじゃないか、自分が生まれた意味ってなんだ、などと考えて、どうしようもな恐怖に泣きそうになったことがあります。みんなもあるよね?
で、いい歳こいてまたはしかに罹ったわけでもないのですが、恐怖に震えはしなくても、やっぱり不思議に、というか、純粋に疑問に思ってしまったんです。死ぬって何だろうって。
劇中で死んだやくざたちは、痛みの中でじわじわ死んだ奴もいれば、直接的な死因は一瞬でもそれに至るまでにそれなりの時間、絶対に逃れられない死の恐怖を味わい続けた奴もいるし、逆に訳の分からないまま一瞬で死んだ奴もいる。なんであれ、その時に何を思っていたのだろうか、ということなんです。
致命傷を受けて助けを呼ぶこともかなわず、緩慢に近づいてくる死を実感している人間。
口の中に詰められた爆薬に繋がる導火線まで火が近づいてくるのを見つめることしかできない人間。
破裂音を聞いたと思ったら内臓が銃弾に貫かれていた人間。
もう死ぬと実感したときに。死ぬことから逃げたくても逃げられないときに。あれ、俺死ぬの?と思ったときに。いったい何を思うのか。
それが気になってしまうのは、死んだら、そう考えている自分の意識はどうなってしまうのか、という疑問が私自身にあるからで、意識が無になる=もうその先に何もない、ということがうまく呑みこめないのです。宇宙の始まりの前には何があったのか、というのと、ベクトルは正反対ですが、同じ性質の疑問かもしれません。その前/後なんかない、ということが、よくわからない。というか、やっぱりそれが怖いのかもしれない。
死ぬことが怖いんじゃない。死んだあとに何もないのが怖い。
死んだあとがない=そこで終わり=無という感覚が怖いから生み出されたのが宗教である、というのが私の雑な宗教観です。死後の審判も、天国や地獄も、輪廻転生も、死んだらそれで終わりじゃないことにしておきたい人間の恐怖から出たものだと思ってます。
つまり、裏を返せば、死なない人間には宗教が生じる余地はないとも言えます。死んだ後の恐怖を考えることがないから、死んだあとの救いを考えておく必要もない。そもそも死なないのだから、死後も天国も地獄も輪廻転生もなにもない。


さてここで、前回の記事 でレビューをした『銀河の死なない子供たちへ』に絡めてみましょう。
作中に登場するπ(パイ)、マッキ、そして二人の母親は、死にません。比喩でなく死にません。津波に呑まれても、クジラに呑まれても、首を吊っても、ハイエナに体中を喰いちぎられても、何万年時間が過ぎても、死にません。
そんな彼女らも「死とは何か」を考えるのですが、その疑問は死すべき私たちとは違うものです。

人間はあんなにたくさんのことを考えたり書いたり物を作ったり壊したりしていた… みんな例外なく死んでいるのに あるいは死んでいくからか
まだ死んでいない人間に会って直接聞いてみたいんだよ いずれ死ぬことについて 死なないことについて
(p52)

死なない人間(?)にとって、死は何ら恐怖ではない。自分にとって無縁だから、ただ単に、ひたすらに、わからないもの。それはたとえば、人間がトンボなどに複眼の見え方をきくようなものでしょうか。単眼二つで物を見る人間には、複眼の見え方は無縁なものです(バグズ手術でも受ければ別ですが)。わからない。ただ単に、ひたすらに、わからない。
死なないままに生き続ける彼女らは、永遠の観察者です。死というものに参与できないので、ひたすらそれを観察するしかない。もう他に人間がいない地球上で観察できるものは、言葉を交わせない(緻密な意思疎通ができない)野生の生物か、さもなければ人間が遺した書物だけです。
そんな人間が死についての疑問をどのように考えているのか、そもそもなぜ死を疑問に思っているのか。それもまた、死ぬべき私たちにとっての疑問です。
たぶん私は、根を詰めて考えたら尋常じゃなく怖いのに答えが絶対出ないことがどこかでわかってるから、死についてどっぷりと向き合うことから避けているのでしょう。でも、現実の出来事や、波長の合う創作物に出会ったときに、ふと考えてしまう時があります。まあ布団をかぶって震えない程度には、考えるべきときに考えておけたらなと。



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死を思う死なない永遠の日々『銀河の死なない子供たちへ』の話

π(パイ)とマッキの姉弟,それにお母さん。彼女たちは,地球に残った唯一の人間たち。でも,本当にそうかはわからない。ひとつに,もしかしたら地球のどこかにはまだ生きている人間がいるかも知れないから。もうひとつに,永遠に死なない存在を人間と呼んでいいのかわからないから。
彼女らは生きている。一万年前から,あるいはもっと前から。彼女らは生きるだろう。一万年後も,あるいはもっと先も。
死なない子供たちは,自分たちだけが死なない世界で,いったい何を思うのか......
銀河の死なない子供たちへ(上) (電撃コミックスNEXT)
ということで,施川ユウキ先生の新刊,『銀河の死なない子供たちへ』のレビューです。
人間がいなくなり,文明の痕跡も少しずつ崩れ,動物たちが自然のルールに従って生きている地球。そんな世界で,ただ三人だけ存在している,死なない人間たち。姉のπ,弟のマッキ,そして二人のお母さん。三人は死なない。津波に呑まれても,クジラに呑まれても,鍾乳石に貫かれても,首を吊っても,ハイエナに体を食い散らかされても,死なない。一万年前にも同じ姿だし,きっと一万年後も同じ姿。成長もしない。老いもしない。変化しない。死なない。ただひたすらに死なない。
そんな死なない人間たちが思うこと。死ぬとは何か。死なないとは何か。死とは何か。本作は,immortalな存在を描くことで,そんな問いを投げかけてきます。
一話(web連載時)から,πやお母さんがどんどん死んでいきます。正確には,死ぬような目に遭っていきます。もっと正確に言えば,普通なら死ぬはずの目に遭いながらなお生きています。何十年何百年と大地に寝そべって,津波に呑まれて,クジラに呑まれて,鍾乳石に貫かれて。でも,彼女らはその直後から普通に活動しだします。
死ぬような異常事態に出くわして死ぬのは正常なことです。死ぬような目に遭ったのに生き残る方が,よっぽど異常です。でも,彼女らは死なない。変わらない。異常な目に遭いながらなお正常な態度で振る舞い続けることの異常さ。読んでてクラクラします。
何をしても死なない彼女らに,食べる必要はありません。自身の生存に,他の命を必要としないのです。πが子イヌを飼うエピソードがありますが,彼女がペットに捧げるラップを歌い上げる中,当のペットのももちゃんは,口の周りを血まみれにしながら,涼しい顔で餌の鳥を食い散らかしています。それは生きるためです。
生きるために他の命を必要とする一個の生命。その脇で歌う,生きるために何もいらないナニカ。非情にグロテスクな落差が,一コマの中で描かれています。
作中で直接描かれてはいませんが,死なない彼女らは,おそらく殖えません。寝ている間にハイエナに四肢を食いちぎられても,気がつけば元に戻っているほどに,身体に変化の起こらない彼女らには,妊娠などという劇的な身体の変化は起こらないのでしょう(ならそもそも彼女らは,どうやって,どのような姿で存在し始めたのか,それはまた別の問題ですが)。
そんな自分たちを,マッキはシニカルにこう表現します。

いのちをつないでいく場所なんだ この世界は
僕たちは所詮 この世界とは無関係な部外者なんだよ
(p69,70)

いのちをつなげない自分たち。この世界とは無関係な部外者。不死ゆえに突きつけられる,絶望的なまでの疎外感です。
でも,部外者も三人いれば,またひとつの社会が作れる。だからお母さんは言います。

「久しぶりに みんなでごはんを食べましょう」
「必要ないのに?」
「家族には必要なのよ」
(p84)

三人だけの家族でも,家族は家族。社会は社会。自分が部外者にならずにすむ世界が,確かにあります。生命の維持に食べることは必要としなくても,生きるためには「みんなでごはんを食べ」ることが必要なのです。
小さな小さな世界で,大きな大きな世界の部外者として生きる,生き続ける彼女ら。読書家のマッキはこんなことを考えています。

…π 僕は長い間ずっと探しているんだ "生きている人間"を
人間はあんなにたくさんのことを考えたり書いたり物を作ったり壊したりしていた… みんな例外なく死んでいるのに あるいは死んでいくからか
まだ死んでいない人間に会って直接聞いてみたいんだよ いずれ死ぬことについて 死なないことについて
(p52)

爛漫に永遠の生を謳歌しているπと,沈鬱に永遠の生の意味を探し続けているマッキ。そんな二人の母。部外者たちの閉じた小さい三角形は,物語の途中で破られます。πやマッキが初めて出会う,生きた人間。それが誰なのか,どんな形の出会いなのか,是非本編で確かめてほしいのですが,三角形は破られ,マッキの長年の疑問を問いうる相手がついに現れたのです。
死ぬこととは何なのか。死なないこととは何なのか。それは,マッキが己に問い続けるだけでなく,mortalな存在である読み手にも突きつけていることです。必ず死ぬ存在にとって,死を問うことは,同時に生を問うことでもあります。必ず死ぬのに生きなければいけないのはなぜか。本作は,それにひとつの答えを,少なくともその考え方を提供しうる,壮大な思考実験となる作品だと思います。
銀河の死なない子供たちへ 第1話
みんなで読もう。ぜひ読もう。



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夜の学校 二人だけの約束 ぬけるような夜空の下で『月曜日の友達』の話

水谷茜は月曜日が嫌いだ。まだ慣れない中学校に行かなければならないから。中学校に上がって塾や部活に行き始めた友人たちと遊べないから。気の合わない姉が帰ってくるから。
一週間が始まる度に気が塞ぐ。学校が終わっても、家に帰っても、落ち着かない。月曜日の夜、家から飛び出した水谷茜は、闇雲に走り中学校まで辿りついた。するとそこにいたのは、変わり者と評判のクラスメート月野透だった。思いががけない出会いに興奮した彼女は、興奮したままたまった鬱憤を吐き出す。
「私ってそんなに変なのか」
彼女の叫びを聞いた彼は言う。
「別に変でもいいじゃないか」
月曜の夜に出会った二人。そんな二人は、また月曜の夜に学校で会おうと約束する……
月曜日の友達 1 (ビッグコミックス)
ということで、阿部共実先生の新刊『月曜日の友達』のレビューです。
阿部先生と言えば、模造クリスタル先生と並んで、かわいい絵で不穏な物語を描く二大漫画家(俺調べ)であり、本作もその系統かと思いきや、意外や意外、思春期を迎える直前の少女と少年が出会う、暗さと爽やかさが奇妙に同居するガールミーツボーイの物語です。
主人公は水谷茜。小学校の級友らとともに、中学校へ進学する。他の小学校からも進学してきた、中学生たち。小学6年生から中学1年生へと変わった少年少女たち。まるで大人のように振る舞う周囲の変化に戸惑い、水谷茜は変わっていない自分に焦りと不安を覚える。小学生から中学生に変わって、まだ一か月と経っていない。でもみんなは、変わって当然の顔をしている。水谷茜が小学校の時と変わらない振る舞いをすると、子供を見るような目で見てくる。同じ中学生なのに。同じ進学したばかりの人間なのに。変わった周りが変なのか。変わらない自分が変なのか。感情が軋む中で出会った、変わり者と噂される一人の少年・月野透。思いもよらず、彼の口から紡がれた、自分を肯定してくれる言葉。月曜日の夜に学校で会おうという秘密の約束。二人だけの約束。
え、マジで阿部先生の作品?って訝しんでしまうくらいガールミーツボーイです。
けど、この作品をいかにもボーイミーツ的に「甘酸っぱい」とか簡単には言いたくないんです。そう表現するには、作品の空気にあまりにも暗さがあり、あまりにも寂寥があるんです。
この作品の印象を私なりの言葉で端的に表すなら、タイトルでも使った「ぬけるような夜空」です。
それはどういう意味か。
「ぬけるような」とは、雲一つなくいっぱいに広がる透明な空を表す表現ですが、普通は後に「青空」が続きます。でも、この作品の主役の二人、水谷茜と月野透には、青空がもたらす心からの陽気さはそぐいません。いえ、二人とも陽気な部分は見せるのですが、心からの陽気さは二人でいるとき限定で、開放的な、外に開けた陽気さではありません。言うなれば、孤独な陽気さ。そう、二人の関係性は社会、もっと言えば、中学生にとって非常に重要な社会である学校から隔絶しているものなのです。
それゆえ、二人には孤独が付きまとう。寂寞が付きまとう。夜の帳に二人だけが包まれている。閉ざされた幕の中で、二人だけが明るい。底抜けに明るい。解放されたように明るい。他のクラスメートらが中学生になって、大人のふりして、もう子供じゃないよねなんてうそぶいて、表情も感情も態度も糊塗していても、二人で夜の学校にいるときは、違和感があれば違和感を叫べ、素直な気持ちを持てる。しがらみを一時的でも脱ぎ捨てられる。そんな、月明かりに照らされている二人の、二人だけときの心の澄明さ。それは透き通っていて、それでなお暗闇の中。
秘密の約束を交わした二人に似つかわしいと思う、「ぬけるような夜空」なのです。
さて、そんな二人の物語は水谷茜の視点で語られます。
何度も述べているように、彼女は周囲との関係にいまいちしっくりいっていません。クラスメートらとも、仲が悪いわけではないけれど、いつの間にか中学生らしくなってしまった彼や彼女を見ていると、自分がおかしいのか、と悩んでしまいます。皆で遊びに行っても、ファッションの話、流行の音楽の話、美容の話、現実的な将来の話。自分の素直な気持ちを言うと、いつも笑われてしまうのです。
また、三歳離れた姉は出来が良く、彼女と入れ替わりに入学した水谷茜は、学校でも家でも、しばしば姉と比較されるようなことを言われ、それに苛立たされます。彼女自身、姉がいい人間だと頭では理解していても、感情で反発してしまうのです。
「大人」のクラスメートには、自分の素直な感情を表そうとすると子供扱いされ、家族には、姉を見習えと言いたてられる。水谷茜は、自分の言いたいことを言っても手ごたえなく消えていってしまう中で、月野透と喋っている時だけは、自分の言葉がそのまま認められ、肯定されます。それに彼女は救われる。嬉しいという感情に胸を締め付けられる。
水谷茜は、月野透から与えられた言葉に救われます。そしていつしか、彼女も彼に、何か与えたいと思うようになります。彼のことを知りたいと思うようになります。彼を救いたいと思うようになります。
救われた少女が、救ってくれた少年を救う物語。そのために少女がとった手段。それが語られる第3話の終盤は、とても美しいシーンです。
1巻が終わるときには、季節は秋になろうとしています。二人だけの約束は変わらず続いていますが、周囲の人間は少しずつ変わりますし、そして周囲が変われば水谷茜も月野透も、変わらないわけがありません。変わらない約束で繋がれた変わる二人。その変化は、約束すらも変えてしまうのか、それとも。
詩のような台詞は神韻を帯び、世界は読み手の世界から独立し始める。光や水やボールなど、散らばる粒が誇張的に配された絵は、幻想的なポップアートのごとくに仕立て上げられる。これは、読み手の単純な感情移入を絶つ、美しく閉じられた物語。淋しい健やかさに満ちた物語。果たして二人にどんな先が待っているのか、美しいもの見たさに待ち望むような、辛いもの見たくなさに恐れる遠ざけるような、相反する気持ちが湧いてしまいます。
第2話で、眠りから覚めた水谷茜がこんなことを言います。
「なぜ、夢からさめると決まって少し切ないのだろうか。」
きっとそれは、夢からさめたその瞬間、今まで見ていた夢の世界から切り離されて、現実の世界にたった一人で引きずり戻されるから。
この本を閉じた直後の切なさは、きっと現実にたった一人で引きずり戻されるから。そう思わされる言葉です。
月曜日の友達/阿部共実 やわらかスピリッツ
読んで。不穏だけど、明るいから。そして、さびしいから。



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映画、それは夢と希望と狂気の大釜 『映画大好きポンポさん』の話

ポンポさんは映画プロデューサー。伝説の名監督である祖父から、幼少時より映画の見方について手ほどきを受けていた彼女は,まだ少女と言ってもいい年頃ながら,何本もの大ヒット作を排出している若きシネアストなのです。
映画製作に奔走するポンポさんのかたわらには,助手のジーン君。学歴もない,容姿も悪い,仕事もできない,友達もいない。でも,映画に賭ける情熱だけは人一倍。そんな彼と,ポンポさんの元にオーディションを受けに来た女優のタマゴ,ナタリーが,ポンポさんの目にとまったある日……
映画大好きポンポさん (ジーンピクシブシリーズ)
ということで,人間プラモこと杉谷庄吾先生の初単行本『映画大好きポンポさん』のレビューです。
元々この作品は,今年の4月にpixivでアップされたものなのですが,さほど間を措かず爆発的に人気が広がり,あれよあれよという間に書籍化までこぎつけられました。どうやらあとがき曰く,そもそもの本作誕生の経緯は,作者の所属している会社が2015年に5分アニメの製作を依頼され,その企画の一環で作られたものだそうです。残念ながら企画は頓挫してしまったのですが,そんなら自分で個人的に漫画にすりゃいいじゃん,と作品の形になったのが,この『映画大好きポンポさん』なのです。
さてこの『ポンポさん』,ストーリーとしては,最初に書いたように,天衣無縫の敏腕プロデューサーの元で,それしか取り柄のない映画バカの助手と,ダイヤの原石である女優のタマゴが引き合わされて,映画製作が動き出す,という,ありがちといえばありがち,ベタといえばベタなストーリーなのですが,これがまあ,読んでて涙ぐんでしまうのです。
感動とか泣けるというと少し違くて,心が強く揺さぶられた結果,その生理的反応として涙が出てくるといいますか。比喩的に言うなら,感動とか泣けるとかで出てくる涙には,それをもたらした情動に,たとえば喜怒哀楽などの色(名前)が付いているものですが,『ポンポさん』を読んでこみ上がってくる情動は,そのような色がない無色の情動,透明なパッション,物理的に精神を揺さぶってくる衝撃とも言うべきものなのです。ひょっとしたら何らかの色が付いているのかも知れませんが,まだその色の名前はわからない。だから,それに色を見られず名前もつけられず,ただ揺さぶられたという事実を感じて,目からこぼれそうになってる涙に気づくだけなのです。
ただ,それに名前はつけられなくても,何からそれが生まれたのかは考えることができます。私にとってのそれの主たる生みの親は,ポンポさんの助手のジーン君です。要所要所で描かれるジーン君の狂気の姿こそ,私を揺さぶるものなのです。
この作品の主要な登場人物は三人。ポンポさん,ナタリー,そしてジーン君です。上にも書いたとおり,敏腕プロデューサーポンポさんの元で,ギークでナードなジーン君と,まだ端役すらも与えられたことのない女優未満のナタリーが引き合わされ,映画製作が動き出すというものですから,既に出来上がったものとしてのポンポさんを土台にした,ジーン君とナタリーの成長譚・出世譚のように一見思えますが,そうではありません。いえ,ナタリーについてはそう言えるかも知れませんが,ジーン君については違うと思うのです。
ネタバレになるので詳しくは書きませんが,たしかに結果だけを見ればジーン君は,物語の冒頭からエンディングで,大きく出世したと言えるでしょう。ですがその出世は彼が求めていたものではありません。また,その出世をもたらした彼の製作物も,彼が成長したから生まれたものではありません。最初から彼が求めていたものは映画監督になること,より正確に言えば,映画を作ることでした。自分が求めていたことを全身全霊で追求する彼の姿,狂気を孕んですらいるその姿が,私の心の奥の方へどすんと飛び込んでくるのです。
「クラスの最下層」であり「学校生活になんの喜びも見出せず 授業が終わると逃げるように家に帰って映画ばかり観ていた」ジーン君には「友達なんて一人もいなかったけどどうでもよかった だってまだ観た事の無い映画が世界中に溢れているんだから」。だから彼は,「手にしたたった一つの夢 映画監督を目指して」映画会社に入ったのです。
映画が好き。とにかく映画が好き。でも,学歴ない,美貌もない,社交性ない,仕事できない。ないない尽くしのジーン君に,自信なんてあるわけない。ですから,そんな自分が他の人間を差し置いて,敏腕プロデューサーポンポさんの助手をやっていることが不思議でなりません。
なので,ある日尋ねました。どうして自分なんかを助手に選んでくれたのかと。するとポンポさんは答えます。君が一番目に光がなかったからだよと。

他の若い子はね…… みんなもう目がキラキラしてたのよ
充実した学生生活 友人や恋人と共に光り輝く青春を謳歌してきましたっていう瑞々しいきれいな瞳
だけど満たされた人間っていうのは 満たされているが故にモノの考え方が浅くなるの だって深く考えなくても幸せだから
幸福は創造の敵 彼等にクリエイターの資格無し
そういう幸せな連中に比べてジーン君は 社会に居場所がない人間特有の追い詰められた目をしてるの
現実から逃げた人間は 自分の中に自分だけの世界を作る まさに創造的精神活動!
心の中に蠢く 社会と切り離された精神世界の広さと深さこそが その人のクリエイターとしての潜在能力の大きさだと私は確信しているの
(p40,41)

少し長いですが,まるっと引用しました。
このポンポさんの名演説の中に登場する,「自分の中に自分だけの世界を作る」ということ。そのようなジーン君の様子はしばしば描写されます。
たとえば,別の監督が製作した新作映画のトレイラーを作るよう依頼されたシーン。ジーン君は,とりあえず明日の朝までに15秒スポットを作ってこいとポンポさんに言われ,さらに,15秒スポットは映画の顔みたいなものだから出来映えが直接売上に繋がる,作品に関わった全スタッフの生活を背負うくらいの気持ちで作ってね☆とプレッシャーをかけられました。強烈な重圧を感じながら作り始めた彼ですが,夜も更け,すっかり集中し始めたときにはこんなことを思っています。

…………
やばい………
売上とか…… スタッフの生活とかどーでもいい………
超楽しい!!!
(p75)

実際に一晩で仕上げ,ポンポさんと監督に見せてOKをもらい,新たに30秒スポット,2分スポット,ネット用トレイラーも任されて思ったことがこれ。

やった! やった!
また今日もフィルムを作れるぞ!
(p77)

2分か―……
2分あったらもっと展開広げられるな―……
(p78)

「売上とか」「スタッフの生活とか」外の世界の現実から切り離され,「自分だけの世界」の中で「超楽しい」ことに没頭するジーン。任された仕事を仕上げ,新しい仕事をさらに任されて思うことが「またフィルムを作れるぞ!」「2分あったらもっと展開広げられるな」なジーン。失敗しないでよかったとか,認められて嬉しいとか,これで出世できるとかでなく,もっとフィルムを作れることが単純に嬉しい,そんなジーン。たいていの人間であれば心をよぎるであろう社会的な成功など歯牙にもかけず,ただただ自分の楽しみに思いをはせるのです。
それ以外にも,ジーンが「自分だけの世界」に入るシーンがいくつもありますが,私にはない狂気がむき出しになったその瞬間に,心がぐらっと揺さぶられるのです。
もちろん,ジーンの描写にそこまでの力があるのは,ただ彼の描写単体ではなく,他のキャラクター,すなわちポンポさんやナタリー,あるいはポンポさんの祖父ペーターゼン,売れっ子女優ミスティア,名俳優マーティン・ブラドック,職人監督コルベットの描写との対比があるからこそです。
天真爛漫なナタリーが夢を叶えていく,言ってしまえばありきたりなサクセスストーリー(実際,彼女のシンデレラっぷりにたいした説得力はありません。「ポンポさんがピンと来たから」以上の理由なく彼女は見出されます),ポンポさんやミスティアといった,既に実力も地位もある人間がさらに努力や才能を発揮する姿などの,いわば陽の面を背景に,陰のジーン君の姿が強く引き立つのです。
当然ですが,陽の部分が退屈ということはなく,そこでのテンポの良いセリフ回しやチャーミングなキャラクター自体も,十分魅力的なものです。あの見開きは,陽の面の極地と言ってもいいでしょう。
とまれ,この陰陽両面があるがゆえに『ポンポさん』は,単純な面白さを越えた,心を揺さぶる力がある作品に仕上がっているのだと思うのです。
わずか150pにも満たない紙幅の中で,軽妙なコメディとごっつりした作品論,そして狂気の持つ力を描き込んでいる本作。是非読んでほしいと思います。実はpixivでまだ全ページ読めるのですが、心揺さぶられたら是非単行本も買ってほしいです。描き下ろしのおまけページもあるしね。
映画大好きポンポさん/人間プラモ-pixiv
本作成立の発端として,アニメの企画がぽしゃったから,とは先に書きましたが,どうやら単行本帯によれば,アニメ化企画が進行中とのこと。なんというミラクル。
しかし,杉谷先生は他にも漫画は描かないのかなあ。できれば描いてほしいなあ。ホントに。



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好奇心の先には「すこしふしぎ」『好奇心は女子高生を殺す』の話

女子高生。それは世界で一番好奇心旺盛な生き物。話しかけたい人がいれば臆せず話しかけ、見知らぬ建物があれば面白そうだからと行ってみて、しゃべれる動物が捨てられていれば事情を聞いて元の飼い主に文句を言い、世界のためなら宇宙彼方の星でも何のその。頭はいいけど無愛想で社交性の低いあかね子と、社交性が高くて運動神経も抜群だけど壊滅的に勉強のできないみかんの二人は、今日も「すこしふしぎ」に首を突っ込むのです......
好奇心は女子高生を殺す(1) (サンデーうぇぶりコミックス)
ということで、高橋聖一先生『好奇心は女子高生を殺す』のレビューです。
高校入学式の日、青紫あかね子が,後ろの席の柚子原みかんに話しかけられ、窓の向こうに見える謎の建物へ赴くところから第一話は始まります。
「あの建物に興味はありません」
「世界一好奇心旺盛なのは女子高生なんだよ」
そんな会話を交わしつつ、行き着いた先は「初体験館」。春の初体験祭を開催中のそこでは「未体験の出来事を成功させるまでは決して出ることはできません」と謳っていました。体験者としてあかね子は1回500円の体験料を受付で払い、みかんは付添として無料で入り、受付の扉の向こう、暗闇を抜けた先で凸凹女子高生コンビが立っていたのは、なんと絶海の孤島。大きな木が一本立っているだけのそこで、あかね子はいったいどんな未体験を体験しなければならないのか……。
とまあ、古くは藤子F先生、近くは石黒正数先生やつばな先生の系譜に連なるような、「すこしふしぎ」な世界の描き方。日常の中で当たり前に存在する「すこしふしぎ」なことに、当たり前に接して、当たり前のようにトラブルに巻き込まれ、当たり前のように楽しんでいる。そんな世界です。
絶海の孤島に飛ばされた二人も、それ自体を不思議がることはなく、受け入れた上でとりあえず生活を始めようとする。普通ならあり得ないシチュエーションを普通にこなそうとしたらどうなるか。普通ならあり得ない人と出会って、普通に楽しもうとしたらどうなるか。そんな「すこしふしぎ」な世界を、一話完結でコミカルに描いています。
この上手い一話完結ぶりは、最近の作品で言うと山田胡瓜先生の『AIの遺電子』とも通じるところがありますね。一つの話の中で登場させたゲストギミックを軸に、登場人物たちを無理なく動かす感じ。背景や小物にコミカルな情報をいろいろ描き込んでいても、物語を駆動させる描写には余分なものがないから、あるいはそのコミカルな情報の中にさりげなく駆動させる情報を紛れ込ませているから、少ないページ数でも綺麗に物語を落着させています。
主役二人の関係性を見ても、頭でっかちな引っ込み思案のあかね子と、考えるより先に体が動くみかんの二人は、お互いがお互いのいいところ悪いところを補い合い、お互いがお互いに救われ、そして、正反対なのに導き出す答えが同じだったりする、とてもいいコンビ。一話のエンディングで「二人は友達である」という前提を強固に作ったおかげで、以降の話で、二人は当然のごとく仲のいい友達であり、話が進むにつれてもうそれ友達っていうか一歩踏み越えそうになっちゃってね?的なキャッキャウフフ領域まであと少し。
それはともかく、そんな二人が主役なものですから、物語の転がし方やオチは「友達はいいもんだ」というような考え方が強くあるのですが、デフォルメを効かせながら可愛くなりすぎない(具体的には目が小さい)絵柄や、素っ頓狂な設定、小気味の良い台詞回しなどのおかげか、くっさい風にはならず、コミカルにコンパクトにまとまった一話完結となっています。
暇だからなんの気なしにさらっと読むというよりは、あの話が読みたくなったからと狙い撃ちで手にとりたくなるような、山椒は小粒でもぴりりと辛く仕上がった作品です。
好奇心は女子高生を殺す サンデーうぇぶり



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嬉し恥ずかしカウントダウン『初情事まであと1時間』の話

ある者達は幼なじみ同士、ある者達は魔王との決戦直前の勇者と魔法使い、ある者達はフラれたばかりの先輩と彼女を慕う後輩。そんな彼や彼女が、初めての情事に臨むまでの直前1時間を切り取った、嬉し恥ずかしドキドキのオムニバス……

ということで、ノッツ先生の新刊『初情事まであと1時間』のレビューです。
中身は上で書いた通り、いろいろなカップルたちが初めての情事になだれ込むまでの1時間を描いた短編集です。カップルといってもすでに恋人同士であるとは限らず、お互い憎からず思っている幼なじみだとか、仕事のパートナーだとか、冒険仲間だとか、宇宙人に誘拐された初対面同士だとかと、よくありそうなものだったりなんじゃそらなものだったり様々。
そんな中で、どれにも共通しているのは、もうお互いの感情は十分に熟成されていること。あとは、パンパンに膨らんだ風船が最後の一突きを待つばかり。いやさすがにアブダクションされた二人は除きますけど、その二人にしたってつり橋効果なのか、わずか1時間で高まりまくります。
その気持ちが膨らみに膨らむ60分。今手を出すべきなのか。がっついてると思われてしまうんじゃないか。誘ってるように見えるけど気のせいなのか。なんか相手が全然ノッてこないけど実は自分の勘違いだったんじゃないか。一歩踏み出したら今までの関係が壊れてしまうんじゃないか。でも、でも、でも……。
ぐるぐるぐるぐると脳ミソは普段の10倍は高速回転し、そして普段の100倍は余計なことを考えてしまい、心の中で天使と悪魔は取っ組み合いのケンカをして、理性と欲望のシーソーはぎっこんばったん揺れまくる。
そんな感情の嵐が吹き荒れる中で、各ページの上には初情事までのカウントダウンが冷静に刻まれていく。
なんていうのかな、このカウントダウンが、妙にエロイ。
これだけドギマギしてるカップルも、慌てふためいているカップルも、深刻な顔をしているカップルも、あとn分後には合体してるんだなと思うと、ほら、ね?
渦巻く感情と無機質なカウントダウンていうその対比っていうのかな、それがさ、ね?
日本全人口の98%が同意してくれるはずのエロティクスはともかく、それぞれのカップルに十人十色である状況と感情の機微が、60分の中で一つのゴールに向かってぐねぐね動きながら収束している感じが、またよいのです。シチュエーションコメディではあるものの、コメディとは言い切れない、時として暗くさえある感情にも意外性があります。
初情事まであと1時間/ノッツ コミックウォーカー
とりあえず第1話と第10話を試し読みできますが、単行本にはさらにバラエティ豊かな一時間がそろっておりますので、ぜひ手に取っていただければと思います。


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