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漫画の話です。

家と女と独りと幸せとさびしさと 『プリンセスメゾン』の話

家。それは人の集まる場所であり、明日への活力を養う場であり、人の夢を投影する箱であり、資産でもあり簡単に変えられるものでもあり、そしてなにより人が暮らす場所。
居酒屋チェーンで正社員として働く沼越幸は、暇を見つけてはショールームや不動産を回り、自分の家を探している。まだ若いのにとか、独り身なのにとか、この先どうするのとか、俺らみたいな収入じゃ無理っしょとか、口さがない世間は色々言いもするけれど、そんな言葉には耳を貸さず、彼女はひたすら探し続ける。たった一つの自分だけの家を。
そんな、女性たちの家にまつわる、幸せと寂しさの物語……

あけましておめでとうございます。例年であれば昨年のブログのまとめをするところですが、昨年はさぼり気味で振り返るほど記事を書いていないのでゴニョゴニョ。今年はぼちぼち書いていきたいなということでどうぞよしなに。
それはそれとして、新年一発目の更新は、池辺葵先生『プリンセスメゾン』のレビューです。
この作品もレビューを書こう書こうと思ってなかなか書けなかったのですが、作品としてのきりは全然よくないもののこのままずるずる延ばしてもなんなので、思い立ったが吉日と手を付けた次第です。
さてこの作品、最初に書いたように、自分の家を買おうとする沼越幸をメインストーリーに、家を買う人、家を手放した人、一人で暮らす人、家族で暮らす人など、家と女性というテーマで様々な話が語られていきます。
家を買う。それは、普通に考えれば並大抵のことではありません。まずなにより、金額が並大抵ではない。新築で買おうと思えば、8桁に届くのは当たり前、場所によって文字通り桁が違うことも。そして、家を買えば、賃貸や投資目的でもなければ普通はそこに自分が住む。住むということは生活が発生するということ。新しい家から職場に通い、新しい生活圏で買い物をし、新しい隣人と付き合いを構築していく。もし生活の中で不具合、たとえばお隣さんがとってもいけない感じの人だとか、土地の地盤がゆるゆるだとか、そういう穴が見つかっても、一度買った家をおいそれとは手放せない。なにしろ高い買い物。賃貸なら引っ越しもそこまで大変ではありませんが、ローンを組んで登記もして、人生最大レベルの決断を下して晴れて自分のものとした不動産を手放すことは、むしろ買う時以上に大変なことでしょう。そんな話は、少し周りの人に聞けば、いくらでも耳に入ってきます。買う前から人は、その覚悟を試されるのです。
でも、主人公の沼越幸は、ひたむきに家を探します。
26歳。
居酒屋チェーンの正社員。
年収270万円。
独身。
恋人も無し。
両親鬼籍。
彼女を知っている人は、不思議に思います。なぜわざわざ家なんか買うのかと。
彼女の同僚は言います。「俺らみたいな年収でマンション買うとか無理っしょ」と。
でも、彼女は言います。努力すればできるかもしれないこと、できないって想像だけで決めつけてやってみもせずに勝手に卑屈になっちゃだめ、と。
彼女の友人は言います。「ほんとに頑張り屋さんだね マンション買うなんてすごい大きい夢に迷わず向かっていって」と。
でも、彼女は言います。大きい夢なんかじゃありません、家を買うのに自分以外誰の心もいらないんですから、と。
彼女にとって家とは何なのか、作中で明確に語られはしません。
亡くなった両親と一緒に住んでいた思い出の場所。自分で所有している自分の居場所。自分が幸せに暮らせる場所。自分が自分でいられる場所。自分が自分を納得させられる場所。
何ともでもいえるでしょう。
彼女は夢想します。一人で暮らす自分の家を。日々の仕事で疲れた体をひきずって帰り、ほっと一息つく家を。友人たちが集まる家を。
それはきっと彼女の幸せの形。彼女が望む未来の形。それが生まれる場所が、彼女の家なのです。
彼女の未来図に、自分の家はあっても、家族はいません。これから先、それは変わるかもしれないけれど、今の彼女の具体的な幸せとは、自分の家。そしてそれの根っこにあるのは、おそらく「自分の人生をちゃんと自分で面倒み」ること。「誰かと生きるのはそのあと」だし、「そんなの夢のまた夢でしょうけど」。
誰かと生きられるのは幸せなことです。でもそれは、一人で生きることが不幸せであることを意味しません。ライフスタイルの多様化だの自分らしく生きるだのと言ってしまうとだいぶしゃらくさいですが、性別を問わず信条を問わず、公共の福祉に反しない限り、自分にしっくりくる生き方をかつてより選びやすくなったことは間違いないでしょう。配偶者を持たなくても、どこかに定住しなくても、親のぶっといすねをかじっても、自分の性的自認に合うよう身体をいじっても、それがしっくりくるなら、それでいい。もちろん誰かと暮らしても、同じところに一生住んでも、それもまたしっくりくるのであれば。
きっと人は、どんな人でもさびしいのです。家族のある人も無い人も、お金のある人も無い人も、友人のいる人もいない人も、職が安定する人もしない人も、幸せな人もそうでない人も。
幸せとさびしさは関係ないのです。他の人から見ればどんな人でも、幸せに見えるときもあるし、不幸せに見えるときもある。満ち足りているように見えるときもあるし、ひどく淋しそうに見えるときもある。ある人がどう見えるは、その人が実際どうであるかというよりも、その人を見る側がその人の生き方暮らしぶりを自分に当てはめたときにどう思うか、なのです。
ある人の生き方がさびしく見える人は、そういう生き方を淋しいと思う人なのだし、幸せに見える人はそれが幸せだと思う人なのです。
そして、それはそれとしたうえで、その当人にしても、自分が幸せであろうとも、ふとした瞬間にさびしさを感じることもあります。一人で充足していようと、温かい家族を築いていようと、ある瞬間、心に隙間風が吹くことは避けられない。きっとそれは、ありえた他の幸せが存在する世界線から吹いてくる風。可能性だけでしか存在しなかった、ありえたかもしれないだけの別の現在に、誰しも一瞬だけ心がつながることがあるのです。この作品に描かれている幸せとさびしさは、そういうものであるような気がします。
フードコーディネーターとして本も出している女性が、友人らとのホームパーティーの後に一人床について、自分の死を思う。
旅を趣味とするテレアポの女性が、旅から帰り働く日常の中で、どこで生きようかと清々しい笑顔でひとりごちる。
夫と赤ん坊と暮らす主婦が、マンションの直下の部屋で一人暮らす女性が作った、奇矯な生活と裏腹にとでもいうべき美しい染物を見て、その暮らしに思いをはせる。
婚活に疲れた公務員の女性が、将来の自分の姿を想像して、そこに描いた姿のためにマンションを買う。
彼女らの姿には、自分のしっくりくる暮らしを生きる幸せと、その充足とは無関係に吹き込むさびしさ、両方があります。その二つこそが、この作品の最大の魅力だと私は思うのです。
彼女らに楽しさが描かれ、そしてそれを読む私が楽しさを感じる。彼女らにさびしさが描かれ、そしてそれを読む私がさびしさを感じる。そして、私はいま幸せか、自分の生き方にしっくりきているか、どこにさびしさを感じるかと、自問します。自答できるかは、時によりけりですが。一人で生きる楽しさと寂しさは、まさに今の私に訴えてくるものであり、私はそれに救われ、傷を触られ、自分のしっくりくる身の置き所はどこかと、つい見回してしまいます。
一人の楽しさとさびしさ。それはまるで、作中で何度も描かれる、ごちゃごちゃしながら美しい、東京の街並みのようです。そこにいる人たちより、ずっと大きく描かれる東京の街。街という大きなキャンバスの中で、人は寄り添ったり一人で歩いたりしています。どう歩こうとも街は街。好きなように歩けばいい。誰をも放っておくような無関心で無機質な街が、本作の世界では、とてもやさしく、冷たく、そして美しく見えます。
そしてこの作品には、もう一つの大きな魅力があります。
恋人も持たず独り暮らしのためのマンションを買おうとする幸に、彼女の友人は言います。
「私も買いたいけどこの先、結婚もしたいしそしたら家って邪魔かなーとか思うし、ローンも先を考えるとなんか怖いしなー」
それに対して、幸は言うのです。
「…すごく勝手なんですけど私はそこまで先は考えてなくて… 両親とも40代で亡くなってますし、私だっていつまで生きられるかもわからないし、この先どうなるかわからないからむしろ今しかないって。いつくるかわからない日を待つよりは、今のベストをつかみたいんです」
それが幸にとってしっくりくる生き方です。
今と未来を秤にかけて、どちらにどれだけ錘を載せるか。
未来の究極とは、言ってしまえば死です。誰の下にもいつかは必ず訪れる、人間の唯一の平等である死。いつどこで口を開けるかわからない底なしの落とし穴に、いつ落ちると考えるのか。いつ落ちてもいいと考えるのか。他の人と同じくらいまでは歩いて行けると考えるのか。もう自分は落ちている最中であると思うのか。
自分の人生には必ず死が待っていること。
メメント・モリ。死を想え。
他の人の感想はどうかわかりませんが、私はこの作品に、ひどく乾いた、余計な情のない死の匂いを嗅ぎとります。具体的な表れとしては、上で引用した幸の言葉などなのでしょうが、それだけにとどまらず、物語の端々に、どこかしら。上手く言葉にできないのが残念ですが、その匂いが、私にはとても魅力的に感じられるのです。

やわらかスピリッツで、第一話からいくつか読めますので、まずはそちらをご一読。
やわらかスピリッツ-プリンセスメゾン
第一話を読んだ後最新話を読むと、幸の頭身の変化にびっくりします。



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この世界を生きる それはとても優しく悲しく辛く楽しく、そして強い日常『この世界の片隅に』の話

映画『この世界の片隅に』を観てきました。いい……とてもいい……
身も蓋も無い程号泣するかなとも思ったんですがそういう風でもなく、じんわりぐっと涙がこみあげてきて、頬をつうと伝う感じの落涙。いい……
以下、ネタバレ上等の感想。でも、ネタバレで魅力が薄れるタイプの作品ではないので、読んでもらってもいいのかなと思います。一応隠しておくけど。

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『アリスと蔵六』フキダシによって近づいた漫画とアニメの表現あるいは時間の話

アニメ化!
大事なことなのでもう一度言います。
ア ニ メ 化 ! !

アリスと蔵六 7 (リュウコミックス)

アリスと蔵六 7 (リュウコミックス)

ということで、2016年も終わりに近づいてきたところで飛び込んできた大ニュース。『アリスと蔵六』のアニメ化です。twitter上で作者本人があげた動画での発表を見たときには、あまりに驚いて「ホフェッ!?」などと変な声が出ました。あとは群馬でも視聴できることを祈るばかり。
さて、そんなアニメ化話に便乗するわけではないですが、本作『アリスと蔵六』を改めて読み返して思ったのは、「この漫画、つくりがとても映像的だな」ということです。
漫画のつくりが映像的。
それが何を意味するかというと、漫画と(アニメなどの)映像作品の質的な違いの話になってくるのですが、端的に言って、本作は時間の表し方について非常に意識的な描写がなされているのです。
拙ブログでは今までにも何度か、漫画(や小説)とアニメ(などの映像作品)の根本的な違いとして「時間」の扱い方がある、という話はしてきていますが(最近してなかったけど)、簡単に言えば、漫画や小説は受け手が鑑賞の際の時間をある程度恣意的に操作できるけど、映像作品では受け手は作品側の時間に支配される、という違いです。本のページをめくるスピードは読み手に委ねられますが、映像作品は作り手が設計した時間通りにそれを見るしかないということです。30分のアニメは30分TVの前に、120分の映画は120分映画館の椅子の上にいなければなりません。録画をすればn倍速での視聴は可能ですが、それによって味わえる音声やセリフの間は、作品本来のものとは別物になってしまいます。
以前のブログ記事では、本では作り手が凍結した作品の時間を読み手が解凍するが、映像作品では生のままの時間を受け手がそのまま視聴する、という表現をしたことがあるかと思います。たぶん。
で、そんな漫画とアニメの違いを踏まえた上で、『アリスと蔵六』がどのような点で時間についての特徴的な描写をしているかと言うと、それはセリフ、とくにフキダシです。一つのフキダシは一つのコマの中に収める(他のコマにはみ出さない)、という一般的なルールをあえて破ることで、本作には特徴的な時間表現が見られるのです。
まずは具体例を。

(1巻 p51)
見てのとおり、この二つのコマには、一つのフキダシがかかっているわけですが、一般的なルールを破ったこの描写によっていったいどんな効果が生まれているのでしょう。
それを説明する前に、少々長いですが、まず音声としてのセリフと文字としてのセリフの違いを説明します。
本来セリフというのは音声であり、すなわち強く時間的な存在です。波である音が聞こえる(受け手が受信する)ためには時間が流れなくてはならず、その音の高低や長短、強弱、音と音の間などによって人は音を任意に分割して、一定の意味を持つ言葉であると理解するのです(たとえば「橋」と「箸」は音の高低、「在る」と「アール」は長短で区別されます。「あっ、高い」と「温(あった)かい」は、「あっ/たかい」の間によって意味が異なります)。
ですが漫画においては、セリフは文字によって表現されているため、その受信に時間は関係ありません。より正確には、受信時間は受け手それぞれの裁量にあり、受信(読解)時間の長短によって語義は異なりません。「ありがとう」の五文字を読む時間の長短に意味はなく、さっと読もうがじっくり読もうが、読み手の頭の中には「ありがとう」という文字情報(あるキャラクターが発声した「ありがとう」というセリフの情報)が入ってきます。口にすれば一秒にも満たない「ありがとう」という音声は、「ありがとう」という文字列にされたことで時間的な意味を失い、読み手がそれを読んで再び読み手の脳内に「ありがとう」という音声が流れるのです(これが、上で言った「時間の解凍」の意味するところです)。
漫画は基本的に絵(静止画)と文字を媒体とするメディアであり、また日本の漫画のほとんどは、枠線で区切られた一つのコマの中では一つのシーンをのみ描く(もちろん例外はありますが)というルールで描かれています。ですから、あるコマ内で書かれるセリフはそのコマ(シーン)内でのみ発されている音声である、別の見方をすれば、そのセリフが流れている時間は、それが書かれているコマのシーン内で閉じている、ということです。

よつばと! 9巻 p75)
たとえばこの『よつばと!』の一コマでは、一枚の静止画の中に「じゃあジュラルミン乗っけて?」「こお?」「そうそう」というやりとりがなされており、このワンシーンには、少なくともこのやりとりがなされるだけの時間が流れていることがわかります。
さて、ここで『アリスと蔵六』に戻りますが、コマを越境して書かれたフキダシは、かかっているコマ両方、つまり二つのシーンにわたってその音声が発されている、という意味合いを与えていると思うのです(このシーンの場合、より正確には、かかっているフキダシのセリフだけでなく、それも含む、黒髪の刑事が発している一連のセリフが、ということですが)。端的に言えば、複数のコマ(シーン)に連続性を与えて一つのシーンにしているということです。
で、これが映像的という話にどうつながるかと言えば、このような描写、すなわち連続的な音声によって複数のシーンに連続性を持たせる技法は、動画や音声といった時間的なメディアだからこそ可能なものだったはずなのです。動画という視覚表現に、それとは別の次元で流れるセリフやBGMなどの聴覚表現をリンクさせることで、映像のシーン(カメラ)が切り替わったとしても、切り替わる前後で連続しているということを明確にできるのです。

こちらの動画、『日常』1話の冒頭は、校舎の遠景のシーンから教室内での二人の会話シーンへ一気に飛びますが、遠景シーンの時点から二人の会話は始まっており、教室内のカットになってもその会話が続いているため、この二つのシーンに明確な連続性が与えられています。二つの異なるカット(視覚表現)が、連続する会話(聴覚表現)によって、直接的にリンクされているのです。
翻って漫画は、実は、隣接するコマの間の連続性を担保しているものは文脈しかなく、一般的なルールに則っていれば、絵やセリフといった非時間的なメディアと次元を異にした媒介によっては結びつけられてはいません。またコマ間には、それがほんの一瞬のものであれ、必ず時間的な断絶が存在しており、そこを埋めるのはひとえに読み手の読解力にかかっていて、その断絶が大きければ大きいほど、要求される読解力の比重は高まります(アニメなどと違い、マンガには「読み慣れる」必要があるのはこれが一因です)。
そんなコマ間の断絶、実は極めて薄かった隣接コマ間の連続性を強く結びつけるのが、このコマを越境するフキダシなのです。

(5巻 p71)
この一連のコマも、結合しているものも含めて三つのフキダシを、それぞれのコマにかけていることで、この三つのコマがひとつながりのシーンであることを読み手に強く意識させます。
たとえばこのシーン、映像作品であれば、カメラアングルを移動させることで、キャラクターが辺りを見回した後に膝から崩れ落ちる動作をシームレスにワンカットで作れますが、静止画(固定されたカメラアングルによる一枚の絵)しか使えない漫画では、そのようなシーンを描こうと思っても、分断された複数のカットを連続して配置するしかありません。ですが、そのカット=コマにかかるようにフキダシを配置することで、かかっているコマは連続しており、そのセリフが発されるだけの時間が経過している、と読み手に思わせられます。つまり、複数のコマを疑似的にシームレスにしているのです。

(1巻 p10)
このコマでは、越境したフキダシが別のフキダシにもかぶさることで、最初のフキダシによる発声が終わった直後もしくは終わったと同時に、下になっているフキダシの発声が行われたことを示しています。フキダシを重ねることで時間的な懸隔が極めて少ないことを表しているのです。

さて、再び1巻p51のコマに戻って改めて考えてみますと、実は他のニュアンスがあることにも気づきます。フキダシがかかっている複数のコマは、時間的に連続しているという解釈以外に、このセリフが発されている一つのシーンを複数の視点から描いているものである、と考えることもできるのではないでしょうか。つまり、p51のコマは、黒髪の刑事が喋っているシーンなのですが、そのシーンを刑事主体のカットと蔵六主体のカット、両方から描いたものである、すなわち二つのカットは連続したものではなく、同じ時間軸を二つのカメラで切り取ったもの、同時的なものである、と。
それがよりわかりやすい例がこちら。

(7巻 p76)
歩が「はあちゃん!!」と叫んだフキダシが三つのコマにかかっていますが、特に左側二つのコマにおいて、歩のカットと、羽鳥のカットは、歩が「はあちゃん!!」と叫んだ瞬間を二つのカメラで切り取ったものであることは明白です。同じシーンを、別のカメラアングルで捉えたものなのです。
以上のように、本作では、フキダシをあるコマから別のコマへ越境させることで、コマ間の時間的連続性を強固にする、あるいは一つの時間軸への異なる視点の導入をスムーズにする、という効果を生み出しています。どちらも、無時間メディアである漫画では極めて難しいはずの効果です。
無時間メディアの漫画で、有時間メディアであるアニメのような描き方をする。それをして、漫画のつくりが映像的であると表現したのでした。
さて、『アリスと蔵六』のセリフ・フキダシについては、また別の話もあるのですが、だいぶ長くなってしまったので、今回はこのへんで。



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二人のこびとはどこへ逃げる 『ヨルとネル』の話

人目を避けて旅をする二人のこびと、ヨルとネル。研究所から逃げ出した二人は、南へ、南へ。その道程は、辛くて、厳しくて、楽しくて、不安で、でも二人は旅をする。逃避行の息つく先はどこなのか、何なのか、二人は知らない。でも二人は旅をする。なんかふざけたことをしてふざけたことを言い合いながら……

ということで、施川ユウキ先生の新作『ヨルとネル』のレビューです。本作は、施川先生の作品にしては珍しく設定がシリアス。普通の人間からこびとになってしまった二人の少年が研究所から逃げ出し、あてどなく旅をするというものです。本気の逃避行なので追っ手もかっているし、二人も見つからぬよう路傍の片隅や主のいない家などで人目を忍んでいます。
でも、そんなハードな状況にもかかわらず、二人の会話はいつもの施川節。詳しくは最後のリンクで試し読みを読んでほしいのですが、上手い言い回しとそれをスカす半畳、日常を突然異化するセリフと、施川先生の読者にはおなじみのヤツです。でも、やっぱり設定を反映してか、一話分の終わりはちょっぴりビターに締めています。終わりの見えない逃避行を続けなくてはいけない少年二人。その道のりが楽しいだけのものであろうはずがありません。人目を忍ぶ旅だから、移動は基本夜ばかり。明けない夜はありませんが、果たしてそれがいつになるのか、当の夜の中にいる自分達にはわからないのです。一日の終わりに彼らが発する言葉。そこには不安が常に仄見えています。
全1巻で完結する本作、二人がこびとになってしまった理由も、この逃避行が最後にどうなるのかも、すべて描かれています。この結末は是非読んでほしいです。今までの施川先生の作品にはなかったシリアスな物語が、いったいどのような形で終わりになるのか、一読の価値ありです。私はビビりました。そして心揺さぶられました。是非皆さんも、心揺さぶられてください。
ところで、施川先生の他の作品で世界設定だけは妙にシリアスなものとして、『オンノジ』があります。あらゆる生物がいなくなった世界で出会った少女とフラミンゴ 『オンノジ』の話 - ポンコツ山田.com
少女とフラミンゴになった少年以外誰もいなくなってしまった世界で、二人(一人と一羽?)が生きていくというのが『オンノジ』の設定。実際に、他に生き物は誰一人何一つ登場せず、延々二人だけの世界が描かれています。しかしこちらの作品は、登場人物の性格ゆえか、悲愴感があまり漂っていません(さすがに皆無ではないですが)。
自分と相手以外誰も頼る者のいない世界。そのような共通点を持ちながら、作られる物語は大きく違っています。
実は、作者である施川先生によると『ヨルとネル』と『オンノジ』は、ルーツを同じくする作品であるとのことです。

家にあった『自虐の詩』をたまたま手に取り読み返した所、「これはキャラクターが役割から解放される話なのでは?」と唐突にひらめきました。そのひらめきを元に描いたのが、前作『オンノジ』と本作『ヨルとネル』です。どこがどう関係しているのか、感覚的な部分が多いので説明は省きます。ただ『自虐の詩』がなかったら、両作品ともに、おそらく今あるようなカタチでは描けませんでした。
(ヨルとネル あとがきより)

とのことです。
これについても、改めて両作品を読み比べた上で、何か書きたいところです。
『ヨルとネル』の試し読みはこちらから。
ヨルとネル/施川ユウキ
『ド嬢』アニメが放映されるわ、本作が出るわ、『ド嬢』3巻も出るわで、今月は施川ユウキ先生のアタリ月ですね。


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拍手レス

3月のライオン一話の感想を探す中でここに来ました
私も一話を見て原作再現にこだわっているなということは感じていました
特に、ぷるーんやつやーみたいな効果音を入れる事にこだわって少しテンポが悪いかなと一話を見て感じていたので
対局前の入室にあのような意図があるとは気づかず目から鱗でした
これからの、話の中でどのような解釈を取り入れてくるか視聴する楽しみが増えました

忠実なのが悪いわけではありませんが、やはりアニメだからこその演出とか、アニメ制作側としての解釈とか、そういうのを積極的に見せてほしいと思いますね。原作が好きなだけになおさら。

『GIANT KILLING』不遇不屈の天才・持田 傲慢の裏にある連帯の話

一か月遅れで発売された『GIANT KILLING』42巻。
A代表に呼ばれた東京Vの持田選手と、海外で活躍する現A代表10番の花森両選手の因縁から、ETU対東京V東京ダービーへ続いていく、非常に熱い巻となっています。序盤から激しく球際で競り合い、両者一歩も譲らぬ展開です。

さて、そんな熱い東京ダービーもいいのですが、今巻でちょっとグッと来たのが、持田と花森の因縁話です。
既にジュニアユースの時代から、同世代の実力筆頭と目されていた持田と花森。攻撃的ですらある明るさを露わにする持田と、陰にこもった空気を常に醸し出す花森は、パッと見の印象は正反対にもかかわらず、プライドの高さも実力も非常に高い水準で競り合っており、出会った当初からライバル意識をむき出しにしていました。
けれど、同じチームで戦うようになってからは、10番はいつも持田のもの。お互いに活躍はしても、首脳陣からの評価は持田の方が上だったようです。
それでもアイツに負けているとは思っていない花森は努力を怠らず、活躍を続ける。でも、彼と同等かそれ以上に持田も成長する。二人の差はこのまま差は埋まらないのかとも思われた矢先に起こったのが、持田の怪我でした。「ダントツに上手かったから周りに削られまく」るという持論を持つ持田。それ自体は事実でしょうが、その持論通りに削られた彼は何度も負傷し、大舞台の度に怪我に泣かされ、海外移籍も実現せず、結局いまだにW杯の舞台に立てていません。
そんな持田が、花森が海外ブンデスに行く直前にした会話が、以下のものです。

「これで花森も海外組かー 下手なのに」
「お… おまえだって移籍の話はあっただろう
怪我ばかりこじらせ続けてるから駄目なんだ… その時点で二流だと気づけ
だから早く治して…」
「ははっ! それは違うね!
俺がダントツで上手かったから周りに削られまくってこうなってんだ いわばこればトップの証
俺がいなかったら 代わりにお前がぶっ壊されてるぜ
ははっ! 相手からしたらそこまで怖い選手じゃないか! 花森は」
(こいつ… どこまで減らず口を…!!)
「貸しといてやるよ 俺の10番
五輪に引き続きレンタル延長だ A代表まで貸してやるからお前がつけろ
「……
それって俺が決められるもんじゃないのだけれど…」
「いいな? 俺が戻ったら絶対返せよ」
(42巻 p60〜62)

ここでの持田の言葉は、一見すると自分が一番上手いという傲慢に溢れたものにも思えますが、その実、長年の好敵手であった花森のことを認めるものでもあるのです。
そもそも持田は、今回の東京ダービー直前に椿へ向かって言ったように、その相手を意識しているからこそ、敵意剥き出しの言葉を投げつけます。つまり、花森を意識しているからこそこのような挑発的な言葉を言い放っているのですが、それ以外の感情も混じっています。
持田が怪我をしている間、代表で10番をつけている花森。その事実に対して「貸しといてやるよ」と言うことは、花森を自分のつけるはずだった10番を貸しておくに足る人物だと思っている証左に他なりません。その上で、「俺が戻ったら絶対返せよ」と言うのは、それまで他の奴に奪われるな、(俺がいない間の)1番でい続けろ、という言葉の裏返しです。これから海外に旅立つ友人に向けた、持田なりの激励なのです。
花森は花森で、そんな持田の言葉の裏側をしっかり読み取ったからこそ、「けなしだからだけど嬉しそうに昔話は沢山しゃべ」り、今回の持田のA代表復帰を喜んでいます。まさに、「花森ほど… 持田の実力を理解していて 奴の復活を心待ちにしていた人間は他にいないってこと」なのです。
高いプライドとそれに見合った実力を持ち、にもかかわらず怪我に泣かされている持田だからこそ、五体満足で漫然としたプレイをする選手たちには辛辣だし、逆に相応の実力を持つ人間に対しては負けん気を燃やします。そして、ごくごく稀には、激励すらするのです。
今まで傲慢さと貪欲さが尖っていた持田の、また別の内面が覗いたエピソードとして、なんだかグッと来てしまいましたね。
さて、予定では来月43巻が出るはずなのですが、それはちゃんと出版されるのか、ちょっと心配。楽しみにしてるんだから。



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拍手レス

文章が鋭く、キレッキレですね。内容も的確ですが、表現もわかりやすいので、すっと腑に落ちます。こんな達意のテキストを、苦渋の跡も見せずに書けるなんて。久しぶりにサイトに来ましたが、お気に入りに入れてて、本当に良かったです。
応援してます。頑張ってくださいね。

ありがとうございます。久しぶりの更新にも関わらず、見捨てず読んでいただいた上に、そのようなお言葉、大変うれしいです……
もうちょっと頻繁に読んでいただけるよう、なるべく、ええとまあ、なるべく更新していこうと思います、ハイ。