楽しい趣味はいつでも楽しい! 飛び込めサバゲ沼『サバゲっぱなし』の話

父の会社にコネで入社し、受付嬢として日々ぼんやりとすごしている木枯ニコは、刺激に飢えていた。毎日が退屈。毎日がつまらない。毎日同じことの繰り返し。何か面白いことはないかと夜の街をさまよい、ふと目について入ったのがBar FREIHEIT。壁一面に、酒瓶と一緒に銃が飾り付けられているその店は、サバイバルゲームの愛好家たちが集う場所だった。こうしてニコは、店長の輪や常連のナナらによって、サバゲ沼に落ちていくのだった……

ということで、坂崎ふれでぃ先生の新作『サバゲっぱなし』のレビューです。退屈と金を持て余していたうら若い女性がサバゲにで出会い、あれよあれよという間に沼に落ち、全身全霊で楽しみまくる、そんなある意味とてもシンプルなお話です。
本作の掲載誌であるサンデーGXには、同じく趣味に没頭する女の子たちを描いている『放課後さいころ倶楽部』』(こちらはボードゲームがその対象)がありますが、舞台が高校で思春期の心情なんかも描写しているあちらと違って、各々の所属が異なる中で趣味だけでつながっている社会人が登場人物である本作は、だいぶ趣を異にします。1巻時点で断言できるものではありませんが、趣味以外の部分での心の動きも細やかに描こうとする前者と、「そんなのいいからサバゲしようぜ!!」と言わんばかりにカラッと明るい楽しさを強烈な熱量で溢れさせる後者。両者とも、趣味が登場人物の紐帯となっているのは同じでも、「●●は楽しい!」を描きたいのは同じでも、その過程がずいぶん違います。
楽しさの熱量を端的に表しているのが、第1話の直前、目次の隣のページに書かれているこの言葉でしょう。

楽しいことは、準備するときも
妄想するときも、
休憩するときも、
帰るときも、全部楽しい。そんな漫画です。

楽しいことは全部楽しい。何か楽しみがあれば、それが生きる糧になる。退屈の中に刺激を。平凡な毎日に興奮を。楽しいことはいいことだ。
その楽しいことを知ってしまった主人公のニコ。ハイテンションと財力を十二分に所有する彼女は、よっぽど刺激に飢えていたのかはたまた性にあったのか、勧めたナナたちが軽くひくくらいに猛烈な速さでサバゲ沼へと落ちいきます。そのスピードはもはや、はまるというより、沈むというより、落ちる。もがくどころか、自ら潜っていく。
店を訪れたその日にサバゲ参加を表明し、実際に参加したその帰り道には、持った銃の重量感、発砲したときの反動、少し隙を見せただけで敵に狙われるスリル……そのいちいちに感動し、滂沱の涙とともに実感しました。生きる喜びを。うん、言い過ぎた。
とまれ、一日でその魅力にとりつかれたニコは、my better halfとなる自分の銃を買いに行き、勝てないサバゲでカッコよく勝つための作戦を練り、初のインドアゲームに挑み、二本目の銃としてン十万円もするようなものを買い、当然のようにアクセサリーやパーツもセットで買い、サバゲ仲間も増やし……と、順調に沼を落ち続けています。
で、その沼での棲息が実に生き生きとしている。作中に登場するのは、ニコをはじめとしてほとんどが妙齢の女性なんですが、皆が皆、もうとても楽しそうにサバゲ沼に棲んでるわけですよ。ゲームに参加しているときはもちろんのこと、ゲームの打ち上げも、次回のゲームの計画も、新しい銃やアクセを買おうかどうか悩んでるときも、ゲームのための準備をしているときも、目がキラッキラしてる。まさに、「準備するときも、妄想するときも、休憩するときも、帰るときも、全部楽しい」んです。
自分がわっかるなーと感じたのは買い物のシーン。自分の場合はサバゲではなく服や楽器ですが、同好の友人の趣味の買い物につきあいで行くと、元々はその気がなくても、友人が楽しげにアレ買おうかなコレ買おうかなと悩んでいるところに、アレがいいんじゃないコレもいいんじゃないと口を出し、検討に検討を重ねた結果納得したものを買ってご満悦な様子を見ていると、ついつい自分の財布の紐も緩んでいる。「楽しい」の感情は伝染していくのです。おそろしい……(靴が溢れている玄関から目をそらしながら)。
お小遣いを必死にやりくりしていた子供時代から、自分で稼いだお金をある程度自分の好きに使えるようになった大人が趣味にはまると、いやあ沼ですよ沼。どこかで歯止めをきかせなければならない(眼鏡が溢れている棚から目をそらしながら)。
あ、漫画については別腹ですので,溢れかえるのを気にするとかはもうないです。
とにかく、この作品を読んでサバゲをやりたくなるかどうかはともかく、楽しいと心底思えることがあるのはいいなと思えること請け合いです。趣味はいいぞ。
サバゲっぱなし サンデーGX



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漫画の修羅たちは血で血を洗う『狭い世界のアイデンティティー』の話

漫画家のタマゴ・神藤マホ。大手出版社である件社(くだんしゃ)で、年間賞佳作を受賞した彼女にはある目的があった。それは、かつて同社に持ち込みをした際、そのビルの上階から突き落とされ、串刺しになって死んだ兄の敵を取ること。彼女は誓う。暴の力でもってこの世界を邁進すると。編集者、漫画家、アシスタント、書店員。漫画に関わる者達の嫉妬と羨望と欲望が渦巻く嵐の中で、マホは兄の敵をとることができるのか……

ということで、押切蓮介先生の新刊『狭い世界のアイデンティティー』のレビューです。
あらすじからして荒唐無稽な本作、どこか*1でぐつぐつと醸成されていた怨念がこもっているのでしょうか、漫画界を徹底的に虚仮にするかのような物語になっています。もちろん、ギャグとしてね?
いや、ギャグでしかないじゃないですか。だって、出版社に持ち込みに行ったら、ビルの上階から窓を突き破って墜落し、地上に立ち並ぶ串に刺さって早贄状態となる。そして他の串にはいくつもの骸や原稿が……。なんだ、●談社は15世紀のワラキア公国にあるのか。おっと、講●社じゃなくて件社か。
そんな無残な最期を遂げた兄の敵を討つべく、必死で漫画を勉強し、なんとか佳作を受賞したマホ。年間新人賞受賞者の一人として年末の謝恩会に招かれ、他の受賞者が強迫や金による篭絡、毒などでライバルを蹴落とそうと目論む中、壇上での受賞者インタビューで彼女はこう言い放ちます。
「この蹴落とし合いの世界で生き残るには―――― 漫画力だけでは足りません
暴の力でこの業界を 邁進したいと思います…」
そして、壇上に並ぶ他の受賞者たちが慌てふためいた次の瞬間には、目にもとまらぬ連撃でノックアウトしていく。宣言通り、暴の力でライバルを蹴落としたのです。
こうしてマホの復讐は始まります。
ですが、暴力を備えているのは彼女だけではありません。血で血を洗って争い続ける他の作家たちはもちろん、その作家たちのパートナーである編集者にも、当然の如く暴力が溢れているのです。
一例を挙げましょう。一般の会社で「ホウ・レン・ソウ」と言えば、それは「報告・連絡・相談」ですが、件社においては違います。件社の「ホウ・レン・ソウ」とは、「砲撃・連撃・総撃」。社内で下手な振る舞いをした人間に対しては、その場にいた編集者たちが、砲撃を撃ちこみ、連撃を放ち、総撃で襲い掛かってくるのです。
作家の暴に対する編集者の暴。修羅たちの巷は暴力と流血まみれ。おお地獄。ここはこの世の地獄。
珍しく澄んだ目をしてやる気に溢れる漫画家も、濁った眼をして不満と理想ばかり口にし一向に手を動かさないアシスタントたちに邪魔をされ、漫画を売ることに血道を上げる書店は万引き犯を拷問に処し、呼びつけた保護者も拷問に処し、自社の販売棚を増やせと要求する出版社に一歩も引かない。売れた漫画家は売れない漫画家に妬まれ、売れた漫画家が打ち切られればお疲れ様会と称して傷口に塩を塗り込み二度とペンを持てないように心を折られる。新人は先輩漫画家や編集者に取り入ろうとする裏でどうやって老害を引きずり下ろそうかと画策し、大御所と呼ばれるようになった漫画家も新しい芽を摘むことを怠らない。
漫画界とはこんなところだったのか……。
そんな恐ろしい漫画界で発される言葉は、他にも震え上がるものばかりです。
「糞つまらない漫画で紙という資源を無駄にした環境破壊者に死の裁きを…!」
「陰茎と玉袋を潰した後にジワジワなぶり殺すのだ!!」
「この男同士 どちらかが妊娠するまで性行為をさせるのだ!!」
「私はこの飲み会の幹事をしている小泉聖子よ 1人8千円の参加費をいただき その内5千円をピンハネして生活している者なの…」
「ここは漫画家だけの交流の場よ! 漫画家が交流し 褒め合い 傷をなめ合い 性行の糸口をつかむ場であるのよ!!」
「『本 本 数々の本が置かれるこの店は居酒屋でも床屋でもない… そう 本屋である』」
ぶるぶる。こわやこわや。
悪鬼魍魎が跋扈するこの世界、果たしてマホの兄の仇は誰なのか。彼女の復讐は遂げられるのか。それは悪魔さえもわからない……。


第一話の試し読みはこちら。凶悪な世界を目の当たりにしておしっこちびってください。
狭い世界のアイデンティティー/押切蓮介 モアイ


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*1:具体的にはス●エニ

ヘドロ生命体が生み出す善と疎外と寂しさ『黒き淀みのヘドロさん』の話

お嬢様ひかりに仕える執事のジローは、彼女の横暴に振り回されてばかりでため息の毎日。彼の高校のクラスメートであるレーンはそれを見て、得意の黒魔術で、ヘドロを材料にしてお助け新兵器を爆誕させる。その名も、黒き淀みのクラウネッサことヘドロさん。「突然やってきて何もかも解決してくれる白馬の騎士」を期待されたヘドロさんは、まずは執事を助けるべく、彼と一緒にお屋敷へ帰るのだが……

ということで、模造クリスタル先生の新作『黒き淀みのヘドロさん』のレビューです。
何を言っているかよくわからないあらすじのとおり、何を言っているのか、どこを目指しているのかよくわからない作品。それでもなぜか、読んでて心の変なところに入り込む作品です。
ヘドロさんによる人助けという大まかなストーリーラインがあり、1巻ではお嬢様に仕える執事の手助け、ヘドロさんが高校に通うために教頭から出された課題の解決と、一応具体的な事件もあるのですが,その事件の内容や状況も突拍子もないものばかりです。
そもそも彼女が生まれた理由が、「白馬の騎士を自分で作るため」というレーンのある意味で独りよがりなものであり、彼女の生まれ方も、オホーツク海でとれたヘドロ生命体に魔導書クッキーカッターで人間らしさを与えるというぶっ飛んだもの。そこには、当事者なりの理屈はあっても、第三者というか読者が読んで共有できる合理はありません。登場人物たちはそれぞれの理屈を振り回し、それぞれがお互いの理屈を受け容れ、よくわからない理屈に根拠づけもないまま話は進んでいきます。
前単行本の『ビーンク&ロサ』よりもさらにキャラクター造形にかわいげを加えつつ、さらにキャラクター心理から共感できる部分を除く。本作の最大の特徴は、この「読者が共感できる部分の欠如」ではないかと思うのです。
よくわからない世界をよくわからないキャラクターたちがよくわからない理屈で生きている。
「おかしいか? うまく言えないけど でも私には悪から善を作る他に手はないんだ」
「私は自分の命も大切にし 自分も生き延びることで末永く社会に貢献したいと…」
「先生はな 生徒の未来に投資してんだ お前の将来を見るまで安心できねえんだよ!」
なんかいいことを言ってそうだけど、実際いいことなのかなんなのか、その状況そぐっているのかいないのか。挿入されるたとえ話っぽいエピソードも、いまいちピントが合っていないような。
読み手に疑問符をまき散らしたまま、物語は進んでいってしまいます。
けれど、そんな彼や彼女の心情でほぼ唯一共感してしまうのが、寂しさです。自分が世界から切り離されているような、自分が世界と噛み合っていないような、世界が自分を見放しているような、一人の夜中ににふと襲ってくるどうしようもない孤独と不安と寂しさ。よくわからない理屈で生きているキャラクターたちが垣間見せるそれらは、取り残されてぽかんとしているこちらの懐にささっと潜り込んできて、強烈な物寂しさを残していきます。
生まれたばかりのヘドロ生命体と友達になるゲーゲー、ナイトジャスティスとキングバーガーの昔話を語り終えた後のレーンあたりは、すっと心に影を落としてくるし、教頭から出された課題であるりもん先生の謎の解明のラストは、もう目を覆いたくなるようなつらさ。
読んでて、読者は物語から疎外されているような気分になるのに、不意に寂しさだけは伝わってきてしまう。
疎外と寂寥。
模造クリスタル先生の作品にはこの二つが付きまとっているものですが、本作でもそれは例外でありません。
好き嫌いが分かれるのは重々承知ですが、一度読んでもらえば、今まで早々味わってこなかったひんやりと冷た悲しい風が心に吹き抜けるのではと思います。
黒き淀みのヘドロさん
試し読み、っていうか1巻の3/4くらい読めてしまうのですが、まあまあどうぞどうぞ。


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拍手レス

どちらの作品もすきなのでめちゃくちゃ面白かったです。
2つの作品に共通して言えることが人間の進化に悪意は欠かせないものであること、
納得というか感心というか、読んでいてため息が出るほどいろいろ考えさせられました。

こんにちは、ネウロから考えるハンターハンターの人間と蟻のキャラの話、の記事を読んでからこちらの記事を読んだのですが、親に関する点においてもハンターハンターと共通する部分があるように思えます。
この記事も、ものすごく考えさせられる記事でした。そして親が子供に及ぼす影響、押し付ける価値観について考えたとき、ハンターハンターキャラたちの親についても同じことが言えるのではと思いました。
ゴンの母親がわりであるミトさんは始め、ゴンがハンターになることを頑なに認めません。ゴンの父親であるジンがハンターだった、それで自分や周りはたくさん悲しい思いをした、だからからの子供であり我が子のようなゴンには同じようになって欲しくない、というゴンの意志を無視した考えを持っています(最終的には認めてあげましたが…)
そしてキルアの家族が最も良い例なのではないでしょうか。代々続いて来た暗殺が家業だから、キルアには才能があるから、暗殺を教え込みます。だから本人が「嫌なんだよね、レールの敷かれた人生っていうの?」という考えのもと家を出たにも関わらず独房に閉じ込め体罰を加え、思い通りに動かそうとします。自分たちの期待する通り、一人前の暗殺者になってほしい、という思い、価値観を押し付けているのです。
クラピカに関しては、村の長がこれにあたります。外の世界を知りたいと望むクラピカですが、長は外の人間は残酷であるからと一方的な価値観を押し付け村人全員が外に出ることを規制しています。
この点について、ハンターハンターで言う親とは、そして暗殺教室との比較など、軽くで良いのでご意見伺えると嬉しいです。

同じ方からのコメントです。熱いメッセージをありがとうございます。
ハンタでは、母についてや、キルアに関して間接的に家族については書いたことがあるのですが、親をメインに据えて書いたことはないんですよね。コメントをいただいて、考えてはおりますので、気長にお待ちいただけたらと思います。たぶん拍手レスでおさまるような分量にはならないので…w

『亜人ちゃんは語りたい』誰かに頭を預けるデュラハンの信頼感の話

今現在唯一、どころか、ここ数年レベルで唯一視聴継続しているアニメ『亜人ちゃんは語りたい』。

6話Bパートでは、放課後に雨が降ってきたために、高橋先生のいる生物準備室で親の迎えを待つデュラハン町子の姿が描かれました。両親が諸事情で迎えに来られなくなったため、代わりにひかりの父が来てくれたところ、一緒に帰ろうとするも、鞄を教室に置きっぱなしだったので、それを取りに行こうと京子は自分の頭を抱えようとしましたが、ひかりの父がその役をかって出て、「揺らさないよう頭を抱えるのも練習だから」と、京子の頭を抱えて教室に向かったのです。
で、このシーンを見てふと意識されたのは、このような行為、すなわち自分以外の人間に頭を持たれるというのは、生半可な信頼感ではできないことだよな、ということです。
だって、第三者に自分の頭を抱えられたまま、自分の身体から離れた所へ移動されたら、もしそこでなにか起こった時、頭だけでは対処のしようがないんですから。抱えた人間に悪意があった場合はもちろんのこと、もし偶発的な事故が起こった場合でも、自分自身ではそれに一切対応できないまま、その状況に巻き込まれるしかないなんてのは、想像するだけで絶望と無力感でいっぱいになってしまいます。
油性ペンで額に「肉」と書かれようとも、散々嫌がっていた歯医者へ連れていかれようとも、正面から10tトラックが突っ込んでこようとも、頭だけではどうしようもできない。せいぜい助けを呼ぶことくらいですか。ただ、それすらも猿轡なりなんなりで簡単に封じられてしまうし(手がないから抗いようがない)、突っ込んでくるトラックにはあまりにも無力です。
自分以外の誰かに頭を持ってもらう。その信頼は、たとえるなら、全盲の人が足元の点字ブロックの先に落とし穴なんてないと信じるようなものでしょうか。視覚さえあれば見て避けることのできる落とし穴も、全盲だとそれができない。もしそれがなされていた場合、自分ではどうすることもできない悪意に対して、「そんなことはしない」と作った誰かに全幅の信頼をおくことで初めて、視力のないままに点字ブロックの上を歩けるのだと思うのです。
私は以前、ダイアログ・イン・ザ・ダークというイベントに参加したことがあります。それは、大きなホールなどにしつらえられた完全な真っ暗闇の空間で、人工的に作られた草原や森を歩いたり、丸木橋の上を渡ったり、田舎の縁側で寛いだり、バーでなにか飲んだりと、五感の一つを完全に閉じた状態で種々の体験をするイベントです。その空間に入った当初は、今までに味わったことのない完全な暗闇、顔を撫でられてもわからないとはこのことかというほどの真っ暗闇に尻込みし、へっぴり腰でおっかなびっくり歩いていたのですが、次第に何も見えないことにも慣れ、そこには危険なギミックなどないと理解して、ようやく状況を楽しめるようになりました。また、参加者グループを先導してくれたアテンドと呼ばれるスタッフ、この人は全盲なのですが、そのアテンドが的確に参加者たちの状況を把握し、助言などを言ってくれたため、落ち着くことができたというのもあるでしょう。
ダイアログ・イン・ザ・ダークの話を詳しくすると非常に長くなってしまうのでこのくらいにしておきますが、その体験で、暗闇の中を歩くことには、視覚以外の空間把握や白杖の取り扱いなどの単純な能力だけでなく、自分の周りの世界への信頼という、精神的な強さも必要なのだとわかったのです。
京子の場合、頭を抱える誰かという具体的な人間を信頼することになるわけですが、なんであれ、その信頼感というのはとてつもなく強いものです。それこそ、自分の生き死にを任せてしまうほどに。
正直なことを言えば、原作にしろアニメにしろ、自分以外の誰かが自分の頭をもって自分の身体から離れる、という状況のリスキーさをそこまで深く捉えているとは思えないですし(そのリスキーさ、あるいは上述の強固な信頼感に関する描写が見られない)、私自身も原作を読んでいたときには考えつかなかったのですが、アニメでは非常に丁寧にデュラハンの動作を描いているため、ふと思いついたのでした。
そういうことも気づかせてくれる、まったくいい意味での違和感アニメだぜ。


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『ど根性ガエルの娘』作品の外に実在する登場人物とそこから生まれる奇妙な面白さの話

1月20日の夜、にわかに私のtwitterのTLが騒がしくなりました。多くの人がある作品について語り、また感想のリツイートをしだしたのです。
その作品とは『ど根性ガエルの娘』。同日に第15話がアップされると、その内容に衝撃を受けた人が非常に多かったようです。
ヤングアニマルDensi ど根性ガエルの娘/大月悠祐子

同作は、70年代に一世を風靡した漫画『ど根性ガエル』の作者、吉沢やすみ先生を父に持つ、漫画家の大月悠祐子先生によるエッセイ漫画です。
「お父さんは大ヒット漫画家で、でも漫画で苦しんで荒れて、家族は…」という作品解説のページにあるように、若くして大ヒット漫画家になった吉沢先生ですが、『ど根性ガエル』連載終了後はヒットに恵まれず生活が低迷、周囲からのプレッシャーなどから筆を握ることすら困難になり、82年の秋には家族がいるにもかかわらず数か月間失踪してしまいました。もともと人格者と呼べるような人間ではなかった同氏、帰ってきた後も生活は楽ではなく、家族関係もボロボロ。それでも、家族は少しずつ再生していって……という過程を、娘である大月先生の視点を通して描いているものです。
初めに白状しておくと、私は連載媒体であるヤングアニマルDensiを見ていたので、同作の存在自体は知っていたものの読んだことはなく、『ど根性ガエル』の作者の娘の家族エッセイ漫画だという概要すら知りませんでした。TL上でのフィーバーを見て、既刊分はほとんど掲載終了となっていたものの1話から読めるだけ読み、最新話の15話を読んで、そしてまた1話を読みなおして、「こりゃあ騒ぎにもなるわ…」とため息をつきました。とびとびに読んだ私ですらそうなのですから、ずっと追っていた人にとってはさぞ衝撃的だったことでしょう。
さて、物語の内容についてここで具体的に述べることはしませんが、私が今回の件で興味深く感じたのは、本作がエッセイ漫画であるという点です。つまり、本作の登場人物は基本的に作者自身を含む実在の人物であり、描かれている出来事も、作り手の主観的なものであれ、実際にあった(と少なくとも作者は思っている)ものだということなのです。少なくとも読み手は、そう前提して読みます。それがどういう効果を生んでいるかといえば、読み手がエッセイ漫画を読んでその物語に衝撃を受けたとき、物語それ自体から受ける衝撃に加えて、そのモデルとなった実在の人物が、物語と同じ(少なくともそれに近い)目に遭っているということにも衝撃を受けていると思うのです。

作品の内側の登場人物と、外側に実在する登場人物=作者への、二重の感情移入

普通の作品であれば、明示されたり、あるいはあからさまにモデルとなっているのがわかる実際の事件や人物がいない限り、読み手はそれを架空の作品だと前提して読みます。もちろん作品の一から十まで作り手が生み出したと信じ込むことはせず、何かしらのヒントやモチーフはどこかで拾ってきたと思うでしょうが、作品内で起こった事件や登場人物に、そっくりあてはまるような実在のものがあるとまでは考えないでしょう。
そういう場合読み手は、楽しさであれ悲しさであれ怒りであれ名づけようのない何かであれ、読んでいて心の裡に強い感情が生じることもあるでしょうが、その感情自体は作品そのものにのみ向いています。たまたまある読み手の知識の中に、作品に類似した人物や出来事があれば、それに関連付けて感情が動くこともあります。ですが、言ってみればその感情は、作品とつながるものではあっても、作品に重なるものではありません。並列的に存在する感情です。
けれど、その作品に具体的なモデルがあるとわかる場合、しかもそれが作者自身やその周辺人物である場合、さらに言えば作品内の事件が悲劇的なものである場合、作品だけでなくそのモデルとなった実在の人物へも感情移入してしまうと思うのです。「この人は、私がこんなに衝撃を受けた事件に、実際に関わった人なんだ」と、感情移入が二重写しのように重なり、増幅してしまうのだと。少なくとも、私はそう感じてしまいました。そういうところに強い感情、ある種の楽しさを見いだしてしまうのは、いささか倒錯的という気がしないでもありませんが、してしまうのだから仕方がない。
もしこれが、たとえば史実をモデルにした作品や第三者による伝記などのように、描かれている作品にモデルと作者が直接的に関係がなければ、この感覚も薄いと思います。作った人と描かれた人が別人であれば、それはあくまで、具体的なモデルを出所のはっきりしたところからもってきた作品でしかありません。辛い出来事を辛い目に遭った人が他人に理解できるように自ら再構成する、というなにかのカウンセリングのような所業が内包する、切実さ、切迫感は、そこに存在しないのです。
これでふと思ったのが、もし仮に『ど根性ガエルの娘』を完全に架空のものだという前提で読んだらどう感じるだろうか、ということです。つまり、作中の主人公は作者自身でなく、主人公(=作者)の父とされる漫画家も現実には存在せず、その漫画家が描いた大ヒット作も存在しない、「漫画家を父に持った娘が自分の家族を自伝的に描いた架空の作品」だとして読んだら。おそらく、面白さや15話の衝撃は変わらずとも、感情移入の二重写しは起こらないでしょう。他の一般的な作品と同じ意味での、面白さであり、衝撃。もちろん、感情移入の二重写しが起こった方が上等だとかそういう意味はなく、あくまでそういうものだという話で。

作品の外側で競合する、二つの異なる物語

また、本作が実在の人物による物語だという側面において、さらに話が複雑になるのは、作者の大月先生には実弟がいて、その彼にインタビューがなされた別の漫画家による作品では、大月先生が見ていた現実とは違う現実が語られている、という点です。
【田中圭一のペンと箸−漫画家の好物−】第八話:「ど根性ガエル」吉沢やすみと練馬の焼肉屋
これは田中圭一先生による、漫画家の家族に食にまつわる話をうかがうというインタビュー漫画の第八話なのですが、直接大月先生の作品と関係はないものの、そこで実弟の口を通して(さらに田中先生の筆を通して)語られている吉沢家の姿は、『ど根性ガエルの娘』と読み比べたときに混乱してしまうようなものです。
実在の二人の人物から語られる、一つの家族に関する二つの異なる姿。これを、どちらの語る家族像が正しいのか、と部外者が答えを見つけようとすることに意味はないでしょう。それを確かめる術はありませんし、仮にあったとしても確かめてよい筋合いはありません。
大月先生が語っていることも実弟が語った(田中先生が描いた)ことも、そこには当人の記憶というフィルターがかかり、さらにはそれを漫画として再構成するという作業も経ているのです。記憶には記銘(情報の入力)・認識(情報の保持)・想起(情報の出力)という三段階がありますが、そのどの過程でも容易に情報は変質し、さらには想起した先で漫画化するという、都合四つのフィルターを通して、二つの家庭像は描かれているのですから、どちらかは正確な家庭像で、もう片方は偽物だとは、とてもじゃないけど言えません。
それに、実際大月先生には家族がこう見えていて、実弟にはそう見えていた、という可能性もあります。人は無意識のうちに、現実を見たいように見て、見たくないものは視界に入れようとしない生き物です。ある一つの家族があって、その中にいた姉は自分の見たいように見た結果あのような家族像になり、弟もまた同様である、ということは十分にあり得ます。
まるで芥川の『藪の中』ですが、「真実の家族像」などというものも、部外者にとっては藪の中にとどめざるを得ないのです。
作品自体の外側で図らずも生まれた、エッセイ漫画がゆえの物語の重層化。異なる家族像が見えてしまったからこそ意識された、「真実の家族像」という不可触の答え。それが、本作に奇妙な味わいを与えています。お願いだからさらにお母さんに話を聞いて漫画化するのはやめような。

最後に

ともあれ、作品内部への作者自身の当事者性や、実在の登場人物による異なる物語の提示などの、『ど根性ガエルの娘』という作品それ自体から離れた要素によって、本作に、一般の作品ではありえない、ある種異様な楽しみ方が生まれていることは事実でしょう。ともすれば、文学理論や批評理論のモデルケースにもなりそうな、本作とそれを取り巻く状況。内容はもとより、その点でも非常な面白さのある作品だと思いました。



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『亜人ちゃんは語りたい』デュラハン京子 見本のないものの描き方の話

ペトス先生原作のアニメ『亜人ちゃんは語りたい』の放送が始まりました。
TVアニメ「亜人ちゃんは語りたい」公式サイト
とりあえず視聴してみようかと思いチャンネルを合わせました。初回は一時間スペシャルとのことだけど、実のところ、前半30分は声優陣によるただの番宣だったことはご愛嬌ということで、本編はなかなか面白く仕上がっているなと思いました。原作の漫画はキャラクターの動きはあまり多くない(キャラクターの動作にあまり重きを置いていない)ところ、場面転換などを多く使って、キャラクターをよく動かしているのが印象的でした。
で、その中で最も強く印象に残ったが、デュラハンである町京子でした。

頭部が胴体から分離している亜人である彼女は、移動の際は腕などで頭部を抱えて運ぶ、座っているときは膝や机などに載せるなど、ヴァンパイアや雪女、サキュバスなど他の亜人より、見た目の点で大きな特徴があります。
漫画で見ている分にはなるほどそういう特徴なんだと普通に受け止め、また漫画では主に亜人の彼女らの内面にスポットが当てられることが多いため、京子の外見的特徴にはさほど気にしていませんでした。ですが、いざアニメになって、動く京子、すなわち、静止画の連続である漫画と違い、走ったり歩いたり教室で椅子に座って他の人間と話したりするなど動画として動く彼女を見て、デュラハンの特徴がいかに他の人間と違うかというのが強烈に伝わってきたのです。
たとえば、教室内で着席してクラスメートと会話をしているシーンでは、彼女の正面と右側に座る二人の女生徒がいるのですが、机の上にクッションを敷きその上に自分の頭部を置いている京子は、発話する相手が変わる度、手で頭部の向きを変えているのです。そもそも原作では、単行本に収録されている話までではそのようなシーンはないと思うのですが、仮に描くとしても、置いた頭部を動かすことで話者の方へ視線を変えるという動作をシームレスに表現することは不可能で、連続するコマ、複数の静止画でもってそれを表現するしかありません。頭部が胴体から分離しているデュラハンなら当然であるその仕草も、実際にそう動いているのを見ると、見慣れていない限りは確かに違和感なのです。
また、否定の仕草として首を振る時も手で頭部を動かしている点や、話している女生徒は、人間相手であれば胴体の上にある頭部へ視線を向けるところ、机の上にある京子の頭部へ視線を向ける、すなわち通常と比して不自然に視線が下がるという点も見逃せません。アニメの中で会話している女生徒ら同様、テレビの前で視聴している私たちにとっても、京子の存在は、明らかに(慣れていないという意味で)違和感のあるものなのです。そして、その違和感が、原作でも後に語られるような、亜人と人間の付き合い方、距離感というテーマへの導入にうまくつながっていくことでしょう。
この、原作にはない京子の動作を描くにあたり、アニメスタッフはかなり検討を重ねたのではないかなと思います。手で首を振らせるとか、普通の人間で考えれば不自然極まりないですが、デュラハンにしてみればそれが当たり前。自分にとっての普通じゃないことを当たり前としている者を描くのは、かなりの検討と、そして思いきりが必要だと思うのですよ。なにしろ、今回でいえばデュラハンですが、それついて見本がありません。正解がありません。そういうものについて、これでございと自分の思うところを表現するには、十分な検討を重ねて自分を納得させた上で、それでも「これでいいのだ!」と公開するときには一つの思い切り、覚悟がいるのです。いやあ、納得させられましたけどね。
今後も、このいい意味での違和感をどう描いていくのかということを確認すべく、視聴していこうかなと思ってます。



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