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漫画の話です。

『GIANT KILLING』不遇不屈の天才・持田 傲慢の裏にある連帯の話

一か月遅れで発売された『GIANT KILLING』42巻。
A代表に呼ばれた東京Vの持田選手と、海外で活躍する現A代表10番の花森両選手の因縁から、ETU対東京V東京ダービーへ続いていく、非常に熱い巻となっています。序盤から激しく球際で競り合い、両者一歩も譲らぬ展開です。

さて、そんな熱い東京ダービーもいいのですが、今巻でちょっとグッと来たのが、持田と花森の因縁話です。
既にジュニアユースの時代から、同世代の実力筆頭と目されていた持田と花森。攻撃的ですらある明るさを露わにする持田と、陰にこもった空気を常に醸し出す花森は、パッと見の印象は正反対にもかかわらず、プライドの高さも実力も非常に高い水準で競り合っており、出会った当初からライバル意識をむき出しにしていました。
けれど、同じチームで戦うようになってからは、10番はいつも持田のもの。お互いに活躍はしても、首脳陣からの評価は持田の方が上だったようです。
それでもアイツに負けているとは思っていない花森は努力を怠らず、活躍を続ける。でも、彼と同等かそれ以上に持田も成長する。二人の差はこのまま差は埋まらないのかとも思われた矢先に起こったのが、持田の怪我でした。「ダントツに上手かったから周りに削られまく」るという持論を持つ持田。それ自体は事実でしょうが、その持論通りに削られた彼は何度も負傷し、大舞台の度に怪我に泣かされ、海外移籍も実現せず、結局いまだにW杯の舞台に立てていません。
そんな持田が、花森が海外ブンデスに行く直前にした会話が、以下のものです。

「これで花森も海外組かー 下手なのに」
「お… おまえだって移籍の話はあっただろう
怪我ばかりこじらせ続けてるから駄目なんだ… その時点で二流だと気づけ
だから早く治して…」
「ははっ! それは違うね!
俺がダントツで上手かったから周りに削られまくってこうなってんだ いわばこればトップの証
俺がいなかったら 代わりにお前がぶっ壊されてるぜ
ははっ! 相手からしたらそこまで怖い選手じゃないか! 花森は」
(こいつ… どこまで減らず口を…!!)
「貸しといてやるよ 俺の10番
五輪に引き続きレンタル延長だ A代表まで貸してやるからお前がつけろ
「……
それって俺が決められるもんじゃないのだけれど…」
「いいな? 俺が戻ったら絶対返せよ」
(42巻 p60〜62)

ここでの持田の言葉は、一見すると自分が一番上手いという傲慢に溢れたものにも思えますが、その実、長年の好敵手であった花森のことを認めるものでもあるのです。
そもそも持田は、今回の東京ダービー直前に椿へ向かって言ったように、その相手を意識しているからこそ、敵意剥き出しの言葉を投げつけます。つまり、花森を意識しているからこそこのような挑発的な言葉を言い放っているのですが、それ以外の感情も混じっています。
持田が怪我をしている間、代表で10番をつけている花森。その事実に対して「貸しといてやるよ」と言うことは、花森を自分のつけるはずだった10番を貸しておくに足る人物だと思っている証左に他なりません。その上で、「俺が戻ったら絶対返せよ」と言うのは、それまで他の奴に奪われるな、(俺がいない間の)1番でい続けろ、という言葉の裏返しです。これから海外に旅立つ友人に向けた、持田なりの激励なのです。
花森は花森で、そんな持田の言葉の裏側をしっかり読み取ったからこそ、「けなしだからだけど嬉しそうに昔話は沢山しゃべ」り、今回の持田のA代表復帰を喜んでいます。まさに、「花森ほど… 持田の実力を理解していて 奴の復活を心待ちにしていた人間は他にいないってこと」なのです。
高いプライドとそれに見合った実力を持ち、にもかかわらず怪我に泣かされている持田だからこそ、五体満足で漫然としたプレイをする選手たちには辛辣だし、逆に相応の実力を持つ人間に対しては負けん気を燃やします。そして、ごくごく稀には、激励すらするのです。
今まで傲慢さと貪欲さが尖っていた持田の、また別の内面が覗いたエピソードとして、なんだかグッと来てしまいましたね。
さて、予定では来月43巻が出るはずなのですが、それはちゃんと出版されるのか、ちょっと心配。楽しみにしてるんだから。



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拍手レス

文章が鋭く、キレッキレですね。内容も的確ですが、表現もわかりやすいので、すっと腑に落ちます。こんな達意のテキストを、苦渋の跡も見せずに書けるなんて。久しぶりにサイトに来ましたが、お気に入りに入れてて、本当に良かったです。
応援してます。頑張ってくださいね。

ありがとうございます。久しぶりの更新にも関わらず、見捨てず読んでいただいた上に、そのようなお言葉、大変うれしいです……
もうちょっと頻繁に読んでいただけるよう、なるべく、ええとまあ、なるべく更新していこうと思います、ハイ。

『3月のライオン』原作に忠実なアニメと逸脱の面白さの話

アニメ『3月のライオン』の第一話が先日放送されました。

原作のChapter.1から2の最終盤まで(2全部ではない)という大胆な構成できました。二海堂の存在を次回の引きに使ったわけですが、おそらく、原作Chapter.3の若手棋士紹介までの流れをひとまとめにするのかなあと思います。まあ気になってるのは、原作のChapter.2最終ページで何の躊躇もなくジャンクフードを貪り食ってる二海堂の描写に修正を入れるのかどうかなのですが。カットするまではいかないにしても、後にエクスキューズのききそうな、なんらかの描写を足すのかな、と。
さて、第一話(アニメでもChapter表記をしていますが、放送一回分ということで便宜上そう表現しますが)で私が一番グッときたのは、原作では、朝起きてから対局するまでの流れを描いた中でさらっと挿入されている、零が誰もいない対局室に入ったシーンです。原作ではそこまでの流れの中のほんの一コマに過ぎないのですが、アニメではたっぷり尺をとっていました。それまで流れていたBGMを消し、誰もいない対局室の全景をなめるように映し、音がないからこそさやかにそよぐ光や風の動きが映える。大きく静かな川の流れがこちらを呑みこむかのようなシーンに息を飲み、いっそ神聖ささえ感じました。
原作者である羽海野チカ先生は、12巻封入の新刊ペーパーで本アニメについて「真っ向からガチで忠実過ぎる位に原作を「そのまんま」映像として動かして再現して下さっています」と書いています。確かに、各シーンのカットやセリフ回し、デフォルメの描写などを見るに、原作の空気を極力再現しようという意気込みはひしひしと感じられます。同ペーパーにも「だって原作の空気感まで完ペキなんですもの」とありますし、多少のリップサービスを加味しても、それは原作者も認めるところなのでしょう。
けれど、私がグッときたシーンは、むしろ原作の描写から逸脱したものです。前述のとおり、漫画ではさらっと流されているシーンですが、わざわざ尺をとり、漫画にはなかった意味合いを込めている。アニメ制作サイドに、後々の展開を考えれば、ここで対局室、すなわち主人公が人生を賭けている空間に強い意味を与えておきたいという意思があったであろうことがうかがえます。
原作に忠実に作る中でのあえての逸脱。だが、それがいい
勝手なことを言えば、原作に忠実過ぎるメディアミックスなんて面白くないんですよ。忠実に作れば作るほど、じゃあそれ原作見てればいいんじゃない? ってなりますから。特に漫画→アニメのメディアミックスの場合に、それが顕著になります。
好きな漫画に没入しながら読んでいるときは、白黒の中に色は見えてくるし、微動だにしていない中でキャラクターは動きだすし、無音の中で音声は聞こえてきます。もちろんそれは自分にしか見えないし聞こえないものですが、もしその作品が映像化された場合、原作に忠実に作れば作るほど、そのアニメは私的な幻視や幻聴に近くなるのではないかと思うのです。いや、近くなるというよりは、自分の想像から外れなくなる。アニメを見て、「ああ、そんな感じになるよね」という気持ちになってしまう。そんな気がするのです。
正直なことを言えば、あの対局室のシーンがなければ、一話を見て「まあ、続きは別にいいかな」と思ってもおかしくありませんでした。それほど原作に忠実な映像化でした。つまり、それだけ自分の想像の範疇を踏み越えないアニメでした。
もちろん、忠実だから悪いということはなく、原作を知らない人にアニメを見て作品の面白さを知ってもらうなら、原作に忠実であればあるほどいいのかもしれません。ただ、それ「だけ」だと、私には少々物足りない。そういう話です。やっぱりせっかく別のメディアで味わうのだから、別の作り手がかかわるのだから、その作り手のエゴが見えてほしい。こういう作品にしたいという意思が見えてほしい。そういうわがままです。
ただ、やっぱり不思議だなと思うのが、もともとが、静止した絵と、無音の文字の構成を媒体とする漫画を、色のついた動く映像と、声や音、BGMが入ったアニメという媒体に変えても、原作に忠実に作ろうと思えば忠実に作れるのだな、ということです。「そうなるのか!」という驚きではなく、「やっぱりそうなるよね」という納得。そうなる(できる)のが不思議なのです。
鑑賞する際の時間を自分で操れる漫画と、作り手に従うしかないアニメ。この差は以前から考えているものです。漫画は、絵や文字が書いてあるページを自分のペースでめくることができる一方、アニメは、実際に動くキャラクターや音声など制作側が意図した時間の進め方に従わざるを得ません。このように、作品の受け手はその受け取り方に大きな違いがあるのですが、作り方を工夫すれば(今回の例でいえば、原作に忠実に作るということですが)、物語から受け取る印象を極めて近似のものにできるということがわかりました。それは、受け手の時間の感覚は、物語と本質的なところで無関係であるということなのかもしれません。
最後は少し話がそれましたが、アニメ『3月のライオン』におかれましては、今後も原作を忠実に踏襲しつつ、要所要所で「いや、俺はここをこう描きたいんや!」と熱い逸脱を見せていただければと思います。


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『3月のライオン』想像力と気遣いの成長の話

11巻での重たい父親話も終わり、わりかしライトな話の多かった『3月のライオン』12巻。

指宿観光も兼ねた雷堂九段vs土橋九段の棋竜戦、零vs滑川七段の相筋違い角による順位戦、そしてあかりさんのラブフラグを立てた(?)夏祭りと、このくらいの温度の方が何度も読み返すにはいいよねという感じ。正直、前巻までの父親話は胃にもたれたどす。
それはそれとして、将棋の盤上の状況については、もうちょっと説明があってもいいなと思いました。藤本棋竜が土橋九段の指し手に目を丸くした理由とか、vs滑川戦で横溝が二度見した理由とか、駒の動かし方くらいしか知らない人間にはわからんどす。
さて、今巻でハッとしたのは、Chapter.123のこのシーン。

指宿では何か…ただ びっくりした
れいちゃんはそこではもう プロ棋士という世界の中で生きている一人の大人で
皆の期待を受けとめて ちゃんとまっすぐ立っていて
いつもウチでご飯を食べたり遊んでくれるれいちゃんとは
違う人みたいで
彼には彼の住む別の世界があって そこで築いてきた自分の立ち位置があって
私たちがこう 好き放題何かを頼んだり
甘えてはいけない人なんじゃないかって……
少し 気づいちゃったというか…
――でも
でもね 今の私たちにはわかるんだ
――そんな風に 遠慮して 距離を置いたら 
れいちゃんにとって それが とても 淋しい事なのだと
(11巻 p120〜122)

これは、夏祭りの手伝いをまた零にお願いしてもいいものかどうか悩んでいる川本姉妹、特にひなのモノローグですが、彼女らは、プロ棋士としてプロ棋士の仕事をこなしている零の姿を見て、まるで彼が自分達とは「別の世界」に住んでいるかのように感じてしまったのです。けれど思い直します。そのような扱いは零にとって「とても淋しい事」なのだと。
なににハッとしたって、彼女らが、特にひながそう思ったこと、それ自体です。
別にそれは普通のことだろうと思うかもしれません。誰かの内心を想像するなんて当たり前にすることだろう、と。特にひなは気遣いができる子なのだから、それくらいできて当然じゃないか、と。私も、ハッとした後にそう思いました。そして、思ってから悩みました。ひなはそういう子なのに、なぜハッとしたのだろうか、と。
改めて、引用したシーンでの、ひなの気遣いの想像力を考えてみましょう。
彼女はまず、大盤解説を始めた零を見て、「違う人みたい」「別の世界」「私達がこう 好き放題何かを頼んだり 甘えてはいけない人」という印象を抱きました。にもかかわらず、そう思い「遠慮して 距離を置」くことが、零にとって「とても淋しい事」であり「真剣に 私たちの所に飛び込んで来てくれた 彼に対して とても失礼な」ことだと考えるのです。
つまり彼女は、零が「甘えてはいけない人」であるという印象を抱いた、いわばネガティブな臆断を抱いたにもかかわらず、それで目を曇らせることなく正確に零の内心を推し量ることができたのです。自身の想像力を客観的に検証できているといってもいいでしょう。
神ならぬ人の身、他人の内心を完璧に理解することは不可能です。ですから私たちは、日頃の言動から「この人はこう言うときにどう思うだろう、どう感じるだろう」と推測していく根拠を少しずつ見つけ、地道に想像力を構築していくしかありません。やはり神ならぬ人の身、その構築にも主観が混ざらざるを得ませんが、もしそこに過剰なフィルターがかかってしまったら、築かれた想像力も歪にならざるを得ません。
ひならが目にしたプロ棋士としての零の姿は、彼女らの目にかかる濃い色眼鏡となりうるものですが、彼女らはその色の濃さを把握し、というよりはそこに色眼鏡がかかったことを自覚し、正確に零の内心を見据え、きちんと彼に声をかけようと考えるのです。
従前のひなが見せていた気遣いは、「零とはこういう人物だ」という既存の想像力からそのまま導き出されているもので、おそらくそこには自身の想像に対する疑いの眼差しがありません。自分の想像が歪になっていないかな、と省みてはいないのです。
たとえば彼女と零が出会ったばかりの頃。

<――れいちゃんやっぱり 元気ない……
おねいちゃんはああ言っていたけれど…
だけど>
のむ?
<れいちゃんはいつも静かで大人っぽいけれど>
あのねっ 今日は天ぷらなの カボチャとか玉ねぎとか おねいちゃんが揚げるとすっごくおいしいの
<でも泣き虫な所もあるから心配なの ――だから>
うちにおいでよっ 一緒にご飯たべよ?
(2巻 p37〜39)

このときのひなは、零が「静かで大人っぽいけれど でも泣き虫な所があるから心配なの」で彼を家に誘いました。そこに自分の想像が誤っているかもという客観性はなく、そうされたら彼がどう思うかという一歩先の想像もありません。実際、零はその提案を嬉しがりはしますが、それは結果論です。

「れいちゃんにも食べさせてあげたいね どうしてるのかなぁ…」
「もちっとかかるだろうよ いくらガキでも男なんだ プライドってもんがあらあっっ」
「だからそれがっっ わかんないよ〜
いつまでも来ないともう知らないからねっ
………こっちからおしかけて
口においなりさん 詰め込んじゃうんだからっっ」
(4巻 p11)

後藤九段との戦いに手が届くところまできて、ひなたちの前で熱い啖呵を切ったはいいものの、目の前の島田八段の実力を見誤り、大敗北を喫してしまった零。ひなたちに合わす顔もなくしばらく引きこもっていた彼ですが、それに対してのひなの発言が上記のものです。傷心と気恥ずかしさに悶える零の気持ちは、するりと無視しているセリフです。相米二は零の内心を(自分の男としての過去も参照しつつ)想像していますが、ひなはそこに思い至らず、自分の手持ちの想像力だけで零の内心を思い、不可解さを感じています。
このように、12巻以前(より正確には、父親問題終結以前?)のひなには、まだその想像力に幼い部分がしばしば見られたのですが、より自分達の近くに踏み込んできた零を見て、他人の心情の機微の理解と、それに伴って、自分の(というか人間の)思考が主観によって脆くなることを知ったのでしょう。
そして、その零自身も彼女と同様、想像力に成長が見られます。
たとえば3巻で、神宮寺会長から大量の魚をもらい、川本家に持って行けといわれたとき、「こんなに持たされてしまった さばくの大変そう…… かえって迷惑だったらどうしよう……………」と不安がっています。実際のところは、決して裕福ではない川本家のこと、降って湧いた大量の食材に狂気します。また、ひなのいじめ問題の最中には、あわや自分の通帳をもって他所様の家で予算委員会を開催する寸前まで突っ走っていました。父親問題の際の結婚発言もそうですね。
こうして見るとあんま成長していないようにも思えますが、それでも要所要所で、相手の内心を思い自分はどう行動すべきかを考えるようになっています。
受験期のひなに勉強を教えていたときは、彼女が自分の学校に来てくれれば嬉しいと大張り切りで家庭教師を買って出たけれど、もしその時期に自分が将棋の成績を落したらひなが「自分のせい」と思うに違いないと、「一局一局すみずみまで丁寧に指」し、破竹の八連勝を遂げていました。「将棋の成績が落ちたらひなが自分を責める」と想像し、そんなことにならないよう勝負に集中したのです。
また、10巻で久しぶりに幸田家を訪問したときは、幸田母視点ではありますが、零が幸田家の平穏を思って今まで足を向けなかったことが描かれています。零は、香子や歩の内心を想像し、自分と家で顔を合わせることを厭うだろうと考え、あえて顔を出さなかったのです。
想像力とは少し違いますが、12巻でも、家族が夏祭りに出店するために遊ぶ相手がいないモモのために、さらっと二海堂に頼みごとをしています。「一人じゃどうもにもならなくなったら誰かに頼れ ――でないと実は 誰も お前にも 頼れないんだ」とは、零が3巻で当時担任だった林田から言われた言葉ですが、あの誰かに頼ることをひどく苦手としていた零がなんら気負うところなく二海堂に頼みごとをしているところを見ると、彼も成長したのだと思わずにはいられません。

その時 はっと あかりさんたちが浮かんだ
ぼくは 遠慮する事にばっかり気をつけて 実は
彼女たちに頼られた事って
一回だって
――そうだ… 一回だって…
(4巻 p176、177)

いみじくもここで零自身が気づいていた通り、相手に遠慮をしていては、頼ることを恐れていては、相手から頼られることはありません。成長した零が、二海堂や川本家に頼ることができるようになったから、川本姉妹も同様に、零に遠慮をしそうになったところで思いとどまり、頼ることができたのでしょう。
この作品の主人公は零ですが、変わっているのは彼だけでなく、多くの登場人物が変化していく物語です。人は変化し、その変化がまた別の誰かに影響し新たな変化を生み、そしてその変化がまた波及していく。人と人とのつながりは、良くも悪くも人に変化を強いていく。繋がりの糸で紡がれた織物の中で、零やひなたちは、これからもどんな変化を織り上げていくのでしょうか。
ところで、12巻最終話で見つめ合っていた林田先生と島田八段ですが、あなたたち、見つめ合う相手が違うんじゃないんですかね……



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『シン・ゴジラ』ミニマムな物語とマキシマムな映像の話

シン・ゴジラ観てきた。うおー!うおーーーーーーー!!!!!
ということで感想を書きます。あまりまとめる気も無く、感情の赴くままに。
ネタバレも何もない作品な気がするけど、当然内容には触れているし、そもそも観てないとあんま意味の分からない文章なので、観てない奴はまず映画館に行ってこい。話はそれからだ。

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『ベルセルク』世界を前に立つ「普通」の人間の美しさの話

ベルセルク』38巻が発売されました。『HUNTER×HUNTER』33巻も発売されました。これは今年、何かある。蝕か?

ベルセルク』38巻では、同窓会のようにかつてのキャラクターが登場したり、人間サイズの派手な戦闘があったり、妖精郷にガッツ一行が辿り着いたりと、色々見所がありましたが、何よりの見所は、リッケルト。蝕を生き延びた鷹の団、その中でも贄になっていない唯一の人間リッケルトが、第5のゴッドハンド・フェムトとして転生しながら、現世に受肉したグリフィスと再会しました。そのときのリッケルトの反応。あれこそが、この巻の最大の白眉であると、私は思います。
グリフィスに会い、22巻の、剣の丘での問いの答えを聞かれ、その返答として平手打ちをしたリッケルト。『ベルセルク』の世界において、主役でもその仇でもなく、特異な能力も持っておらず、物語の重要なカギを握るわけでもない、少し目立つだけの端役と言って過言ではない彼が、世界の変革を成し遂げたグリフィス、いわば物語の中心であるグリフィスを前にして、その中身がなんであれ、一つの答えを示したあの姿に、私は強い感動を覚えるのです。
グリフィスとの戦いにより、二度の転生を経て終わりの魔獣と化したクシャーンのガニシュカ大帝が消滅し、理が破壊されてしまった世界。お伽噺に過ぎなかったはずのトロールなどの化け物が跋扈するようになり、民衆から平穏が奪い去られた世界。
世界の在り様が大きく変わってしまうという、非常にスケールの巨大な物語。それが『ベルセルク』です。当初こそ、人外の魔物を血みどろになりながら狩っていくという、ただの血生臭いだけのダークファンタジーという様相でしたが、過去編で語られた蝕とゴッドハンドの存在は、世界の根源に触れるものであり、世界の理、神の定めた運命とでもいうべきもの。しかし、人の身でありながらそれに挑むガッツという、圧倒的な規模の物語が、途中からはっきりと見えてくるようになりました。蝕の中でなす術なく贄となっていった鷹の団の面々は、世界の理に抗えない、抗っても爪一つたてられない弱い人間として描かれており、彼らと対比する形で、運命の大渦に呑みこまれまいとするガッツと、その渦から身を離し世界の側に身を置いたグリフィスという、対極の両者が鮮やかに浮かび上がったのです。
リッケルトは、その両者のどちらにも寄ることのできない、矮小な普通の人間です。物語の、世界の根源には触れえない人間です。それでもその彼が、世界の理を前にして、自分の意志でもって、一つの答えを出しました。憧れと、安寧と、恐怖と、切望と、様々な感情を、グリフィスと言葉を交わす直前まで胸に溢れさせながら、いざ面と向かったときに迸ったものは、自分への怒り、悔しさ、情けなさ。そして、訣別への強い決意。
大きな物語のなかで答えを出す。それは作り手にとって、その舞台を作ることだけで、非常に大きなエネルギーを必要とするものだと思います。それが、主人公ならざる矮小な一人の人間のためのものであるならなおさら。矮小な存在がそれでもなお世界を前にしてで屹立できるようにするには、いったいどれほどの舞台が必要なのでしょうか。物語の文脈。キャラクターの深み。微細な感情を表現しうる画力。語りすぎない台詞回し。そのどれか一つでも欠けてもしまえば、大きな物語の圧倒的な重力は、矮小な登場人物を瞬時に圧潰させてしまいます。
世界を前にして、奇跡のように真っ直ぐ立っていたリッケルト。その姿は、それだけで感動に値するのです。


受肉したゴッドハンドとなり、人間だった時の夢を叶えんとするグリフィス。彼を討ちたい思いとキャスカを助けたい思いに引き裂かれるガッツ。そして、その狭間で生きる普通の人間たち。異なる色の物語が交錯するこの作品、次の巻の発売が来年だというアナウンスには待ち遠しさが止まらないし、それ以上に来年発売とか信じられるかボケェ!という思いがキャントストップ。本当に出るのかなあ……


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理想の嬉し恥ずかしドッキリ怠惰な大学生活『惰性67パーセント』の話

大学生活。それは本人の心がけ次第でいかようにも変わるもの。勉学に励むもよし。交友関係を広げるもよし。海外に出て見聞を深めるもよし。怠惰の極みを尽くしてもよし。そして、なんとなくうすらぼんやりと過ごしても、まあよし。
吉澤、北原、西田、伊東の四人は、講義をさぼるでなく、さりとて真面目に出席するでもなく、なんとなく大学生活を過ごし、なんとなくつるんで、なんとなく飲んだり遊びに行ったりと、なんとなく楽しい毎日を暮らしている。まあ、長い人生少しくらいはこんな日々があってもいいんじゃないかな……

ということで、紙魚丸先生の『惰性67パーセント』のレビューです。男女四人の大学生たちによる、なんら生産性なく毎日を惰性でぐうたら過ごすような、なんとも素敵な日々。もちろん、講義に出席したり学校の課題をやったりと、生産的なこともしていないわけではないのですが、そういうシーンはおおむねばっさり切り落として、モラトリアム此処に極まれるというようなだらだらした人間模様を描いています。
連載第一話が、女性(吉澤)のアパートに初対面の男子二人(西田と伊東)を女友達(北原)が連れ込んで、家主の描いたエロ漫画に登場する男性器について指導を仰がせる、という羞恥プレイにもほどがあるスタート。そこで微妙な空気にこそなれピンク色の空気には発展しないあたり、後の、男女の意識がありそうでないけど実は少しある、雑ながらも居心地のいい人間関係を予想させます。実際、その後の彼らは、アパートでゲームをしたり、まとまりのない具材でカレーを作ったり、エロ本の隠し場所で盛り上がったり、新年をぐでんぐでんに酔っぱらって迎えたり、スキー旅行に行った先に締め切りをぶっちぎっているレポートを持って行ったり、ハプニングエロスに見舞われたり。親友と呼ぶには気恥ずかしく、ただの知り合いと呼ぶには居心地が良すぎる。ふとした拍子にあっさり一線を越えてしまいそうな、でもその一線はやたら太く丈夫そうな。
正直なところ、そのテのモラトリアム大学生を描いた作品はいくらでもあると思うのですが、この作品の不思議な魅力は、それを読んでいる私が、彼らを年上と思っている点です。
大ざっぱに言って漫画は、作品世界に没入する作品としない作品、別の言い方をすれば、登場人物の目線で読む作品と「今・ここ」の私自身の目線で読む作品、とに二分できると思うのですが、この作品はそのどちらにも当てはまらず、大学生である登場人物たちを「いつかこういう学生生活を送りたい」と見上げるという、作品世界の目線でもなければ今・ここの私の目線でもない、十代後半の私の目線が、なぜか浮かび上がってくるのです。
通学途中で寄り道をしてなぜかひと山越えてアイスを食べに行く羽目になったり、炬燵を囲んで蜜柑を食べながらしょうもない話をしたり、思いつきで声をかけて外食に行ったり。そういう彼らを見て、「こんな大学生活を送りたかった」という過去形ではなく、「こんな大学生活を送りたい」という未来形で思ってしまうのです。
幸いこの感覚は私だけではなかったようなのですが、なぜそんな不思議なことが起こるのか。
思うに、誤解を恐れず言えば、この作品で描かれている世界は現実的なくせに全然リアルじゃないんですよ。現実というキャンバスに描かれた大学生活の理想なんですよ、イデアなんですよ。高校生の自分が、大学に入ったらこんな面白くだらない大学生活を送りたいと夢見たような、現実には存在しないであろう、でもひょっとしたら自分の身には起こってくれるんじゃないかそうだきっと起こってくれるに違いないヒャッホー待ってろバラ色の大学生活!と信じていた妄想世界の具現化。それが実に美しく出来上がっている。
話していて楽しいに違いない軽妙な会話だとか、ちょっと声をかければ気軽に集まれる距離感だとか、友情を壊さない程度のハプニングエロスだとか、ありえんありえん、そんなもんはありえん。でも、ありえんもんだからあってほしいと、高校の性の私は夢想した。
そう、この作品を読むときの私は、たぶん高校生に戻っている。純度の高い妄想大学生活が、それを夢見ていた高校時代の私にすこんとはまる。高校生の私が目を覚ます。
いいなあ、いいなあ……こんな生活を送りたいなあ……。
高校時代に怠惰楽しい大学生活を夢見ていた人には是が非でもお薦めしたい。きっとあなたの高校生も目を覚ます。
惰性67パーセント 第1話
ところで、2巻の帯折り返しは、ずいぶん集英社思い切ったなと思いますね。同じ作者とはいえ、それをあわせて紹介するか……


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